学位論文要旨



No 113108
著者(漢字) 黄,東蘭
著者(英字)
著者(カナ) ホアン,トンラン
標題(和) 近代中国の地方自治と明治日本
標題(洋)
報告番号 113108
報告番号 甲13108
学位授与日 1998.03.13
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第137号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 平野,健一郎
 東京大学 教授 石井,明
 東京大学 教授 岸本,美緒
 東京大学 助教授 斎藤,誠
 東京大学 助教授 村田,雄二郎
内容要旨

 本論文は、近代中国の地方自治に対する日本の影響を文化の受容・変容の問題として実証的に検証するものである。地方自治という語は、時に中央集権体制に対抗する武器として説かれ、時に単に国家の行政事務を市町村などの地方団体に分担させる、いわば国家にとって都合のよい意味合いで使われ、必ずしも明確な概念とはなっていない。敢えて最大公約数的に言うならば、「ある一定の地域に住む人びとが自らの意思によってその地域の公共事務を処理する」のが地方自治であろう。

 清朝支配の最後の十年間に行われた立憲改革が明治憲法体制に範を取ったのと同じく、清朝の地方自治制度も明治日本の地方自治制度をモデルにしたものである。いわゆる「日本型」地方自治は、国家の末端行政機構として機能する制度であると同時に、地方名望家の政治参加の場でもあった。すなわち、市町村団体を「内務省-府県-郡-(市)町村」の垂直的な行政体制の末端機構とする支配の側面と、「府県会-郡会-(市)町村会」を通じて地方の名望家を体制側に吸収する動員の側面の両面を持つものであった。もちろん、この両者がつねに均衡する関係にあったわけではない。国家による社会再編成-自然形成的村落を国家の近代化政策を担う行財政機能をもつ行政村へと再編すること-は、近代国民国家建設の一環としてより重要であり、明治日本の地方自治制度は、明治国家を根底から支える重要な制度であったのである。清末期の中国は、明治前半期の日本と同様に、弱肉強食の世界で生き残るため、近代国家建設の必要に迫られ、国内においても一連の近代的制度改革を実行することを課題とした。新たな地方自治制度の発見・形成もその代表的な課題の一つである。

 本論文は、ヨーロッパ・日本の地方自治制度はいかなるものであったのか、それと中国の在来の政治制度改革論との間にどのような思想的接点があったのか、二十世紀初頭の中国人はなぜ日本の地方自治に関心を持ち、それをモデルに選んだのか、彼らはそれをどのように受け入れ、中国に紹介したのか、また、日本の地方自治が中国に導入された際に生じた制度的変容とその原因は何か、さらに、二十世紀中国の政治において明治地方自治の導入がどのような意義を持つかなどの問題を解明することを目的とするものである。

 第一部は予備的考察である。政治学・行政学における地方自治の概念、およびトクヴィル、シュタイン、グナイストの三人に代表される近代地方自治の三つの理論の流れを把握し、近代地方自治の発祥地である西ヨーロッパのイギリスとドイツの制度を比較し、地方自治の「英米型」と「大陸型」の主な特徴を概観する。そこでは「ヨーロッパ」や「近代」はけっして一つではないことが示唆される。そして、ドイツ・プロイセンの「大陸型」をモデルにした明治地方自治の理念、(市)町村・郡・府県構成の地方自治の制度的特徴を把握する。他方、中国による地方自治の日本モデル受け入れの思想的条件として、古代中国の「郷官」、「郷約」の制度と思想の特質、とりわけ明末清初期における顧炎武の地方政治改革論に注目しつつ、十九世紀末までの思想的到達点を探る。外国の地方自治に接する前の中国の政治思想の中に、すでに民生重視と行政効率重視の観点からの、権力の過度な中央への集中への批判、中央集権と地方分権の一体的関連性、そして地域出身の人々によってその地域の公共事務を行うといった近代的地方自治観念に共通する要素の出現が見られる。これらはやがて一九〇〇年代における日本モデルの受け入れの思想的基盤となっていく。

