学位論文要旨



No 113109
著者(漢字) 金,東明
著者(英字)
著者(カナ) キム,ドンミョン
標題(和) 支配と抵抗の狭間 : 1920年代朝鮮における日本帝国主義と朝鮮人の政治活動
標題(洋)
報告番号 113109
報告番号 甲13109
学位授与日 1998.03.13
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第138号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 平野,健一郎
 東京大学 教授 木畑,洋一
 東京大学 教授 若林,正丈
 東京大学 教授 宮嶌,博史
 フェリス女学院大学 教授 並木,真人
内容要旨 1

 本稿は、1919年3月の3・1運動勃発から、1931年5月の新幹会解消に至るまで(以下1920年代)の、朝鮮における日本帝国主義の植民地支配の実態を、主として政治的側面から究明したものである。日本帝国主義と朝鮮人の政治運動勢力それぞれが、様々な矛盾と問題点を抱えながら、植民地現地で多様な方向性をもって動く複雑な政治過程を、(1)両者の間の相互作用を重視し、(2)植民地の政治状況が日本帝国主義支配の在り方に及ぼす影響までを跡付け、実証的かつ機能的に分析した。

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 第1部は、日本帝国主義が、3・1運動の勃発によって、それまでの支配体制の改編を余儀なくされ、同化主義支配体制を確定、施行するなかで、多様な朝鮮人運動勢力が登場してくる一連の過程を分析した。

 第1章では、3・1運動勃発のときとその直後、朝鮮人と日本人によってそれぞれ提起された、日本の朝鮮支配に対する批判を検討し、当時、日本の支配体制が抱えていた問題点を明らかにした。まず、3・1運動に参加した朝鮮人は、日本が朝鮮支配の正当性の根拠として掲げた朝鮮の「安定維持論」、「東洋平和論」、「日本自衛論」などをすべて否定した。さらに、彼らは、日韓併合以来の武断政治による日本の同化政策をも徹底的に批判した。これに対して、帝国議会議員をはじめとする多くの日本人は、日本の朝鮮支配そのものの持続を前提とした。彼らは、3・1運動以前における武断政治に象徴される従来の支配政策を転換しさえすれば、日本の朝鮮支配の窮極的目標である朝鮮人の日本人への「同化」は達成できると主張したのである。

 第2章では、3・1運動後に実際行われた日本の支配体制の再編の過程と、その再編の内容をダイナミックに捉え、いわゆる「文化政治」の内実を解明した。まず、朝鮮支配体制の再編を主導したのは当時の首相原敬であったが、彼は、朝鮮人の日本人への同化の可能性を確信し、日本同様の制度を朝鮮に施行することによって、それを達成しようとした。次に、原から支配方針を内示され、朝鮮総督に赴任した斎藤実は、「協力」勢力が衰退した現地の状態を直接確認し、朝鮮の支配メカニズムとして「文化政治」を提唱し、同化主義支配体制を確定した。斎藤は、植民地現地での政治過程のなかで、朝鮮人との多様なバーゲニングを試み、多様な勢力に同化主義支配体制への「協力」を呼び掛け、支配の持続を貫徹させようとしたのである。

 第3章においては、3・1運動がもたらした朝鮮社会の変化を分析し、そのなかで展開される朝鮮人の政治運動を三つの理念型に分けて提示した。まず、多くの朝鮮人が、3・1運動によって朝鮮社会の近代化に積極的に加わるようになり、「文化政治」の施行はこれをさらに加速させた。彼らは、朝鮮社会の近代化の方法・目標・主体などをめぐって、様々な形を取った政治運動勢力として登場してきたのである。それらを理念型として、「同化型協力」運動と「分離型協力」運動、そして抵抗運動とに分けた。

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 第2部では、1919年の3・1運動直後から1931年の新幹会解消に至るまでの期間を四つに分け、朝鮮人の政治運動の展開過程、及びそれに対応して日本帝国主義の支配体制が実質的に変化していく過程を検討した。

