学位論文要旨



No 113096
著者(漢字) 遠藤,元
著者(英字)
著者(カナ) エンドウ,ゲン
標題(和) タイにおける首都-地方都市関係の地理学的研究 : 流通業の展開に注目して
標題(洋)
報告番号 113096
報告番号 甲13096
学位授与日 1998.03.09
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3324号
研究科 理学系研究科
専攻 地理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 荒井,良雄
 東京大学 教授 末廣,昭
 東京大学 教授 米倉,伸之
 東京大学 教授 谷内,達
 東京大学 助教授 松原,宏
 東京大学 助教授 永田,淳嗣
内容要旨

 タイの首都バンコクはその首位性が国際的にみても際立っている。そのため、従来のタイ研究が地方都市を取り上げる場合は「首位都市卓越論」の枠組みの中で論じることが多く、例えば、政治権力や政策決定の権限が首都に集中していることを根拠に、バンコクと地方都市は支配-従属の関係にあるとみなしてきた。しかし、こうした先行研究は、都市を成り立たせる上で重要な役割を担う企業の主体的行動をほとんど考慮せず、とりわけ、地方都市の重要な経済主体の一つである地方実業家の役割を無視するか、あるいは、その役割を「商人資本家」や「従属的資本家」と規定することによって否定的にしか評価してこなかった。本研究の目的は、先行研究で等閑視されてきた地方実業家(ないし地方企業グループ)の主体的行動に注目し、地方企業と中央の大手企業との間の企業間関係を軸に、バンコク-地方都市関係を解明することである。

 まずI章では、地方実業家に関する先行研究を批判的に検討し、次の2つの論点を抽出した。第1に、地方実業家の存在形態を商人資本家や従属的資本家、あるいは「ヂャオ・ポー」(権勢家)として静態的に規定せず、むしろ地方実業家を取り巻く国内・国際経済環境、政治権力構造、政府の経済・産業政策、域外資本との関係などの変化に注目しつつ、彼らの主体的対応の過程、換言すれば、地方実業家の事業展開の動態的側面を実証的に論じることである。第2に、地方実業家と政治・行政上の権力者との間の個人的かつインフォーマルな関係だけでなく、地方業界団体の結成など地方業界における組織化の展開とその背景についても実証的に論じることである。

 次のII章では、地方実業家の事業展開の実証分析に進む前に、マクロデータによってタイにおける地方都市と地方経済の位置づけを試みた。そこでは、(1)バンコクの首位性は揺るぎないものの、地方都市の実質的な人口規模は公式統計が示すよりも大きいこと、(2)生産構造をみると、工業部門はバンコク首都圏および近隣地方に集中し、地方では農業のほかは非工業部門の割合が高いこと、(3)工業の地方分散化政策によって地方への投資も進みつつあるが、それ以上に地方の経済社会に対してインパクトを与えているのは民間金融機関による融資の増大であり、特に、商業・サービス業部門、不動産部門、消費者金融部門の割合が大きいこと、(4)(3)の原因であり結果でもあるが、地方都市の消費市場はその地理的広がりという点で限界を有しながらも、従来考えられてきた以上に成長していること、などが見い出された。

