学位論文要旨



No 113112
著者(漢字) 佐々木,明登
著者(英字)
著者(カナ) ササキ,アキト
標題(和) 結晶環境下におけるアリールナイトレンの化学
標題(洋) Chemistry of Arylnitrenes in the Crystalline Environment
報告番号 113112
報告番号 甲13112
学位授与日 1998.03.13
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第141号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 菅原,正
 東京大学 教授 小林,啓二
 東京大学 助教授 小川,桂一郎
 東京大学 助教授 尾中,篤
 東京大学 助教授 村田,滋
内容要旨

 これまで化学反応は、気相や溶液中などのいわゆる"流動的"な媒体中で行われてきたが、近年、結晶場が新たに堅固な反応場として注目を集めている。結晶中では、分子が3次元的規則性を持って配列しており、緻密なパッキングのため気相や溶液中に比べて分子運動が束縛されるため、大規模な分子の拡散や配列の変化を伴うことは不可能である。従って結晶中で化学反応が進行するには、反応位置同士の距離や相対的配向が重要な要因となる。そのため結晶内反応はしばしば、気相や溶液中の反応よりも立体特異的であるという特徴があり、合成面からの有用性が指摘されている。しかし一方で、結晶内における分子の反応は不均一なものであり、個々の分子はそれぞれ隣接分子の影響を多大に受けるため、反応系全体を統計学的に取り扱うことは困難であり、その理論的解明が遅れているのが現状である。

 ところで、結晶中ではその堅固な分子環境を反映して、反応中間体が速度論的に安定に存在することが知られている。本研究ではこのような特徴を生かし、結晶環境下における反応中間体の挙動を詳細に研究し、結晶内反応を理解しひいては設計することを計画した。対象とする反応中間体として、一中心ビラジカルとして広く研究されているアリールナイトレンを取り上げた。その理由は以下の通りである。1)アリールナイトレンは光により容易に発生させることができる。2)そのスピン状態により反応性が異なる反応中間体として、これまで気相、溶液中、極低温におけるマトリックス中などでその反応性や反応機構について多くの研究成果があげられてきた。このことは結晶内反応での特徴を見い出す上で好都合である。3)また最近、ナイトレンの第一励起1重項が開殻構造であるという今までの常識を覆えす結果も報告されており、その点を確認する上でも興味深い。本論文では、低温でアジドの結晶に光照射を行いアリールナイトレンを発生させ、ESRを用いてその挙動を追跡し、生成物分析や結晶構造解析などの結果とあわせ、ナイトレンの挙動と周囲の分子環境との相関について考察した結果が述べられている。

図1:結晶内におけるアリールアジドの光反応【アリールアジドの結晶構造と光反応生成物】

 反応環境を把握するため、前駆体となる数種の結晶性アジド化合物(1a-f)のX線結晶構造解析を行い、構造上の特徴ならびに置換基の水素結合やその他の静電相互作用が構造に及ぼす影響について検討した。その結果、大きく分極したアジド基は静電相互作用により向かい合って存在するという共通した特徴が見られ、さらにこのアジド基対の配列様式から、これらのアジド化合物の構造は大きく2つに分類された。一つはアジド基対が一次元的に配列しているもの(タイプA)、もう一つは2次元的な層状構造をとっているもの(タイプB)である。この構造上の違いは、後で述べるナイトレンの安定性や反応性に深く関連していることが分かった。

図2:p-カルポキシフェルアジド(1a)の結晶構造(タイプA)

 アジド基が対で存在しているという特徴を反映して、アジドの結晶への光照射後、多くのアジド化合物はアゾ化合物を選択的に生成した。一方、2-アジドビフェニル(1e)及びp-(アセチル-N-メチル)アミノフェニルアジド(1d)は、カルバゾール、CH挿入生成物をそれぞれアゾ化合物と同程度生成した。これは結晶解析の結果から、発生したナイトレンの近傍にアジド基でない別の置換基が存在するためだと分かり、ナイトレンの反応が結晶内で発生したナイトレンの周囲の環境の違いを反映していると言える。また、これらの生成物の生成比は溶液反応では得られない値であり、結晶内における反応が溶液とは異なる要因によって支配されていることがここで示唆された。

図3:結晶内におけるカルバゾールの生成機構

 一方、光反応の副生成物である窒素分子の挙動についても調べたところ、光照射後、発生した窒素分子は室温又はそれ以上の温度まで結晶内にとどまっていることを見い出した。一般に溶媒を取り込んだ結晶から溶媒が徐々に抜けていくことを考えれば、これは驚くべき事実である。この特異な窒素分子の挙動が及ぼす影響については次に述べる。