 第一に、1919年の3・1運動直後から1925年の民衆運動者大会に至る期間においては、多様な形態の朝鮮人運動が、各勢力との間に対立と衝突が繰り返しながら、分立していた。それ故に、総督府は多様な勢力と有利なバーゲニングを試み、朝鮮人の政治運動を操縦する、いわゆる分轄による支配が可能となり、同化主義支配体制の施行を続けることができた。しかし、朝鮮人の政治運動の勢力配列において、抵抗運動勢力が拡大し、「同化型協力」運動勢力は衰退し、自治運動を模索する「分離型協力」運動勢力が弱体になったため、総督府の同化主義支配体制は維持されたものの、安定したものではなかったのである(第1章)。

 第二に、1925年の民衆運動者大会禁止以後、1927年の新幹会結成までの時期には、朝鮮人の政治運動の勢力配列において、抵抗運動勢力が「協力」運動勢力を圧倒し、多くの朝鮮人の政治運動勢力が民族協同戦線運動に収斂していった。総督府は、同化主義支配体制によってバーゲニングすることが可能な勢力を得ることができず、支配の不安定はさらに増大した。このため、総督府は抵抗運動勢力への抑圧を強める一方、同化主義支配から自治主義支配へと体制を転換することを検討せざるをえなかった(第2章)。

 第三に、1927年の新幹会結成から1929年「民衆大会」禁止に至る時期においては、抵抗運動勢力がさらに拡大し、ほとんどの朝鮮人の政治運動勢力が民族協同戦線運動に統一された。総督府は、同化主義支配体制の枠内でのバーゲニングの相手となりうる勢力をほとんど失い、支配の不安定さはさらに増幅した。このため、総督府は、抵抗運動勢力への抑圧をさらに強化する一方、同化主義支配体制から自治主義支配体制へ転換することを提案せざるをえなくなった(第3章)。

 第四に、1929年「民衆大会」禁止から1931年新幹会解消に至る時期では、総督府の抑圧と自治運動勢力の拡大によって、民族協同戦線運動は内部分裂し、解消された。総督府は、抵抗運動勢力を物理力で抑え、内部分裂を誘うことによって、抵抗運動の過大な勢力拡大を阻止することができたのである。しかし、同時に、「同化型協力」運動勢力も、「分離型協力」運動勢力も確保することができなかった。このため、総督府は、自治主義支配体制への転換を諦め、同化主義支配体制へ回帰するしかなかったのである(第4章)。

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 結論では、第1部と第2部で考察した結果に基づいて、朝鮮における日本帝国主義の歴史的性格と日本帝国主義の支配に対する朝鮮人運動の性格をそれぞれ検討した。

 まず、日本帝国主義は、朝鮮を永久に支配し、朝鮮人を日本人に同化させるという理想の支配目的を掲げていた。しかし、日本が支配の目的を実現するために確定した同化主義支配体制は、朝鮮人の強い抵抗に直面し、大きく動揺した。自治主義支配体制は、まさに、こうした同化主義支配体制が抱えていた諸問題を植民地の現実の立場から指摘し、支配を持続するための代案として提案されたものである。しかし、同化主義支配体制論者の根強い反対、朝鮮人の担い手勢力の弱体などによって、同案は拒まれた。こうした状況のなかで、日本帝国主義が朝鮮支配を正当化するために掲げた日本と朝鮮との間の「近接性」は、文明の「使命」を果たすという近代帝国主義としての日本帝国主義の支配イデオロギーを形骸化させた。その結果、日本帝国主義の朝鮮支配の正当性は一層弱められ、支配持続はさらに困難となった。このため、日本帝国主義は、朝鮮での政治過程に多くの物理力を投入せざるをえず、変容された不完全な同化主義支配体制に回帰するしかなかったのである。

 次に、日本帝国主義の支配に対応して、その支配イデオロギーを全部認定する勢力、大部分否定する勢力、あるいは全部否定する勢力として、それぞれに登場した朝鮮人の「同化型協力」運動、「分離型協力」運動、抵抗運動は、いずれも支配側が抱えていた矛盾や難点と噛み合って、政治勢力として一定程度のバーゲン力を獲得することができた。しかし、各運動が実際に展開される過程において、それぞれの勢力を拡大しながら、掲げた運動目的に接近していくことは容易ではなく、「同化型協力」運動は衰退し、「分離型協力」運動は弱体で、抵抗運動は内部分裂によって解消された。朝鮮人の政治運動は総体的に脆弱であったのである。その主な原因としては、まず、日本帝国主義が朝鮮人の政治運動を厳しく統制し、政策的に操縦したこと、次に、当時の朝鮮社会における強い非妥協意識の存在を挙げることができる。