 III章では、このような地方経済の担い手である地方実業家(ないし企業グループ)について、北タイのチエンマイを事例に、その起源、事業展開、および政治的行動の観点から概観した。その結果、チエンマイの実業家は次の3つのカテゴリーに大別できた。第1のカテゴリーは、一般の流通業(例えば百貨店)など法規制や事業上の特権がほとんどない事業である。この分野の企業グループの中にはバンコクの大手資本との競争激化の中、積極的に自己変革を進めるものがある。第2のカテゴリーは、自動車(およびその他耐久消費財)のディーラー、食品加工業、運送業などである。この分野の実業家は、第1のカテゴリー以上に当該地方の流通ルート・市場情報の掌握や有用地の占有など地方資本としての優位性を保持している上に、バンコクの大手資本から販売や加工などの業務代理機能を委託されているために、概ね従来どおりの事業基盤を有している。そして、第3のカテゴリーは、政府の許認可を不可欠とする資源利用型事業や建設請負業などの分野であり、先の2つのカテゴリーに比べて事業基盤の変化が小さいか、あるいは観察しにくい。しかし、この分野の事業についても、近年許認可取得が困難になる傾向にあり、また、事業拡大の桎梏となる地方市場の狭隘性を克服するために、事業の地理的拡大や多角化を図る企業グループがあるなど、新たな展開がみられる。一方、政治的行動の観点からみれば、上記第3のカテゴリーの事業分野を中心に、従来どおりインフォーマルな政治的影響力を行使して事業拡大を図る実業家が存続しているが、同時に、県商業会議所など地方レベルの業界団体を結成し、フォーマルな組織的行動を通じて経済環境の変化に対応しようとする実業家が並存していることがわかった。

 IV章とV章では、III章でいう第1のカテゴリーに含まれる地方流通企業(特に大規模小売企業)を取り上げて詳細に検討することにした。その理由は、(1)地方都市の主要な実業家ないし企業グループの多くが商業を主要事業としていること、(2)1990年前後からバンコクの大手流通資本が地方都市進出を開始したことに伴い地方流通業界の再編成が急速に進行し、その過程で地方小売企業は様々な対応策を講じて自己変革を図っていること、そして、そうした変化は程度の差こそあれ他の事業分野にも共通していること、(3)流通業特に小売業は当該地域の消費生活との接点に位置する産業であり、当該地域の経済社会の供給側面だけでなく需要側面を把握する糸口になること、さらに、(4)地方の流通業者の中に、地方レベルの組織化を図り大手資本の進出に対抗しようという注目すべき動きがみられること、などである。

 まずIV章では、大手流通資本による地方進出のインパクトとそれに対する地方流通企業の組織的対応について、地方百貨店業者が結成した「PDSクラブ」を事例に検討した。その結果、次のことが明らかになった。1980年代末以降の投資ブームと経済高成長の中、バンコクの大手流通資本グループ間の競争が激化し、企業グループ間の合併などを伴いながら、その競争はやがて消費市場としての魅力を高めつつあった地方主要都市をも巻き込んで展開されるようになった。そうした状況下、それまで都市ごとに分節化した消費市場を舞台に、互いに無関係に営業していた地方百貨店業者が地方横断的な業界団体PDSクラブを結成し、大手資本の進出に備えた。その後、大手資本の地方進出が本格化すると、PDSクラブ会員有志が中心となり、通常の業界団体の活動を越えて、独立した地方企業間の「水平的グループ化」を図った。しかし、法規制や許認可などによって保護されていない当該業界では変化のスピードが予想以上に速く、また、組織上の脆弱さを露呈させたためにその試みは現在低迷している。ただし、業界団体としての組織力を低下させていようとも、個々の会員企業自身はそれぞれ、各地方ないし県レベルでは依然として主要な流通業者ないし流通企業グループであることに注目すべきである。