 第二部では、一九〇〇年代の日本を舞台に、日本に亡命した康有為、梁啓超らの改良派、数万人にものぼる留日学生、直隷省をはじめとする各省から地方制度視察のために日本に派遣された地方の官僚・士紳の視察者らの思想と行動に焦点を当て、地方自治の「モデルの選択」のプロセスを考察する。一九〇〇年から一九〇五年までは、さまざまな地方自治理念が混在する時期である。戊戌変法の思想的継続として「個人の自治」を主張した梁啓超が、教育を通じて新しい国民の創出の必要性を強調したのに対して、欧渠甲と湖南省・湖北省の一部の留学生は、列強による中国「瓜分」の危機的状況の下、まず各省が清朝から独立し、それによって局地的な保全をはかり、それを通じて中国全体の保全をはかる、いわゆる「先省後国」の地方自治論を打ち出した。他方、康有為や浙江省・江蘇省の一部の留学生は、地方紳士を中心とした自治団体が地域の公共事務を担当し、それによって国家の基礎を固めるいわゆる「官治補足」の地方自治論を唱えたのである。

 そして、一九〇五年以後には、陳天華など一部の同盟会員が反満の立場から地方自治を唱えたが、これを除くと、日本にいた中国人の間では、清朝の立憲改革に呼応した「官治補足論」が地方自治論の主流となった。なかでも、法政、明治、早稲田の三大私立大学での中国人留学生の教育施設の整備は、留日学生が地方自治理論を体系的に受け入れるきっかけとなった。留日学生の大多数は「大陸型」の地方自治を導入すべきであると認識し、近代的地方自治理論を中国国内に紹介するいわば「文化の運搬者」としての役割を果たした。一方、各省から派遣された視察者たちは、府県・市町村での実地見学を通して、日本の官僚制度の合理性と行政機関の高い効率に驚嘆し、また、地方議会制度の導入による、税金の徴収と民衆叛乱防止の効果を称賛した。彼らは地方自治制度こそが日本の「富国強兵」の秘訣であることを発見し、それが中国の政治体制における「上下離隔」の問題を解決できる国家強盛の根本であると確信した。

 第三部では、一九〇六年以後の中国を舞台に、日本の地方自治制度の導入のプロセスを考察する。具体的には、(1)日本の地方自治をモデルとした直隷省天津県の地方自治実験、(2)清朝政府主導の地方自治の実施状況、(3)清朝崩壊後、日本の町村制を取り入れた山西省の村制、の三つの事例を取り上げる。そのうち、(1)と(2)に関しては、いずれも比較制度史的観点から、天津および清朝の地方自治章程とそのモデルとなった日本の地方自治法との比較を行う。そこから天津・清朝の地方自治章程と明治の地方自治法とは外形的類似性をもつ一方で、「官治・自治一体化」という明治地方自治の本質的な部分が両章程のいずれにおいても捨象されていることが判明する。そして、このような制度的変容の意味を、天津県の議事会・董事会の設立と運営、とりわけ江蘇省川沙県における地方自治の実施過程を具体的に分析することから探っていく。その結果、天津自治は立憲気運が高まるなか、袁世凱が自らの立憲派としての名声を高めるために立てた「立憲の看板」にすぎず、その地方自治は自治団体の設立と、それによる天津市街地における都市機能の一部の分担に限られたものであり、郷村レベルには及ばない「宙に浮いた自治」であったことが明らかになる。

 一方、清朝は国家としてきわめて衰弱し、明治国家のように地方自治を通じて社会に浸透し、コントロールする意欲も能力もなかった。清朝が望んでいた「官治の補足」としての地方自治は、実は、国家の行政能力の弱体化から、やむをえず社会に譲歩し、その協力を求めるものにほかならなかった。そこで伝統的「郷官」と等置された地方自治も、アヘン・賭博の禁止など全国的に実施される国家の近代化政策のごく一部を除くと、ほとんど従来地域社会で教育・慈善などの公共活動を担った郷紳の社会的役割の複製であったということができる。清末の城鎮郷の自治公所が徴税、警察など国の事務を執行する権限を与えられていない点においては、日本の市町村団体と根本的に異なる。これは、城鎮郷が国家行政の末端機構に位置づけられず、また地方自治に携わる地方のエリートたちも日本の地方名望家と異なって、国家の行政機構の末端に組み込まれていないことを意味する。しかし、別の角度からみれば、日本の地方名望家の場合と比べると、川沙県の事例が示すように、清朝の地方自治は結果的には地方エリートにより大きな自治的空間を与えるものであった。日本モデルの「土着化」とも言えるこれらの特徴は、清末の地方自治は国家の郷村への支配を拡大するものであったという従来の解釈に対する一つの留保になる。