 3・1運動勃発をきっかけとして、日本帝国主義と朝鮮人運動勢力が、それぞれ抱えていた矛盾と困難を解消しうる一つの接点として設定され、1920年代の朝鮮において実際に展開された政治過程は、いずれの側にも満足のいくものではなかった。1930年代以後には、日本帝国主義と朝鮮人運動勢力との利害調整・衝突の接点となりうる政治過程も、次第に消滅していくことになる。1910年代の教訓から学んだはずの、1920年代の「文化政治」が失敗を告げると、日本帝国主義は、1910年代以上に抑圧的な同化主義支配の体制を1945年まで持続させるのである。

審査要旨

 本論文は、1919年の3・1運動から1931年までの時期(ほぼす1920年代)に、朝鮮半島の現地において日本側の支配と、それに対する朝鮮側の抵抗が実際にどのように展開したかを、時期を追って詳細に跡づけたものである。日本側の朝鮮総督府の支配が3・1運動の衝撃を受けて動揺し、新たな支配政策が模索されるなか、朝鮮側にはさまざまな政治勢力と運動が現れ、広義の抵抗運動が繰り広げられた。本論文は、その過程を実証的に明らかにしつつ、日本側の支配政策の変動と朝鮮側の政治運動の展開の間には、従来の想定以上に強い相互影響関係が存在したことを具体的に示している。3・1運動を契機に武断統治を「文化政治」という名の同化政策に切り換えた日本政府と朝鮮総督府は、1920年代を通じて、同化政策の方針を内地延長主義から自治主義へと転換することを模索せざるをえなかったが、結局、自治主義の採用を断念し、より強硬な同化政策をもって1930年代に突入した。本論文によれば、その変動の過程は朝鮮人の政治運動の展開に強く影響されたものであった。他方、朝鮮人の政治運動は1920年代を通じて複雑多様に分岐し、離合集散を繰り返した結果、有効な抵抗を組織しえずに解体した。それは、抑圧に加えて、朝鮮側の複数の政治勢力を操縦しようとした日本側の試みの結果でもあった。

 本論文は大きく3部からなり、序論に続く第1部が3章、第2部が4章、第3部に相当する結論が2章から構成されている。末尾に各章への注と参考文献が付けられている。総ページはvi+332ページで、本文部分は277ページ(400字詰めで約990枚)である。

 まず「序論」は、考察対象とする1920年代を、現地に比較的活発な政治過程が見られた時期と特徴づけ、日本帝国主義と朝鮮人の政治運動の間の相互作用を重視し、植民地現地の政治状況が日本の支配のありかたを規定したと見るべきであるという視点を設定する。この視点は、従来の研究が日本帝国主義の支配政策史と朝鮮人の民族解放運動史に2分され、相互の関連性を見失っていた状況を批判し、乗り越えようとする著者の狙いを具体化したものである。この視点から、朝鮮現地での政治過程を実証的、機能的に分析することが課題となるが、その分析は、日本国内と朝鮮総督府との間、朝鮮総督府と朝鮮人政治運動勢力との間、朝鮮人政治運動勢力と朝鮮社会との間、そして、朝鮮人政治運動勢力と日本国内との間という4つの局面、とりわけ第2の局面における政治過程を重視することになる。流動化した1920年代には、この両者間にバーゲニングの可能性が生まれ、実際にバーゲニングが行われたと見るのである。

 本論の「第1部 3・1運動と朝鮮支配体制の改変」は、3・1運動による日本の朝鮮支配批判、同運動によって余儀なくされた日本支配体制の再編の過程と内容、そして同運動後の朝鮮社会の変化などを検討し、多様な朝鮮人運動勢力が登場してくる過程を明らかにしている。