 そこでV章では、地方資本の対応の過程を個別企業グループレベルで検討した。事例として、大手資本の進出が最初に本格化した地方主要都市チエンマイを選び、その代表的な流通企業グループ「タントラーパン」の事業展開と対応の過程に焦点を当てた。その結果、次のことが明らかになった。バンコクの大手流通資本がチエンマイに進出してきた当初、タントラーパングループは同様のプロジェクトを推し進めるなど強引な対抗策をとった。しかしこの巨大プロジェクトが原因で同グループの財務状態が悪化し、結局は、これまで主要事業であった百貨店経営からの事実上の撤退を余儀なくされた。同グループはこれを契機に大手資本との直接的競合を回避し、場合によっては積極的に大手資本との提携を進めるようになった。一見すると、同グループは地方資本としての自立性を喪失しつつあるようにみえるが、一概にそうとは言い切れない。なぜなら同グループは、地元商業地区の土地をはじめ地域市場情報・販売ルートおよび地元の人的コネクションなど、地方資本が長期にわたって培ってきた固有の経営資源を依然として保持しており、それを基盤に大手資本との間で経営資源の補完関係を築く一方、業態ごとに提携先のグループを峻別することによって特定の資本系列に入るリスクを戦略的に回避しているからである。また、競争の激しい地方都市商圏からはずれた外縁部で新業態を展開するなど、地方資本の利点を活かしたニッチ市場の開拓を図っている。さらに、グループ事業の変化に対応して、所有と経営を限定的にせよ分離するなど従来のファミリービジネスからの脱皮を遂げようとしている。タントラーパングループに限らず、大手流通資本の進出など劇的な変化が生じた地方都市では、従来の経営資源を活かしつつ、戦略的提携・ニッチ市場開拓・経営改革など様々な方法によって自己変革を図る企業グループが少なからずみられるのである。

 以上の分析結果を踏まえて、最後のVI章では、企業間関係からみたバンコク-地方都市関係の変化を議論した。その結果、最も経営環境の変化が激しい流通業の分野(III章で述べた第1のカテゴリー)については次のことがわかった。従来、バンコク-地方都市-郡レベルの町-農村といった地域レベルごとに市場が分節化し、各地域レベルの流通業者は同じ地域レベルの同業者との間では激しく競争するものの、異なる地域レベルの流通業者やサプライアーとは信用機能と販売代理機能とによって連鎖的に結ばれていた。こうした流通業者・サプライアー間の一種の相互依存関係を重要な軸の一つとして、都市間の経済的関係も成り立っていた。しかし現在、この静態的な関係が部分的にせよ崩れつつあり、大手流通資本、大手消費財メーカー、そして地方流通企業グループなどが地域レベルの境界を越え、それぞれの利害に応じて互いに競争と提携とを展開する動態的な関係へと移りつつある。それに伴い、これら企業間関係からみた都市間関係、とりわけバンコク-地方都市関係は複雑さを増しながら緊密化している。III章でいう第2および第3のカテゴリーの事業分野については、この第1のカテゴリーほど顕著な変化はまだみられないが、程度の差こそあれ、同様の傾向にある。このように考えると、「首位都市卓越論」の枠組みで説明されてきた地方都市論には異議を唱えざるをえない。なぜなら、この枠組みが軽視してきた、大手資本と地方資本の関係性や地方資本の主体性に着眼すると、首位都市-地方都市関係は「支配-従属関係」というよりむしろ、「相互依存関係」から「企業間の競争と提携に基づく動態的な関係」へと移行しつつあるとみなすことができるからである。

審査要旨

 本研究の目的は、従来、いわゆる「首位都市卓越論」の枠組みによって理解されてきた発展途上国の地域構造を、そのもっとも典型的な場合とされているタイを事例として再検討し、「首位都市卓越国」における首位都市-地方都市関係を新たな視点から理解しようとする試みである。

 一国の政治経済の実質的中心である首位都市のみが巨大化し、他のあらゆる地方都市から著しく卓越する現象は、多くの発展途上国で観察されている。首位都市卓越論はこのような都市システムの構造が途上国特有の社会経済構造と相互に連関して国内の地域構造が形成されているとする視点である。タイの首都バンコクはその首位性が国際的にみても際立っているため、従来の多くの研究では、タイの地域構造は首位都市卓越論の枠組みの中で理解され、首都バンコクと地方都市は支配-従属の関係にあるとみなされてきた。近年、タイの地域研究においても地方都市に対する関心は高まっているが、その多くはマクロ経済的視点と局所的な実態の紹介に止まっている。これに対して、本研究では、先行研究で等閑視されてきた地方実業家ないし地方企業グループの主体的行動に注目し、地方企業と中央の大手企業との間の企業間関係を軸に、首位都市卓越論の枠組みを超えた首都-地方都市関係の視点を提示しようとしている。