【アリールナイトレン及びその他の反応中間体の検出と動的挙動の追跡】

 生成物分析の結果、ナイトレンの結晶内反応では一部の生成物を除き3重項ナイトレン由来の生成物を与えることが明らかとなった。従って、3重項ナイトレンの検出に適したESRを用いてその挙動を追跡することは、結晶内でのナイトレンの反応を理解する最も有効な手段であると考えられる。アリールナイトレンは、ESRスペクトルにおいて特有の3重項シグナルを与えるため、容易に同定でき、その動的挙動を細かく追跡できる。この方針に基づき、低温でアジドの結晶に光照射を行いアリールナイトレンを発生させ、ESRを用いてその挙動を追跡したところ、アリールナイトレンは結晶内で極めて長い寿命をもつことを見い出した。これは、結晶場が分子運動を束縛する堅固な環境であるのに加えて、先に述べた結晶中に滞留する窒素分子が反応を妨害していることも理由としてあげられる。

 結晶内でのナイトレンの寿命が長いことを利用して、さらにスペクトルを細かく検討した。その結果、ナイトレンの3重項シグナル強度の温度依存性はキュリー則に従っておらず、またシグナルが温度とともに不可逆的な構造変化をしていることから、ナイトレンは対で発生していることが分かった。ナイトレン2d,2gのスペクトルでは5重項に基づくシグナルが見つかっており、ナイトレン対の存在を支持している。

 ナイトレン2fのESRスペクトルでは、カルバゾールを与える中間体と見られる3重項ビラジカルのシグナルが観測された。シグナル強度の温度依存性や零磁場分裂パラメータの大きさから、このスペクトルは図2に示すようなビラジカル種に帰属される。また、120K付近でこの種のシグナルは急増するが、ナイトレンのシグナルは変化しないことから、その温度まで結晶中にたまっているESR不活性な1重項種の存在が示唆される。このことは、アリールナイトレンの第一励起1重項状態が、開殻構造をもつことを実験的に示した例として重要な意味をもつと言える。この結果は、結晶環境中で中間体が安定に存在することを利用した成果であり、このように結晶環境はこれまで発見されていなかった中間体を検出し、これまで明らかにされていない反応機構等に重要な知見を与える可能性があるという点で、非常に興味深い。

図4:2-ニトレノビフェニル(2e)のESRスペクトル
【結晶内でのアリールナイトレンの反応機構】

 ESRにおける3重項ナイトレンのシグナル強度を基に、ナイトレンの消滅速度さらにその温度依存性から、反応の見かけの活性化パラメータを求めた。アゾ化合物を選択的に生成する一連のアジド化合物(1a-c,e,g,h)の場合でその値を比べてみると、活性化エンタルピー・エントロピーともに大きなばらつきが認められた。この結果は、反応の律速段階がナイトレンの2量化の段階にあるとしては説明がつかず、分子の拡散過程が結晶内反応において重要な要因になっていることを示唆するものである。さらに、p-(アセチル-N-メチル)アミノフェニルアジドにおいて、アゾ化合物とCH挿入生成物との生成比に着目し、生成比に対する光照射時間や光照射温度、反応完結温度の依存性や同位体効果を調べた。その結果、結晶内における反応性を支配する要因が、化学反応そのものの活性化エネルギーでなく、ナイトレンの周囲の環境や拡散過程の違いに起因していることを見い出した。

 以上、主としてESR分光法により、アジド結晶中において低温光照射により発生させたアリールナイトレンの化学的挙動を、高反応性中間体であるナイトレンをあたかも安定分子であるかのように詳細に追跡することにより、結晶内反応の本質を明らかにすることに成功した。これらの知見を結晶内反応の設計・制御に適用することが可能になれば、結晶場は今後より一層重要な反応場として活用されることになるであろう。

審査要旨

 有機反応化学の研究は、従来、気相や液相中の反応系を対象として発展を遂げてきたが、近年新たな反応場として、結晶相が注目を集めている。結晶内反応においては、分子の配列が3次元的規則性を備えているため、反応位置が限定され、極めて立体特異的な反応が起こりやすいなどの長所が指摘されている。ところが結晶内反応の場合、反応前後の情報をX線結晶解析や生成物分析などの手法により知ることができるものの、反応がどのように進行するかの途中経過を詳細に研究した例はまだ極めて少ない。また、結晶相においては、反応分子の運動が隣接分子の多大な影響を受け、分子運動が不均一かつ異方的であるために、反応系全体を統計学的に考察するのが困難であるなどの理由により、反応機構に関する理論的・実験的解明が遅れているのが現状である。

 このように将来物質変換の場として重要な位置を占めると考えられる結晶相反応の本質を理解するために、申請者は本論文において「結晶内反応における反応性中間体の動的挙動を明らかにすること」を目標として揚げた。このような観点から、アリールアシド結晶中で光分解により生成するアリールナイトレン-一価の窒素原子を含む-中心ジラジカル-を、対象とする高反応性中間体として取り上げ、その動的挙動を克明に解明した。以下論文の内容を簡単に紹介する。

 第一章では、結晶中におけるアリールナイトレンの挙動解明を研究対象として取り上げた意義について述べている。-中心ジラジカルであるアリールナイトレンは、スピン多重度と反応性の関連から、気相、溶液、マトリックス中など様々な媒体において詳細な研究成果が報告されてきた。しかしながら、固相中での挙動については未知の部分が多いことを指摘し、本研究はその未解明の部分に、新たな知見をもたらす可能性があることを論じている。