 「第1章 3・1運動と日本の朝鮮支配批判」では、まず、3・1運動が日本によって提示されていた朝鮮支配の論理(同化論を含む)のすべてを否定したことを明らかにし、そうした批判がその後の、特に抵抗運動勢力の政治力として持続していくことを指摘している。他方、3・1運動の衝撃下に日本側が行った朝鮮支配政策批判としては、帝国議会議員と朝鮮軍参謀部によるものを詳細に分析して、日本側の「自己批判」がいずれも支配持続を前提とし、朝鮮人の同化という支配の目的は達成可能とした上で、朝鮮人を懐柔して支配に協力させるような支配のメカニズムを構築することを要求するものであったことを指摘している。

 「第2章 『文化政治』の提唱」では、よく知られている原敬の内地延長主義の方針による同化政策と、斎藤実による朝鮮支配メカニズムとしての「文化政治」が提唱される過程を確認したのち、その「文化政治」の実現のために採られた具体的な政策がそれなりに多様であったことから、朝鮮人との間に多様なバーゲニングの可能性を生み出したことが指摘されている。朝鮮人の側に多様な「協力」勢力が生まれる可能性をも作りだしたのである。

 「第3章 『協力』と抵抗運動の登場」では、まず3・1運動と日本の支配政策が朝鮮社会にもたらした変化を分析し、近代化へのコンセンサスが広範に形成されたこと、多くの朝鮮人が近代化に積極的に加わるようになったことによって、政治運動の基盤が拡大されたことを指摘している。「文化政治」の施行はこれを加速させたのである。ここに登場することになった朝鮮人の政治運動は、朝鮮社会の近代化の方法・目標・主体などをめぐって多様な形をとったが、著者は、それらの勢力が支配側と行いうるバーゲニングの基本的性格にしたがって、「同化型協力」運動、「分離型協力」運動、抵抗運動の三つの類型に整理することを提唱する。

 以上を要するに、第1部は、3・1運動がもたらした日本の支配体制の改変が朝鮮人に一定の政治活動空間を与え、彼らの政治運動が、支配側とのバーゲニングと運動間の相互関係によって、同化か分離か抵抗かという三つの基本線を交錯させて展開していく状況を準備したことを明らかにしている。

 「第2部朝鮮人の政治運動の展開と日本帝国主義支配体制の動揺」は、多様に分岐し、複雑に展開した朝鮮人の政治運動の過程と、それを操縦する意図をもって対応していく朝鮮総督府の支配方針が実質的に変化し、動揺する過程を検討している。その検討は、(1)3・1運動直後から1925年の民衆運動者大会まで、(2)民衆運動者大会の禁止から1927年の新幹会結成まで、(3)新幹会の結成から1929年の「民衆大会」禁止まで、そして(4)1931年の新幹会の解消まで、という4期区分にしたがって行われている。

 第1期を扱う「第1章 朝鮮人の政治運動の分立と同化主義支配体制の施行(1919-1925)」では、内地延長主義による同化主義支配が施行されるにともなって朝鮮人の政治運動が登場し、総督府とのバーゲニングを開始し、大きくは次第に三つの類型に分岐していく過程が述べられている。まず、「参政権請願運動」は日本の衆議院選挙法を朝鮮に施行することを求めるもので、日本の支配論理にも適合する「同化型協力」運動であったが、一方で、参政権の即時付与は認められず、他方で、より強力に権利獲得を主張する「朝鮮人権利獲得運動」によって批判され、交替させられることになった。この権利獲得運動は当初「分離型協力」運動の性格をもっていたとみなされるが、総督府とのバーゲニングが不調になるにつれ、抵抗運動へと傾斜していく。そして、明確に抵抗運動の性格をもった社会主義運動が形成され、他の運動を批判しつつ、朝鮮人政治運動の中心勢力になっていくのである。この他にもいくつかの運動を取り上げて、「同化型協力」運動の衰退、抵抗運動の拡大、その両者に挟撃される「分離型協力」運動の弱体を第1期の特徴と指摘し、さらに、朝鮮人政治運動のそうした勢力配列に呼応して、総督府が同化主義支配を安定的にスタートさせられなかったことを指摘している。

