本論文は、李叔同(り・しゅくどう)(1880-1943)と豊子(ほう・しがい)(1898-1975)という民国期の教育者師弟に焦点を当てて、中国における初期の西洋美術受容の流れをくわしく跡づけるとともに、そこに見られる西洋と中国の伝統的な美術観の深刻な対立の諸相を明らかにしたものである。李・豊の両名は、いずれも日本で西洋画とその制作方法を学び、のち中国で写生による洋画教育の導入に決定的な役割を果たした人物として知られている。しかし、その後はどちらも洋画を離れて中国の伝統に回帰し、西洋美術に対する東洋文人画の優位を強調するようになった。そして、その議論のきっかけと拠りどころを提供したのは、やはり当時の日本でさかんに主張された東洋美術の優位論である。 したがって本論文は、日本を仲介とした中国の西洋美術受容史の第1ページを実証的にたどり、中国と日本における反応の対照的な違いを浮き彫りにするともに、東西の芸術観・芸術家観の根底的な差異を比較文化論的に検証した論考として、大きな意義をもっている。李・豊の両名は、その名声にもかかわらず、西洋美術導入者としての業績や意義について、また日本留学時代の活動と成果について、これまでまとまった研究がほとんど無かった。その大きな理由は、ふたりの洋画作品その他の資料が少なく、またかれらの洋画制作時期自体が短かったことにある。本論文は、まさにそうした作品の乏しさや洋画からの「転向」そのものに、根本的な問題がひそんでいることを初めて明らかにしたという点で、きわめて独創的である。 李叔同は東京美術学校で洋画を習い(1906-11)、帰国後は教育に従事して、中国に初めて石膏デッサンや人体デッサンといった正規の洋画習得法をもたらした。一方、民国期の初頭に浙江第一師範学校で李に教わった豊子は、五四運動前後に頭角をあらわし、1921年に美術修業のため日本に渡った。年末に帰国したのちは、主に美術批評、西洋美術理論の紹介などをさかんに発表し、美術界にかなりの影響を及ぼした。 本論文は2部構成で、第1部は李叔同、第2部は豊子に充てられ、終章で結論が述べられる。第1部は2章からなり、第1章では日本留学期における李叔同の洋画への接近、第2章では帰国後の洋画から書への転向が扱われる。第1章1「東京美術学校入学前」では、李が渡日後に描いた水彩画、留学生仲間の雑誌に掲載した論文、単独で発行した雑誌などから、彼の洋画学習が跡づけられる。西洋美術を新しい絵画の方法として意識し、中国美術を批判する態度も見られる。2「東京美術学校入学後」では、漢詩の結社「随鴎吟社」に参加し、音楽を習い、洋画を学び、かつ演劇にも熱中するという、李の多岐にわたる活動が述べられる。けっして洋画だけに集中していたわけではないが、演劇活動から離れたのち、白馬会第12、13回展に洋画を出品したことが特筆される。いま所在が確認されている李の油絵は数少いが、筆者が直接見ることができた東京芸術大学資料館所蔵の「自画像」や数点の写真版(日本で出会った夫人を描いた「女」、「朝」、白馬会出品作の「朝」)からは、李が洋画の写実的表現に挑戦し、印象派的な描写法を採用したことが窺える。点描を試みているが、それに徹底しているわけではなく、新聞でも大胆だが造形的・技法的な根拠、裏付けがないと評されている。 帰国後、浙江第一師範学校などで芸術教育に携わり、中国で初めて石膏デッサンや裸体人物デッサンを紹介したことは、画期的な事件といえる。しかし李自身は次第に洋画から書に関心を移していった。1913年に学生たちと作った雑誌『白陽』は、西洋美術や音楽のほか、書や篆刻などの記事を載せ、全文が李の書で記されている。また李は文人集団「南社」に加わるなど文人への傾斜を強め、のち出家してからは、書の制作をもっぱらにするようになった。 第2部は4章からなる。第1章では、西洋美術受容がさかんになる五四運動期の様相が、豊子に即して概観される。豊は従来の絵画習得法である「臨」を攻撃し、写生を主張した。これは当時の伝統文化批判と軌を一にするもので、政治的な意味を含んでいる。豊の日本留学は1年足らずで、洋画の習得には短過ぎるが、彼も李と同様、洋画の制作には専念せず、展覧会を見てまわり、日本語を習い、西洋音楽を学んだ。日本滞在中の大きな収穫は竹久夢二の作品に出会ったことで、夢二初期の毛筆による略筆画は、のちに豊が手がける風俗画のスタイルに決定的な影響を及ぼすことになる。第2章では豊の絵画創作に焦点が当てられ、陳師曽、竹久や蕗谷虹児らの影響が論じられる。豊は夢二作品の「詩的意味」に惹かれて、日常生活の情景に題材を求めはじめる。