 まず第1章で先行研究を批判的に検討し、続く第2章でマクロデータによってタイにおける地方都市と地方経済の位置づけを行った。その上で第3章では、北タイのチエンマイを事例に、地方実業家をその起源、事業展開、および政治的行動の観点から概観した。その結果、チエンマイの実業家は次の3類型に大別できた。第1類型は、一般の流通業など法規制や事業上の特権がほとんどない事業である。第2類型は、自動車ディーラー、食品加工業、運送業などの分野で、当該地方における地方資本の優位性を背景として、バンコクの大手資本から販売や加工の業務代理機能を委託されている。第3類型は、政府の許認可を不可欠とする資源利用型事業や建設請負業などの分野である。

 第4・5章では、第3章でいう第1類型に属し、1990年前後から再編成が急速に進行している地方流通企業を詳細に検討した。その結果、次のことが明らかになった。バンコク資本の進出に対抗して、地方百貨店業者は地方横断的な業界団体「PDSクラブ」を結成し、さらに、通常の業界団体の活動を越えて、独立した地方企業間の「水平的グループ化」を図った。法規制や許認可などによって保護されていない業界であることもあって、現在その試みは低迷しているが、それでもなお個々の会員企業自身はそれぞれ各地方レベルでは依然として主要な流通業者ないし流通企業グループである。

 そこで次に、チエンマイの代表的な流通企業グループ「タントラーパン」を取り上げ、個別企業グループの行動を分析した。その結果、大手流通資本の進出など劇的な経済環境の変化の中で、タントラーパングループは従来の経営資源を活かしつつ、戦略的提携・ニッチ市場開拓・経営改革など様々な方法によって自己変革を図ろうとしていることがわかった。

 以上の分析結果を踏まえて、最後の第6章では、企業間関係からみたバンコク-地方都市関係の変化を議論した。その結果、最も経営環境の変化が激しい流通業の分野(第1類型)については次のことがわかった。従来、バンコク-地方都市-郡レベルの町-農村といった地域レベルごとに市場が分節化し、各地域レベルの流通業者は同じ地域レベルの同業者との間では競争するものの、異なる地域レベルの流通業者やサプライアーとは信用機能と販売代理機能とによって連鎖的に結ばれていた。こうした流通業者・サプライアー間の一種の相互依存関係を重要な軸の一つとして、都市間の経済的関係も成り立っていた。しかし現在、この静態的な関係は崩れつつあり、大手流通資本、大手消費財メーカー、そして地方流通企業グループなどが地域レベルの境界を越え、それぞれの利害に応じて互いに競争と提携とを展開する動態的な関係へと移りつつある。第2・第3類型の事業分野についても、程度の差こそあれ、同様の傾向にある。したがって、今日のタイにおける首位都市-地方都市関係は、もはや首位都市卓越論の枠組みに立脚する支配-従属関係では捉えられず、「相互依存関係」から「企業間の競争と提携に基づく動態的な関係」へと移行しつつあるとみなすことができる。

 以上、本論文の提出者遠藤 元は、タイでの長期にわたる現地調査において、膨大な現地語文献の収集や面接調査を通じて、従来、現地人研究者にすら把握されていなかった豊富な実証データを収集・分析することによって、首位都市の大手流通資本と地方流通業者との競合関係をダイナミックに描き出した。この研究は、首位都市卓越論を超えた新たな発展途上国地域構造論の可能性を切り開き、今日急速に変貌しつつあるアジア新興国の地域理解に画期的な視点をもたらしたという点で、地域地理学の発展に大きく貢献するものである。よって遠藤 元は、博士(理学)の学位を授与される資格があると認める。

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