有機反応化学の研究は、従来、気相や液相中の反応系を対象として発展を遂げてきたが、近年新たな反応場として、結晶相が注目を集めている。結晶内反応においては、分子の配列が3次元的規則性を備えているため、反応位置が限定され、極めて立体特異的な反応が起こりやすいなどの長所が指摘されている。ところが結晶内反応の場合、反応前後の情報をX線結晶解析や生成物分析などの手法により知ることができるものの、反応がどのように進行するかの途中経過を詳細に研究した例はまだ極めて少ない。また、結晶相においては、反応分子の運動が隣接分子の多大な影響を受け、分子運動が不均一かつ異方的であるために、反応系全体を統計学的に考察するのが困難であるなどの理由により、反応機構に関する理論的・実験的解明が遅れているのが現状である。 このように将来物質変換の場として重要な位置を占めると考えられる結晶相反応の本質を理解するために、申請者は本論文において「結晶内反応における反応性中間体の動的挙動を明らかにすること」を目標として揚げた。このような観点から、アリールアシド結晶中で光分解により生成するアリールナイトレン-一価の窒素原子を含む-中心ジラジカル-を、対象とする高反応性中間体として取り上げ、その動的挙動を克明に解明した。以下論文の内容を簡単に紹介する。 第一章では、結晶中におけるアリールナイトレンの挙動解明を研究対象として取り上げた意義について述べている。-中心ジラジカルであるアリールナイトレンは、スピン多重度と反応性の関連から、気相、溶液、マトリックス中など様々な媒体において詳細な研究成果が報告されてきた。しかしながら、固相中での挙動については未知の部分が多いことを指摘し、本研究はその未解明の部分に、新たな知見をもたらす可能性があることを論じている。 本系においては、アリールナイトレンの前駆体であるアリールアジドの結晶が反応場となる。そこで第二章ではまず、X線結晶解析により数種のアリールアジド(1a-f)の結晶構造を明らかにし、その一般的特徴について論じている。決定されたアリールアジドの結晶構造に共通した傾向として、「アジド基が反平行に向がい合って配列する特徴」がみられることを指摘し、その原因としてアジド基の分極に基づく、分子間の静電的相互作用を挙げている。さらに、アジド基の配列様式の違いにより、アリールアジドの結晶構造を2つに分類している。タイプAはアジド基の対が1次元的に配列したものであり、タイプBは2次元的な層状構造を形成するものである。その上でこれらのタイプの違いは、ナイトレンの安定性や反応機構の違いに大きく反映されてるであろうことを予測している。実際この結晶構造的特徴を反映して、アリールアジドは光反応後、アゾ化合物を選択的に生成しており、「アジド基はアゾ化合物生成の反応場を自己形成する能力を持ち合わせている」ことを見出した。なお、アリールアジド化合物は化学的に不安定で、融点の低いものが多く、その結晶構造はあまり知られていない。このように結晶化が困難である化合物について、昇華法などを併用し、忍耐強く単結晶化を成功させたことは高く評価される。以下の章で議論されるアリールナイトレンの結晶中での化学的挙動が、すべて前駆体アリールアジドの結晶構造で裏うちされている点が、本論文に大きな説得力をもたらしているといえよう。 続いて、第三章において申請者は、実際に結晶内の光反応を行い、得られた生成物の同定を行った結果について、以下のように論述している。1)結晶内光反応においては、上記の理由でアゾ化合物が主生成物となる。2)一方、単離した生成物の中には、通常溶液中では得られない化合物も存在する。これらは結晶内でのナイトレンと隣接分子の反応部位との相対配向を反映した、トポケミカルな生成物として理解される。3)結晶内においてはアリールナイトレンに特有の環拡大反応生成物が得られず、アゾ化合物に代表されるように3重項ナイトレン由来の生成物が大半を占める。4)さらに、もう一つの生成物である窒素分子に着目し、自作のガスビュレットを用いて分析することにより、光照射により発生した窒素分子は、室温以上まで結晶中にとどまっていることを明らかにした。特に最後の実験事実は、結晶中でのナイトレンの特異な安定性を解明する手がかりとして、位置付けられるものである。 第四章では、アジド化合物結晶の光照射で得られる反応生成物の多くが、3重項ナイトレン由来であることを指摘し、ESRを用いて結晶中で発生するナイトレンの挙動を追跡することにより、反応機構解明の上、重要な知見を得ている。中でも特筆すべきは、この実験を遂行する中で、「結晶中において発生させたアリールナイトレンは、室温で数分から10日もの極めて高い速度論的安定性を示す」ことを発見したことである。なおこの成果はすでに国内外で注目を浴び、大きな反響が寄せられている。 一方、2-アジドビフェニルを光照射した、ESRスペクトルにおいては、ナイトレン以外の3重項シグナルを観測し、そのシグナル強度の温度変化をもとに、一重項アリールナイトレンからカルバゾール生成に至る新たな機構を提案している。この成果は、結晶内反応を利用することにより、極めて反応性に富む中間体を検出し、その挙動に基づき反応機構をより詳細に解明できる可能性を示したものといえる。 第五章では、結晶中のナイトレンの挙動に関する総合的考察がなされている。特に、ESRにより測定したナイトレンの消滅反応の活性化パラメータに基づき、結晶内におけるアゾ化合物生成に対する速度論的解析を行い、その結果、結晶内反応の律速段階はナイトレンの2量化ではなく、再結合の座標に沿った拡散過程であることを明らかにした点は重要である。さらにこの結論を、独立した他の実験結果を加味することにより、「結晶内反応の高い選択性が、中間体の反応座標に沿った拡散過程に起因する」という解釈にまで敷衍している。また、結晶内のアリールナイトレンの相対的安定性や、熱力学的パラメーターの特徴などが当初に予測した通り、前駆体アリールアジドの結晶構造のタイプA・Bの違いにより、合理的に理解できることを明らかにした。 以上本論文は、アリールナイトレンを例にとり、母結晶であるアリールアジドの結晶構造解析、光反応生成物解析、中間体の分光学的検出、および速度論的解析など多彩な方法を駆使して、結晶相反応の本質に迫った完成度の高い内容となっている。これらの成果は、反応場としての結晶相が注目されている現在、結晶内反応の設計や制御を考える上で大きな意味をもち、該当分野のさらなる発展に大きく寄与すると評価された。 以上のことから、審査委員会は本論文を博士(学術)の学位にふさわしいものと判定する。 |