 そして、日本モデルのもう一つの変容は、かつて日本に留学した閻錫山が自らの支配下の山西省で実施した村制である。彼は、もっぱら日本の町村制の上からの垂直的な支配体制を取り入れ、そのなかに古代中国の閭隣制を組み入れた。閻錫山は町村制の「行政網」の網目をさらに細密化した一方、日本の地方自治制度の「府県会・郡会・(市)町村会」の地方名望家の政治参加の側面を捨象し、代わりに村人全員が参加する村民会議の制度を作り出した。県の下に官僚機構である区を設置し、国家権力が郷村社会に一歩踏み込んでいる点においては、山西村制は日本の町村制と本質的に一致するものと見られる。それは一九二八年以降国民政府の郷村支配体制に受け継がれ、共産党政権の成立後まで継続されていく。

 最後に、終章では、地方自治を含める外国の思想・制度を受け入れる際に、近代の中国人にが共通して用いる「古已有之」-(外国のものは中国の)古代にすでに存在していた-という言説の心理メカニズムを分析する。そして、今後の課題を含めて、地方自治と二十世紀中国の政治との関連性というより大きなテーマに一つの作業仮説を提起する。ここでは、一九八〇年代以来、改革解放政策下の激変する中国の現実をも射程に入れつつ、本論文で扱ってきた近代日中間の地方自治の制度的継受関係を、二十世紀中国の政治的・社会的変化というより広い文脈において考えていく。そのために、二十世紀中国の地方自治を(1)郷村、(2)県-郷、(3)省の三つのレベルに分け、それぞれの地方自治の言説と現実的展開の類型化を試みる。そのうち、本論文の考察対象である(2)のレベルの地方自治では、いかに地方エリートを動員し、国家機構の末端である県の行政を補完させるべきかが問題となっている。他方、梁漱溟の郷村自治に代表される(1)のレベルの地方自治は、古代の「郷約」を生かし、もっぱら県以下の基層社会=郷村社会に限って、国家権力の干渉を排除する一種の共同体自治と見られる。そして、(3)のレベルの地方自治は一九二〇年代初期の「連省自治」や、今日中国の一部の知識人の間に流行する新連邦制論のように、中央政府のコントロールの弱体化を背景に、省を中央と拮抗する存在と想定するものである。

 一世紀という短い歴史的スパンのなかに、まったく異なった三つの地方自治の理念型が存在すること自体、世界史的にも比類のないことであろう。そこから、近代国民国家の枠内にあった明治地方自治のモデルとしての限界が示唆される。そもそも、人類が近代国民国家の時代に入る以前に、すでに共同体的自治は存在し、また、国民国家が終焉を告げる後も、地方自治はなお生き続けていく。国民国家から一歩離れ、「ある一定の地域に住む人びとが自らの意思に基づいてその地域のことを行う」という地方自治の原点に戻って考えると、以上の諸類型に含まれる「非近代的」要素を取り入れた新たな地方自治を媒介に、国家と社会、中央と地方、さらに「群」と「個」の関係を再構築していくことが、本研究に与えられた今後の課題でもあり、また、これから「変わりゆく中国」の将来を左右する重要な問題ともなるのであろう。