 第2期を対象とする「第2章 朝鮮人の政治運動の収斂と自治主義支配体制の検討(1925-27)」では、朝鮮人政治運動の勢力配列において抵抗運動が他の二つの類型の「協力」運動を圧倒し、多くの勢力が民族協同戦線運動に収斂していく過程が述べられている。1927年2月には、抵抗運動の「民族主義」運動勢力と社会主義運動勢力の提携により、民族単一党としての「新幹会」が結成される。「同化型協力」運動の衰退と抵抗運動の活性化、そして一時見られた自治運動の活発化に応じて、総督府側では、副島道正による「自治論」の提唱など、自治主義支配への転換を模索する動きが開始されるのである。

 第3期を扱う「第3章 朝鮮人の政治運動の統一と自治主義支配体制の提案(1927-29)」では、朝鮮人の抵抗運動勢力が拡大を続け、ほとんどの政治運動勢力が民族協同戦線運動に統一された様子が述べられている。同化主義支配の枠内でバーゲニングの相手となりうる勢力をほとんど失った総督府は、抵抗運動への抑圧を強める一方で、参政権付与の再検討を始めるなど、自治主義支配への転換を提案せざるをえなくなるのである。

 第4期を対象とする「第4章 朝鮮人の政治運動の分裂と同化主義支配体制への回帰(1929-31)」では、総督府の抑圧と、自治運動勢力の回復・拡大によって、民族協同戦線運動が内部分裂を生じ、解消に到る過程が辿られている。総督府による自治主義支配への転換の模索が、バーゲニング過程を通じて、朝鮮人の自治運動を再び活発化させると、「新幹会」の中央は「穏健化」し、それに対する抵抗派の反対が強まった結果、朝鮮人の政治運動の統一は破壊されたのである。他方、総督府は、抵抗運動の拡大を抑えることには成功するが、同時に、「同化型協力」の勢力も「分離型協力」の勢力も確保することに失敗した。その結果、自治主義支配への転換を放棄して、より強硬な同化主義支配に回帰することになったのである。

 以上を要するに、本論文の中心である第2部は、1920年代の朝鮮現地において日本帝国主義と朝鮮人の政治運動の間に展開された政治過程を詳細に探索し、日本側が朝鮮側の分立する政治勢力を操縦しながらも、政策の転換を遂げることができず、朝鮮側は、3類型に分類することのできるさまざまな政治運動の対立によって、有効な抵抗を組織することに失敗したことを明らかにしている。

 最後に「結論 支配・抵抗と『協力』の歴史的性格」は、以上のような本論の考察にもとづいて、朝鮮における日本帝国主義の歴史的性格と、日本帝国主義支配に対する朝鮮人の運動の性格を考察して、まとめとしている。

 その第1章に当たる部分では、まず、1920年代の朝鮮における日本の支配体制が、中間で大きく自治主義の方向に揺れながら、結局、同化主義を維持する方向に回帰したことが確認されている。そして、同化主義の方針が動揺しながらも維持されることになった理由として、朝鮮を同化させる方向で永続的に支配するという目的を日本人が放棄することはなかったことと、現実に朝鮮人の多様な政治運動を操縦する意図をもってそれらと交渉する過程から、抵抗勢力の強さを実感させられ、同化主義によるのでなければ朝鮮を永久に支配することは不可能であると考えたことを挙げている。著者によれば、このような日本人の同化主義への拘泥は、日本と朝鮮の間の近接性という認識と、近代化による同化の可能性の信奉によって規定されていたのである。近接性と近代化を朝鮮支配の根拠とした日本帝国主義は、まさに同化への拘泥によって、その目的を達成するに至らなかったのである、と結論されている。

 第2章に当たる最終部分では、3・1運動後、日本帝国主義支配に対して、広義の抵抗を試みた朝鮮人の政治運動勢力が、同化型協力、分離型協力、狭義の抵抗という三つの類型を析出させ、いずれも政治勢力として支配側に対して一定程度のバーゲン力を獲得しながらも、そして統一を繰り返し試みながらも、内部分裂を繰り返し、衰退、弱体、分裂に追い込まれたことが確認されている。そのような結果となった原因として、日本側の弾圧と操縦、異なる政治勢力間の競争・対立を結果するほかない政治過程の構図、そして、その背後に朝鮮社会に存在する非妥協意識があったことを挙げている。