またごく一時期だが、やはり抒情的な画家・詩人である蕗谷虹児にも傾倒した。 第3章では、豊の西洋美術研究の頂点としてのゴッホ論が取り上げられる。豊が1929年に出版した伝記『谷訶生活』は、黒田重太郎の『ワン・ゴオグ』(1921)に依拠するもので、この両著の比較を通じて、豊がゴッホを東洋的な画家としてとらえていること、そしてすでに黒田の原著自体に、そうしたゴッホ像が認められることが明らかにされる。西洋画の極致を示すゴッホが東洋風に傾いたという認識が、豊に東洋的伝統の再評価を促し、ひいては東洋美術優位論の強力な論拠を提供することになる。 第4章では、洋画から出発した豊の「転向」が、理論的側面から改めて検討される。こうした東洋回帰は当時の一般的傾向でもあり、五四期に批判を受けた伝統文化の再評価の動きとともに、中国美術の優位がさかんに主張されはじめた。豊はその代表的な論客である。彼は「中国美術在現代芸術上的勝利」(1930)で、印象派美術が東洋の影響を受けたことや、西洋の美学概念である「感情移入〕が東洋の「気韻生動」に及ばないことを根拠に、中国美術の「勝利」を説いている。豊は帰国後、はやくも西洋と東洋の美術を相対的に把握しようとする論文を書いており、この傾向にさらに拍車をかけたのが、思想的・宗教的な画家としてのミレーやゴッホへの深い傾倒であった。そういう彼の議論もやはり、当時日本の美術界を動かしていた東洋回帰の思想の感化によるものであり、彼が引用する園頼三、金原省五、橋本関雪など、日本での言説がさまざまな形で中国に伝わって、その美術界を揺るがしたことは注目に価する。 東洋美術再評価の動きは、日本では萬鉄五郎や橋本関雪らが洋画から日本画に移るという現象を招くが、中国ではより徹底した伝統回帰が行なわれた。豊子と同様に日本で美術を学んだ汪亜塵、関良、丁衍庸、陳之仏らがその典型で、劉海粟や徐悲鴻にもその傾向が見られる。かれらはそれぞれに伝統を最認識し、あらたな境地を切り開いて行くが、ここで中国の西洋美術受容がひとつの区切りを迎えたといえる。その後日中両国で、東洋美術優位論がナショナリズムに結びついていったことも見逃せない。 終章では以下の結論が述べられる。(1)李叔同、豊子が洋画だけに集中しなかったのは、優れた人格にもとづく総合的な学芸の修得を重んじる文人的な価値観に従っていたからである。この見方によれば、西洋にみられるような専業の画家はたんなる職人にすぎず、文人には受け入れがたいものである。(2)文人にとって書画一致は自明であり、豊・李ともに書画の分離は問題にならなかった。これは、日本で早くから書と画の分離が意識的に実践され、書の要素の排除から「日本画」が生まれたのとは対照的である。その後中国でも、書とは異なる線を絵に導入し、洋画の「描き重ね」の技法を応用した林風眠の試みなどが見られるが、なお書と画の問題は根強く残っている。(3)現代絵画は自己表現を旨とするが、東洋文人画と西洋絵画の自己表現は同じものではない。例えば前者は後者と異なって、あくまで自然から離れることがない。(4)東洋回帰の現象が、日本より中国でずっと徹底的で大規模だったのは、周辺意識の強い日本とは異なって、中国では伝統的価値観によって西洋文化の相対化をはかろうとする傾向がいちじるしく、しかも西洋諸国による侮辱的な扱いへの反動が大きかったからであろう。 このように本論文は、西洋美術の移入という具体例を通して、圧倒的な西洋文化の攻勢に対する中国の伝統文化の対応のしかた、受容と抵抗の諸相をさまざまな角度から明らかにし、ひいては東西の文化接触・文化摩擦という問題にあらたな認識を促す優れた論文である。論点を大きく文人画と文人観の一点にしぼったのも適切な判断で、写生に対する極端な抵抗や、東洋的画家としてのゴッホ像や東洋画優位論の背景として説得力がある。日本留学時代の李叔同と豊子の足跡や、その後も続く日本美術界への関心とその影響についても、数々の新しい知見が提示されている。文章は的確で読みやすく、調査がこまかやかに行き届き、資料の引用もていねいである。 ただし、先駆的な論文に言及していない点や、欧米の文献が乏しい点、全体のしめくくりがやや唐突な点などに、今後の改良が望まれる。また強い衝撃を与えた写生については、外来の技法というよりは、むしろ忘れられた伝統という面があるのではないか、また同様に文人画への転向についても、たんなる安易な後退ではなく、むしろ積極的な再発見の要素を含んではいないか、などの指摘があった。 とはいえ、それは本研究の価値を損なうものではなく、審査委員会は、論文審査の結果として、本論文を博士(学術)の学位を授与するに値するものと判定する。 |