審査要旨

 本論文は、清朝末期の中国が近代的な地方自治制度を導入する際のモデルとして明治日本の先例を選択・採用した過程と、その結果について、国際文化関係史的に考察したものである。当時の中国では、半植民地化の危機に瀕した自国を近代国家に造りかえるための一つの有効な方策が地方自治にあることが発見された。その発見は明治日本に留学した留学生によってなされ、続いて、その実情の視察が中央の清朝政府のみならず、地方のいくつかの省からも派遣された人々によってなされた。日本側も中国の要請に応じ、留学生や視察者に対して実情視察と地方自治論の講義を体系的に提供したのである。本論文はその過程を、日中双方の資料にもとづいて初めて、詳細に解明している。いうまでもなく、明治日本の地方自治制度も外国の先例、特にドイツのそれをモデルに導入されたものであった。したがって、本論文は二重の制度継受関係の歴史を明らかにするものである。そこには、ヨーロッパ(特にドイツ)、日本、中国それぞれの社会・文化の特徴が複雑に関与している。中国の伝統社会に見られた「自治」が近代的な地方自治の導入にどのように作用するかも本論文の重要な検討課題である。本論文は、日本の地方自治制度が中国に導入される過程のみならず、いくつかの地方自治制度導入実験の結果をも分析することによって、導入の際に生じた制度的変容とその原因を明らかにし、特に日本モデルの中国への適合性と不適合性について考察している。そうすることによって、国家と社会、中央集権と地方分権という、現代中国の構造にも関わる基本問題を射程に収めようとしているのである。

 本論文は3部10章の構成である。序章に続いて、第1部が2章、第2部が3章、第3部が3章からなり、最後に結論の終章が付されている。注は各章の末尾に置かれている。巻末の参考文献を含めて、総ページはv+338ページであり、本文部分は254ページ(400字詰めで約800枚)、注部分は66ページ(本文部分よりも小さな活字で印刷された詳細な注の総数828)である。他に地図3葉、写真2葉が加えられている。

 「序章」は問題提起の章である。中華人民共和国ではあらゆる権力が中央政府と党に集中したために、社会は国家に呑み込まれ、地方自治は存在しなかった。しかし、1970年代末から改革開放政策が実施された結果、現在では、農村社会に生まれた権力の空白状態を「村民自治」が補うという状況が見られる。およそ一世紀前、清朝末期の中国では、1907年に直隷省天津県で最初の地方自治団体が設立され、1909年には清朝が「城鎮郷地方自治章程」を発布するなど、新しい地方自治が試みられたが、この清末中国の地方自治は明治期日本の地方自治制度をモデルとするものであったのである。そこで、本論文は20世紀初期の中国の地方自治に対する明治日本の影響を実証的に解明することを目的とする。具体的な検討課題は、20世紀初頭の中国人が日本の地方自治に関心を持ち、それをモデルに選んだのはなぜか、彼らはそれをどのように受け入れたのか、日本の地方自治が中国に導入された時、どのような制度的変容がどのような理由で発生したのか、そもそもヨーロッパと日本の地方自治制度はいかなるものであったのか、それと中国の在来の政治制度改革論との間にはどのような思想的接点があったのか、などであり、最終的には、明治日本の地方自治の導入が20世紀中国の政治に対してどのような意義を持ったのかを明らかにすることが課題とされる。

 「第一部 地方自治の理論的考察」は予備的な考察に当てられている。

 「第一章 地方自治の概念と諸類型」では、まず、ヨーロッパ近代地方自治理論に三つの流れ・理念型があるとして、第一は、自然形成的な共同体に重点を置く英米的なもの、第二は、自治を国家行政に内包させるドイツ・プロイセン的なもの、第三は、イギリスの名誉職自治を評価し、地方自治を国家と社会にまたがる「中間項」として位置づけようとしたグナイストの理論と、整理している。次に、イギリスとドイツの地方自治制度を比較して、地方団体が国家行政に属する事務を代行することのない「英米型」と、地方団体が同時に国家の地方行政機構とされる「大陸型」を識別した上で、本来、地方自治の態様は国ごとに多様であるが、近代国家を建設しようとするアジア後進国には「大陸型」をモデルとして選択せざるをえない条件があったことを指摘している。そして、明治日本の地方自治については、日本における豊富な先行研究を参照して、「官治」と「自治」の二重構造が最大の特徴であったと要約している。さらに、市町村団体を「内務省-府県-郡-市町村」という垂直的な行政システムに組み込む側面と、「府県会・郡会・市町村会」を通じて地方名望家を政治参加に動員する側面があったことに注目している。なお、グナイストの理論のうち、地方自治を国家と社会の「中間項」とする面は日本においては批判の対象とされたことが特記される。