 以上のような内容を持つ本論文は、まず第一に、著者独自の新たな視点を設定し、その視点にもとづいて多数の新事実を発掘し、包括的に整理して、従来ほとんど知られることのなかった政治過程の実態を明らかにした功績を高く評価される。植民地統治権力と政治運動との間の政治過程に着目することにより、植民地期朝鮮の政治状況を把握しようとする視点と手法は、新たな方法論を提示したものとして高く評価することができ、また成功したと評価することができる。特に、当時の朝鮮人の政治運動勢力、政治運動がかくも多岐、多様に存在したという事実を示すことができたという点だけでも、その努力は学界に大きな貢献をもたらしたというべきであろう。朝鮮側の政治過程は複雑、多岐にわたるもので、それを包括的に扱っているが、同時に、「同化型協力」運動、「分離型協力」運動、抵抗運動という3類型を設けるという工夫を施して、それらが総督府の操縦を受けつつ競争、対立し、消長を繰り返す過程として整理し、動的に描きだすことに成功している。実証面では、研究史上はじめて関連の第1次資料、未公刊文書、新聞などを網羅して丹念に読み、活用していることも評価される。

 著者も指摘するとおり、従来この分野では、日本帝国主義の支配政策史と朝鮮人の民族解放運動史に研究が2分されていた。本論文は、この両者の断絶という研究史上の隘路を打開したものとしても高く評価される。従来は「親日的な」政治運動として研究対象から除外されるか、一方的な断罪の対象としてのみ扱われてきた「協力型」の運動について、事実の探究と論理の分析に努めた努力も積極的評価に値しよう。従来と異なる視点と方法は、さらに総督府側の政策の模索についても新しい理解を可能にしている。

 このように、植民地期朝鮮の政治史研究の水準を高めると評価される本論文にも、なお不十分な点がないわけではない。まず、「同化型協力」、「分離型協力」、抵抗という運動の3類型は、他の植民地の政治史分析にも応用される可能性のある優れた試みであるが、その3類型のすべてについて、支配側とのバーゲニングという政治過程を機械的に見出そうとするのは、特に抵抗運動について論理的な困難があると思われる。バーゲニングとバーゲン力(バーゲニング可能性)とを識別する論理操作が不十分であることにもよると思われるが、その点を改善するだけで十分かどうかは考慮する必要があろう。次に、本論文は序論で政治過程の分析局面を4つ示したが、実際の分析は第2の局面、すなわち朝鮮総督府と朝鮮人政治運動勢力との間という中央政治のダイナミックスにほぼ限定されている。支配体制が動揺したにもかかわらず継続したという主張を納得させるためには、他の局面、特に著者が考察外とした朝鮮総督府の支配と朝鮮の地方社会の接点という局面での関係や変化の実態を解明することが必要であろう。第三に、「日本帝国主義」が主格として頻用されることに代表されるように、本論文は実証的でありながら、分析、記述が抽象的、機械的に流れる箇所や、「言説分析」にとどまっている箇所が散見される。また、そのため、日本側の政策決定過程の分析が不足し、運動の担い手の実態がなおまだ十分明確には示されず、バーゲニングの実態もなおやや不鮮明という憾みが残る。朝鮮人の政治運動の一部については実証が従来の域を越えていない場合が見られる。最後に、結論の部分において、朝鮮人政治運動の展開の根本的な原因として、朝鮮人の非妥協意識という概念を唐突に用いていること、日本帝国主義の特質の説明として、近接性と近代化という概念をほとんど説明なしに用いていることなど、結論がやや本論から逸れているという印象を与えている。そして、最大の争点である「同化」について、著者が考慮しているのは近代化という要素のみであるが、日本による植民地同化の方向性として、特に植民地側から見て逸することのできない要素に天皇制があることを忘れてはならないであろう。

 しかし、この天皇制の問題や地方政治の実態の解明などは、著者のみならず研究者全体にとって今後の課題である。本論文は、若干の欠陥や不足があるものの、明確な視点と分析方法、着実な実証によってこの分野の研究を大きく前進させるものであり、学界からの反響、研究者への刺激が予想できるものである。総じて、本論文は、これまで本格的な研究がなかったこの時代の朝鮮政治史研究に新たな地平を拓く先駆的、画期的な成果であり、博士(学術)の学位を授与するに十分な業績であると認められる。

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