 本系においては、アリールナイトレンの前駆体であるアリールアジドの結晶が反応場となる。そこで第二章ではまず、X線結晶解析により数種のアリールアジド(1a-f)の結晶構造を明らかにし、その一般的特徴について論じている。決定されたアリールアジドの結晶構造に共通した傾向として、「アジド基が反平行に向がい合って配列する特徴」がみられることを指摘し、その原因としてアジド基の分極に基づく、分子間の静電的相互作用を挙げている。さらに、アジド基の配列様式の違いにより、アリールアジドの結晶構造を2つに分類している。タイプAはアジド基の対が1次元的に配列したものであり、タイプBは2次元的な層状構造を形成するものである。その上でこれらのタイプの違いは、ナイトレンの安定性や反応機構の違いに大きく反映されてるであろうことを予測している。実際この結晶構造的特徴を反映して、アリールアジドは光反応後、アゾ化合物を選択的に生成しており、「アジド基はアゾ化合物生成の反応場を自己形成する能力を持ち合わせている」ことを見出した。なお、アリールアジド化合物は化学的に不安定で、融点の低いものが多く、その結晶構造はあまり知られていない。このように結晶化が困難である化合物について、昇華法などを併用し、忍耐強く単結晶化を成功させたことは高く評価される。以下の章で議論されるアリールナイトレンの結晶中での化学的挙動が、すべて前駆体アリールアジドの結晶構造で裏うちされている点が、本論文に大きな説得力をもたらしているといえよう。

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 続いて、第三章において申請者は、実際に結晶内の光反応を行い、得られた生成物の同定を行った結果について、以下のように論述している。1)結晶内光反応においては、上記の理由でアゾ化合物が主生成物となる。2)一方、単離した生成物の中には、通常溶液中では得られない化合物も存在する。これらは結晶内でのナイトレンと隣接分子の反応部位との相対配向を反映した、トポケミカルな生成物として理解される。3)結晶内においてはアリールナイトレンに特有の環拡大反応生成物が得られず、アゾ化合物に代表されるように3重項ナイトレン由来の生成物が大半を占める。4)さらに、もう一つの生成物である窒素分子に着目し、自作のガスビュレットを用いて分析することにより、光照射により発生した窒素分子は、室温以上まで結晶中にとどまっていることを明らかにした。特に最後の実験事実は、結晶中でのナイトレンの特異な安定性を解明する手がかりとして、位置付けられるものである。

 第四章では、アジド化合物結晶の光照射で得られる反応生成物の多くが、3重項ナイトレン由来であることを指摘し、ESRを用いて結晶中で発生するナイトレンの挙動を追跡することにより、反応機構解明の上、重要な知見を得ている。中でも特筆すべきは、この実験を遂行する中で、「結晶中において発生させたアリールナイトレンは、室温で数分から10日もの極めて高い速度論的安定性を示す」ことを発見したことである。なおこの成果はすでに国内外で注目を浴び、大きな反響が寄せられている。

 一方、2-アジドビフェニルを光照射した、ESRスペクトルにおいては、ナイトレン以外の3重項シグナルを観測し、そのシグナル強度の温度変化をもとに、一重項アリールナイトレンからカルバゾール生成に至る新たな機構を提案している。この成果は、結晶内反応を利用することにより、極めて反応性に富む中間体を検出し、その挙動に基づき反応機構をより詳細に解明できる可能性を示したものといえる。

 第五章では、結晶中のナイトレンの挙動に関する総合的考察がなされている。特に、ESRにより測定したナイトレンの消滅反応の活性化パラメータに基づき、結晶内におけるアゾ化合物生成に対する速度論的解析を行い、その結果、結晶内反応の律速段階はナイトレンの2量化ではなく、再結合の座標に沿った拡散過程であることを明らかにした点は重要である。さらにこの結論を、独立した他の実験結果を加味することにより、「結晶内反応の高い選択性が、中間体の反応座標に沿った拡散過程に起因する」という解釈にまで敷衍している。また、結晶内のアリールナイトレンの相対的安定性や、熱力学的パラメーターの特徴などが当初に予測した通り、前駆体アリールアジドの結晶構造のタイプA・Bの違いにより、合理的に理解できることを明らかにした。

 以上本論文は、アリールナイトレンを例にとり、母結晶であるアリールアジドの結晶構造解析、光反応生成物解析、中間体の分光学的検出、および速度論的解析など多彩な方法を駆使して、結晶相反応の本質に迫った完成度の高い内容となっている。これらの成果は、反応場としての結晶相が注目されている現在、結晶内反応の設計や制御を考える上で大きな意味をもち、該当分野のさらなる発展に大きく寄与すると評価された。

 以上のことから、審査委員会は本論文を博士(学術)の学位にふさわしいものと判定する。

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