 「第二章 中国地方自治の思想的系譜」では、古代中国の「郷官」、「郷約」の制度と思想に、郷・県を国家の基礎と見なし、「郷-県-国-天下」というように「小から大へ」と到る理念図式があったことを指摘している。特に顧炎武の地方自治改革論に注目して、彼が提示した「郷官モデル」には分権的と集権的の両側面があること、「自治」によって「官治」を補完させようとする構想があったことを指摘している。このように、外国の地方自治モデルに接触する以前の中国に、民生と行政効率を重視する観点があり、権力の中央集中の批判、中央集権と地方分権の一体的関連性、地域エリートによる地方公共事務の処理など、近代的地方自治観念に共通する要素が出現していたのである。近代西洋の地方制度が中国に紹介されたのは1830年代からであるが、1890年代までは単なる紹介にとどまっていた。その間に上記のような要素が、「一定の地域に住む人々が地域の財力をもってその地域のことを行う」という観念として再度出現したのである。著者は、これらが1900年代に入って中国が日本モデルを受け入れる際の思想的基盤となったという。

 「第二部 明治地方自治との出会い」は、1900年代の日本を舞台に、3つのタイプの中国人が地方自治モデルの選択・受容を行ったプロセスを考察している。時期は1905年を境に前後に二分される。

 「第三章 二十世紀初頭中国人の地方自治論と日本」では、1905年までを対象に、康有為、梁啓超、欧渠甲ら、日本に亡命した改良派知識人や日本留学生の地方自治論を考察している。この時期の梁啓超は戊戌変法からの継続で「個人の自治」を唱え、教育を通じて新しい国民を創出する必要を主張した。これに対して、欧渠甲と一部の初期日本留学生は、中国が列強によって分割されようとする危機の下では、各省が清朝から独立し、局地的な保全をはかることによって中国全体の保全をはかるという、「先省後国」の地方自治論を唱えた。さらに、康有為と、別の一部の日本留学生は、地方紳士らが地域の公共事務を担当することによって国家の基礎を固めるという、「官治補足」の地方自治論を唱えたのである。日本の富国強兵に触発された彼らによって、中国の救国の途が地方自治にあることが日本において発見されたのであるが、彼らの主張の底流に「小から大へ」という発想が共通に存在したことが注目される。しかし、この時期の議論は多様でありながら未分化であり、理念の段階にとどまるものであった。

 「第四章 留日学生による地方自治理論の受容」では、1905年以降の中国人日本留学生が近代的地方自治理論を体系的に受容していく様を、日本の大学における地方自治講義の講義録と彼らが東京で刊行した雑誌を資料に、詳細に跡づけている。この時期になると、中国人の日本留学ブームに応じて、法政、早稲田、明治の三私立大学の中国人留学生教育が整備され、彼らが地方自治に関する理論知識を体系的に受容することが可能となった。その結果、前期に比較して彼らの理解は格段に向上し、時あたかも清朝の立憲改革に呼応して、「官治補足」の思考が主流となったことも相まち、「大陸型」の地方自治モデルが日本を経由して選択されることになったのである。しかし、著者は、法政大学清国留学生法政速成科の教育内容などの分析によって、地方団体に対する国家の監督権を強調する大学講義とは異なり、中国人留学生が地方自治制度を地方団体が国家行政を分担することによって下から国家を支える制度と解釈したこと、日本の法学者が否定したグナイストの「国家-社会連鎖説」を受け入れたことなど、興味深い「ズレ」があったことを明らかにしている。

 「第五章 清末中国人による日本地方自治の視察」では、中国のいくつかの省が日本に派遣した地方官・士紳視察者による実地見学をとおしてのモデル発見の経路を、彼らが残した「東游日記」類、日本の外務省記録、彼らが視察した地方自治模範村の資料によって明らかにしている。視察者たちは日本の官僚制・行政の合理性と効率に驚嘆し、特に、税金の徴収と民衆の反乱防止に効果を発揮するとして地方議会に注目した。地方自治制度こそが中国政治体制の宿痾である「上下離隔」の問題を解決する妙薬であるとしたのである。著者は、ここには短期の表面的な観察で対象を理想化し、全面的な導入を唱えるという直線的な反応が見られると指摘すると同時に、日本のモデルは顧炎武の理想論に合致するものであるとする「古已有之」説(あるいは「付会」説)による正当化の端緒があることも指摘している。

