学位論文要旨



No 113126
著者(漢字) 神田,由築
著者(英字)
著者(カナ) カンダ,ユツキ
標題(和) 日本近世における芸能興行の存立環境についての研究
標題(洋)
報告番号 113126
報告番号 甲13126
学位授与日 1998.03.18
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第193号
研究科 人文社会系研究科
専攻 日本文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 吉田,伸之
 東京大学 教授 五味,文彦
 東京大学 教授 藤田,覚
 東京大学 教授 宮地,正人
 東京大学 助教授 宮崎,勝美
内容要旨

 近世芸能の特質は、それが生み出され育まれた社会との関係を論ずることなしには、解明することはできない。またこれらの芸能を通じて近世社会を捉え直すことで、その構造を認識するための新たな視角が広がるのではないかと思われる。かつて林屋辰三郎氏は芸能の社会的環境を考察する意義を積極的に説いた。またそれを継承した守屋毅氏は、芸能史における近世とは、芸能が商品化する時代である、という命題を提示した。近年、吉田伸之氏は近世都市の社会構造についての研究成果をふまえ、芸能興行の問題をそれと関連させて捉え直した。その研究は、この命題を本格的に取り上げる意味ももっており、注目される。本研究では以上のような先行研究に学びながら、具体的な分析対象地域として瀬戸内海地域を設定し、(1)芸能興行からみた瀬戸内海地域の社会構造の構図を描く、(2)「芸能の商品化」という問題を(1)で明らかした構図の中に位置づける、の二点を大きな課題とした。

 瀬戸内海地域における「場」の構造における特徴は、ひとつの「場」(市や町など)が芸能の「流通」拠点でもあり同時に「消費」の場でもあることから生じる重層性である。同地域における興行の「場」の頂点には三都とりわけ京・大坂の劇壇が君臨する。安芸宮島、豊後浜之市、讃岐金毘羅などは芸能の「消費」地でもあり、さらに別の興行地への芸団の「供給」元でもあった。ここからは次の伊予三島市、豊後杵築若宮市などへの巡業ルートが網目のように展開する。また瀬戸内海地域において特徴的なのが、役者村という芸能者集団の存在である。役者村の芸団は、在地社会に密着した農耕神事を名目とする芸能の場と、拠点型興行地をともに活動の場としている。彼らは一八世紀には「広域拠点型興行地」にも進出して、「杵築芝居」「中津芝居」といった「商品」名(ブランド)を確立していく。こうして三都の芸団とは別の系統の、いわば芸団の「生産」地が成立する。

 さてこの「場」構造において注目したいのが侠客集団の存在である。近世の市は(1)芝居・角力興行、(2)遊女売買、(3)諸商売、の三つを柱としていたが、これを「支配」するのが侠客的存在である。侠客にとって、芝居の興行権と市の「支配」権とは密接な関係があった。すなわち芝居興行の運上(「芝居札先」)を上納する者が、諸売買も含めた惣市中の運上上納者たる権利を得たのではないかと考えられる。また侠客の「市支配」権の特質として看過できないのが、領主権力との関係である。侠客の「市支配」とは領主権力の裏付けがあってはじめて成立するものであり、その「支配」機構は運上の徴収・上納システムに規定されている。これら侠客集団は単一身分集団ではなく、いずれも既存の身分あるいは渡世集団に帰属する者によって構成される。また集団の形成過程や類型は多様であるが、社会的実態においては類似するという特徴をもつ。芝居の興行権や遊女売買ルート、市場での営業権などは侠客集団の所有の核であり、その形成に大きな意味をもっていたと思われる。また彼らは広域的な侠客ネットワークを結んでいるが、これは特殊かつ多様な諸集団の「流通」機構ということができる。芸能や遊女の「流通」は、このような侠客ネットワークの成立によってはじめて可能になったといえよう。侠客は、芸能興行や遊女売買や諸商売の場であるそれらの要所(市・町)を「支配」し、またその意味で「流通」構造を「支配」していたのである。いいかえるならば、これらの特殊かつ多様な諸集団の「流通」機構とは、侠客の「支配」を受けた特殊な「商品」(遊女、芸能)の流通機構にほかならない。侠客ネットワークのもつ重要な意味の一つは、「商品」としての遊女・芸能の流通を、広域的なレベルで可能にしたところにあるといえよう。

 ところで、近世における芸能興行は(1)遊女売買と不可分の関係にある、(2)多元的な観客をもつ、(3)宗教性をもつ、の三点によって特徴づけられる。このような性格から、芸能の近世的な「商品」としてのあり方がうかがえる。

審査要旨

 本研究は、日本近世における芸能の歴史的性格を、「芸能の商品化」という視点から検討しようとしたものである。ここでは芸能という「商品」の生産・流通・消費の諸過程について、その全体像を解明すべく取り組んでいる。そして、芸能者集団、興行師、観客、芸能の場などの諸側面を、芸能の存立環境としてとらえ、瀬戸内海地域を対象に設定しながら論述している。こうした視点や方法はこれまでの芸能史には全く見られなかったもので、以下の点で重要な成果をあげている。

 1.讃岐金比羅、豊後浜之市、豊後若宮、伊予三島、安芸宮島など、瀬戸内海地域の主要な芸能の場を詳細に分析し、それぞれにおける芸能興行の内容とその存立環境を具体的に解明した。また、芸団の諸形態や上方の芸能集団との相互関係についても明らかにした

 2.芸能の場を分析するなかで、市場、市の支配や興行にかかわる粋方(すいほう)、角力や遊女など、芸能や芸能者と深く係わる存在を発見し、これらが全体として芸能の存立環境を形作る様相を明らかにした。

 3.粋方を中心とする侠客らの社会集団としての実態をはじめて解明し、かれらが領主支配の領域をこえて広域のネット・ワークを持つこと、その本質は遊女の宿・芸能民の宿、角力取の勧進元・商人宿・賭勝負宿・盗賊宿など、「宿」という性格を持つてんにあることなどを指摘した。そして、こうした侠客集団のネット・ワークのありかたこそが、上方と瀬戸内海地域における芸能の流通構造を規定するものであることを示した。

 4.近世的な商品としての芸能の性格を検討し、(1)芸能の商品化と遊女売買とが特にその流通・消費の局面で相互にきわめて密接に結びついていること、(2)観客が消費者とし均質化されておらず身分的・多元的構造をもつこと、(3)宗教性を色濃く帯びること、などが「近世的」特質の内容であることを明らかにした。

 本研究は、芸能史にとどまらず、日本近世の身分論や社会・文化構造の本質にせまる論点を内包しているが、この点にはまだ十分自覚的な検討が加えられていない。しかし、上記の顕著な成果にてらして、審査委員会は本論文が博士(文学)の学位に相当するものとの結論をえた。

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