学位論文要旨



No 113125
著者(漢字) 今井,久登
著者(英字)
著者(カナ) イマイ,ヒサト
標題(和) 日本語格助詞の処理に関する実験心理学的研究
標題(洋)
報告番号 113125
報告番号 甲13125
学位授与日 1998.03.18
学位種別 課程博士
学位種類 博士(心理学)
学位記番号 博人社第192号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 高野,陽太郎
 東京大学 教授 立花,政夫
 東京大学 教授 佐藤,隆夫
 東京大学 助教授 丹野,義彦
 東京大学 助教授 市川,伸一
内容要旨

 この論文の目的は,日本語の統語情報の処理機構,およびその処理段階を明らかにすることである.そこで,格助詞「が」あるいは「を」が付加された名詞句と,その名詞句と統語的に照応する動詞の間の格関係の整合性に注目し,先行する統語情報がどのように利用され保存されているのか,また,予測が外れた場合にはどのような処理を受けるのかを明らかにするための実験を行った.

 まず,名詞句をプライム,動詞をターゲットとして統語プライミングの実験を行った.その結果,語彙判断課題を用いた場合,プライムとターゲットの間に連想関係がない場合にはSOAが700msの時にだけ統語プライミングが見られ,SOAが250msの時にはプライミングが見られなかった.これに対して,プライムとターゲットの間に連想関係がある場合には,SOAが250msの時にも700msの時にも統語プライミングが見られた.これらはいずれも抑制的な効果であった.さらに,音読課題を用いたところ,プライムとターゲットの間に連想関係がある場合にはSOAが250msの時にも700msの時にも統語プライミングが見られたが,連想関係がない場合にはいずれのSOAでも統語プライミングは見られなかった.

 これらの結果は,名詞句と動詞の間に連想関係がある場合とない場合とでは統語情報が異なる段階で処理されていることを示している.そこで,連想関係の有無によって統語情報が異なる段階で処理されているという仮定を導入して,結果の説明を行った.

 次に,名詞句と動詞の間に別の語が挿入され,これらが直接隣り合っていない場合にも統語プライミングが見られるか否かを調べる実験を行った.このような非隣接プライミングは,先行研究から,連想関係がある場合と連想関係がない場合とで異なる結果が得られると予測されるので,連想関係の有無によって統語情報の処理段階が異なるという仮定が妥当であるか否かを検証した.その結果,名詞句と動詞の間に連想関係がある場合には非隣接条件での統語プライミングが小さくなるが,連想関係がない場合には非隣接条件でのプライミングは隣接条件と同じ大きさであることが明らかになった.すなわち,連想関係の有無によって非隣接プライミングの結果が乖離したことから,連想関係の有無によって統語情報の処理段階が異なるという仮定が妥当であることが示された.

 1語を隔てても統語プライミングが見られるという事実は,先行呈示された統語情報が何らかの形で保存されているということを示している.そこで,語彙処理後段階で統語情報を保存しているのは作動記憶ではないかという可能性を検討するために,作動記憶容量の個人差と統語プライミングとの関係を調べる実験を行った.その結果,作動記憶容量の大きさによる統語プライミングの性質に違いは見られなかった.従って,連想関係がない場合の統語情報は作動記憶とは独立したモジュールに保存されていると結論された.

 ここまでの実験は,統語的な予測が妥当である場合だけを調べてきたが,必ずしも予測と一致する語句が後続するとは限らない.このようなガーデン・パス文の処理がどのような性質であるのかを明らかにするために,クリック・モニタ課題を用いて実験を行った.クリック・モニタ課題とは,文を視覚的に呈示している途中でクリック音を呈示し,被験者はクリックが呈示されたらできるだけ素早くキーを押すという課題である.その結果,予測が誤りであることが明らかになる文節が呈示されてからクリック音が呈示されるまでの遅延時間が50msおよび250msの場合にはガーデン・パス文と非ガーデン・パス文の間に成績の違いが見られなかったが,遅延時間が700msの条件ではガーデン・パス文の方が成績が悪かった.これは,ガーデン・パス文に対する再分析が,文節の呈示後250msまでは生じておらず,700msていどの遅延を経て生じていることを示している.

 この結果から,ガーデン・パス文の処理には作動記憶が関与しているのではないかという可能性が想定された.そこで,作動記憶容量によって被験者を分けてクリック・モニタ課題の成績を比較したところ,全体的な成績には差が見られたものの,ガーデン・パス文に対する処理の負荷には差が見られなかった.この結果は,ガーデン・パス文の再分析を行うためには汎用的な処理資源を必要としているものの,いったん処理資源が配分されれば その量には依存せずに処理を行うことができることを示している.すなわち,ガーデン・パス文の処理過程は,処理資源を配分されることによって起動するモジュールのような性質であると結論された.

審査要旨

 本論文は、日本語の統語情報に関して、心理的な処理プロセスを解明するために行なった一連の実験的研究を報告したものである。

 はじめの8つの実験においては、「プライミング効果」を利用して、統語情報が整合的な場合と非整合的な場合について、それぞれ、どのような処理が行なわれているかを検討した。「プライミング効果」とは、先行する語の処理が、後続する語の処理に影響を与える、という現象である。実験では、格助詞「が」と「を」を含む名詞句が動詞と整合している場合(例:「看板が並ぶ」)と整合していない場合(例:「看板を並ぶ」)とを比較した。名詞句に続いて提示した動詞を対象として、音読、あるいは、単語か否かの判断を求め、反応時間を計測した。その結果、(1)プライミングは、主として、統語的に整合していない動詞の処理を抑制するという形で現れること、(2)名詞と動詞との間に連想関係がある場合には、ない場合に比べて、プライミングが早く生じること、などが明らかになった。

 また、名詞と動詞が隣接しない文(例:「看板がきれいに並ぶ」)についても検討を行なった。名詞と動詞の間に連想関係がある場合には、隣接する文に比べて、プライミングは減少するが、連想関係がない場合には、プライミングは減少しないことが明らかになった。

 最後の3つの実験においては、統語情報が作動記憶(情報を一時的に保持し、処理を加えるための短期的な記憶システム)に保持されているのかどうかを検討した。その結果、統語情報は、作動記憶とは別の処理システムによって保持・処理されるが、その処理システムの起動には作動記憶の関与が必要とされることが明らかになった。

 本論文は、統語情報の処理プロセスに関する最先端の研究に新しい知見を加えるものである。11の実験は、いずれも、緻密に立案されており、その結果に基づく理論的解釈にも高い独創性が認められる。格助詞以外の統語情報処理については、今後の研究が望まれるものの、審査委員会としては、本論文が博士(心理学)に相応しいものであると判断した。

 以上

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