 「第三部 明治地方自治の制度的受容と変容」は、1906年以降の中国を舞台に、帰国した留学生と視察者たちが行った日本の地方自治制度の導入と、その実施の過程を考察している。導入・実施の過程は、(1)上海と天津で局地的に試みられた段階(1905〜07年)、(2)「天津モデル」に従って全国各地に画一的な自治研究所が設立された段階(1908〜09年)、(3)「城鎮郷地方自治章程」が発布されて、各地で自治選挙が実施され、自治公所が設立された段階に区分される。

 「第六章 直隷省における日本型地方自治の導入」では、導入の第一段階に相当する天津の地方自治実験を検討している。この実験のモデルとされたのは日本の地方自治の本質を含む「市制町村制」ではなく、「府県制」であった。天津県に設立された議事会・董事会の自治団体は県のレベルに止まり、郷村には及ばなかった。これは直隷総督袁世凱が自らの立憲派としての名声を高めるために、帰国留学生たちに立てさせた「立憲の看板」に過ぎない実験であったためであり、「宙に浮いた自治」に終わったのである。

 「第七章 清末期における日本型地方自治の導入」では、第三段階、清朝政府による「城鎮郷地方自治章程」発布を受けて、日本視察に派遣された地方官らが率先して各地で行った地方自治の実施状況を検討している。著者によれば、前章の事例同様、この事例も明治の地方自治との外形的な類似性を示す一方で、「官治・自治一体化」という明治地方自治の本質的な部分を捨象していたのである。すなわち、ここでは城鎮郷と府庁州県のレベルが切り離され、行政末端の知県による「官治」の範囲外で地方エリートが地域の公共事務を行うとされた城鎮郷地方自治が中心となったのである。清朝国家には地方自治を通じて社会に浸透し、それをコントロールする意欲も能力もなく、「官治補足」としての地方自治は国家行政能力の不足を社会の協力によって補うための社会への譲歩であったというのが著者の見解である。そのような地方自治の企てが地方社会にどのような結果をもたらすことになったかは、江蘇省川沙庁で1911年に発生した自治反対運動という興味深い事例の考察で明らかにされている。地方自治制度の導入は地方社会における権力バランスを大きく動揺させ、地方名望家が国家行政を支えるという日本型には至らず、結果として地方エリートに、より大きな自治空間を与えるという制度変容を生じたのである。

 「第八章 民国期山西省の『村制』と日本の町村制」では、軍閥閻錫山がその支配下の山西省で実施した村制を考察している。これは、時期は若干遅れるが、ある意味において地方自治の日本モデルの導入をもっとも本格的に試みた事例であり、そこでの日本モデルのもう一つの変容は興味深い。自らの日本留学中に日本の地方自治の賛美者となった閻錫山は、日本の町村制の上からの垂直的な支配体制を取り入れようとし、そこに古代中国の閭隣制を組み込み、町村制の行政網の網目をさらに細かくしたのである。国家権力を郷村社会に踏み込ませた点で日本の「大陸型」地方自治制度に近づくものであったが、その一方で、日本の「府県会・郡会・町村会」に見られた地方名望家の政治参加の側面は捨象されたのであった。

 「終章 結論」は、以上各章の考察にもとづいて、地方自治をめぐる近代中国と明治日本の間の思想の接点とモデルの選択の問題、日本の制度モデルの受容と変容の問題、中国による日本モデルの受容と変容における心理の問題にまとめている。中国が救国と近代国家建設の方途として地方自治を重視し、その枠のなかでモデルを「大陸型」日本の地方自治に求めたことは明らかであった。その外来のモデルを受容する際に用いられた心理的説明の方式は「古已有之」の説であった。しかし、そのモデルを受容することは必然的に当時の中国自体が持つ条件に規定され、「土着化」という変容につながるものであった。総じて、地方自治の支配の面を受け継ぎ、参加の面を捨象するという変容が施されたが、中国の人々がさまざまな試みを行う過程で、実は、郷村自治、県-郷レベルの地方自治、省の自立というように、三つの異なるレベルでの自治が試みられたことになるのである。そこに将来の中国に望まれる地方自治のありかたを模索するための糸口を見いだすことができるというのが著者の展望である。

 以上のように、本論文は清末民初の中国の地方自治の特色、外国モデルの受容・変容の過程というスケールの大きな課題に正面から取り組み、従来の研究を越える深い分析と明晰な文章によって、独自の鋭い論点を示すことに成功している。伝統社会から現代を通時的に見ようとする視野、当時の欧米、日本、中国の間で試みられた二重の継受関係の解明と三者の比較という枠組みがしっかりと据えられた、安定感のある作品である。特に、中心的な主題である日本から中国への制度継受の過程の考察は、ヨーロッパから日本への継受関係をも踏まえて、詳密、周到かつ明快になされており、理論的にも実証的にも高い価値がある。理論的には、外来文化要素の受容と変容という国際文化関係論の枠組みを歴史の事例に的確に適用して、「文化の翻訳」についての理解を大きく前進させている。実証的には、中国人の日本留学と日本視察、日本側が彼らに提供した講義と視察の内容、地方自治模範村、中国における地方自治の実験例など、興味深い事例を数多く発掘し、それらに重要な意味づけを施している。一次資料を十分に生かしたこれらの事例の考察は、どれ一つをとっても、学界に大きな刺激を与えるものといってよい。

 日本から中国への制度継受の過程についての解釈も妥当と評価される。著者が明治日本の地方自治制度に取り組んだのは比較的最近のことと推測されるが、日本の研究者による最近の研究までよく咀嚼しており、中国と日本の対比はおおむね正確であると判定される。日本の地方自治制度が中国に導入されて、どのような変容を蒙ったかを明らかにしたこの研究が、日本の地方自治の研究に新たな示唆を与えることも考えられる。もっとも、ごく最近の日本における自治法史研究は名誉職制の位置づけ、「大陸型」「英米型」や「官治的自治」モデルに修正を加える知見を呈示しつつある。それへの応接がある方がなお望ましいであろう。また、「大陸型」「英米型」の把握がやや定型的という恨みがある。これは、ともすれば「モデル」を定数として扱わざるをえないという国際文化関係論の方法論的な限界にもよると思われるが、今後の課題であろう。

 著者は中国および日本の関連研究と資料を網羅的に駆使するほか、欧米の研究成果をも相当程度に参照している。近代中国研究の分野では、近年、本論文が扱った時期の清末新政の再評価が国際的な研究関心になっている。本論文は、地方自治の導入という従来取り上げられることのなかった対象に、国際文化関係史という新しい分析枠組みを適用して、この分野の研究に新たな地平を拓き、一気に国際的な中国研究に参画するものである。中国研究として見た場合、史料批判が若干不足している部分が散見されるが、全体として、未公刊史料を含め、多様な史料、文献を広く集めて、丁寧に用いている。

 近代地方自治制度の受容と変容という角度から中国社会の特質を明らかにしようとする試みは炯眼の試みであり、成功を収めている。ただし、伝統的な自治論を顧炎武のそれのみで代表させている点、「国家-社会」の対抗関係の枠組みに縛られたために「連省自治」の方向には考察が延ばせなかった点、結論において、中国による受容・変容の原因を「古已有之」の心理メカニズムに求め、地域社会の編成の問題に再論及しなかった点などに若干の不足が感じられる。他方、本論文は中国社会論を越えて、たとえば明治日本のモデルに相対的にもっとも接近したのが中国軍閥による導入の試みであったことを示した例に代表されるように、中国への導入の考察が日本やヨーロッパの地方自治の性格を逆照射するという副産物をも生み出している。また、中国、日本、ドイツの地方自治制度がそれぞれの特徴を帯びながらも、大きくは近代の国際関係に規定されていたことを、中国の新しい事例を加えて確認した成果として、国際関係史への寄与も認められる。そして、これらの点を含め、着実な学術的研究の成果として、中国をはじめとする各国社会のこれからの社会構成に有意義な示唆を生み出しえたことも高く評価することができる。

 以上述べたように、本論文は高い水準に到達した本格的な力作として称賛に値する。学問的な貢献は大きく、博士(学術)の学位を授与するに十分な業績であると認められる。

UTokyo Repositoryリンク