学位論文要旨



No 113130
著者(漢字) 清水,真木
著者(英字)
著者(カナ) シミズ,マキ
標題(和) 二つのペシミズムの間で : ニーチェにおける「自由なる精神」への道
標題(洋)
報告番号 113130
報告番号 甲13130
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第197号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 天野,正幸
 東京大学 教授 高山,守
 東京大学 助教授 一ノ瀬,正樹
 筑波大学 助教授 笹澤,豊
 東京女子大学 助教授 森,一郎
内容要旨

 ニーチェによれば、哲学の本質は哲学者の「自己告白」であり、哲学的な言説は哲学者の「回想録」である。そして、ニーチェ自身の作品もまた、ニーチェ自身の「回想録」として解釈されるべきであることをニーチェは強調する。即ち、ニーチェの著作活動は、ニーチェ自身の生活と一体をなすものとして把握されねばならず、伝記的研究は、ニーチェの著作活動の本質を把握するための不可欠の通路となる。19世紀末以来多くの解釈者によって確定が試みられてきたニーチェ哲学の枠組の解明という問題は、ニーチェの生活に即した著作活動の段階区分の問題として主題化される必要がある。ところが、ニーチェの著作活動の発展史的解釈に関し19世紀末以来常識として受け入れられてきたルー・ザロメの見解は、著作活動と生活とを一体のものとして説明する晩年のニーチェの言葉に従うものではなかった。ルー・ザロメは、ニーチェの著作活動を三つの段階に区分し、『悲劇の誕生』と『反時代的考察』を第一の時期に、『人間的な、あまりに人間的な』『様々な意見と箴言』『漂泊者とその影』『曙光』『悦ばしき知識』を第二の時期に、『ツァラトゥストラかく語りき』以降の作品を第三の時期に夫々分類する。しかし、今日に至るまで殆ど修正を加えられぬまま継承されてきたニーチェの著作活動の三段階説を自明の前提とする限り、ニーチェ哲学の輪廓を把握することは不可能である。

 この論文は、ニーチェが自らの著作活動の段階区分のために用いた標識を確定することを通じ、ニーチェ哲学の枠組を明らかにする試みである。第二の時期の著作活動を先行する作品群から区別する標識の一つとして深い吟味を経ないで理解されている「自由なる精神」概念の成立過程と意味、そして、限界を解明することが具体的な目標となる。

 (1)ニーチェの著作活動は、ニーチェの本質をなす「病気」と「健康」によって規定され、「病気」と「病気」からの恢復が著作活動を区分する標識となる。ニーチェによれば、「病気」は1873年の「道徳外の意味における真理と虚偽について」に始まり、1879年の『漂泊者とその影』或いは1881年の『曙光』が健康の最初の表現となる。

 (2)「道徳外の意味における真理と虚偽について」は、『哲学者の書』の一部として執筆された文章であり、「仮象のうちにおける生存」に関する『悲劇の誕生』の立場を再現する役割を担う小さな一部分である。従って、この文章が反映する「病気」は、『悲劇の誕生』に根を持つものであり、この文章と『悲劇の誕生』が共有するのは、『悲劇の誕生』のうち晩年のニーチェの立場とは相容れない要素、即ち、「下降としてのペシミズム」を反映する要素であった。ニーチェの「病気」とは「下降としてのペシミズム」に他ならない。

 (3)ニーチェの「病気」が「下降としてのペシミズム」であるならば、「健康」を証するのは「下降としてのペシミズム」の反対概念としての「強さのペシミズム」である。ニーチェが「病気」によって見失った「課題」とは、「強さのペシミズム」の立場に身を置くことであった。

 (4)何らかの価値を真なるものとして承認することが生存の不可欠の条件であるにも拘らず、凡ての価値は遠近法的仮象に過ぎない。即ち、生存には仮象が不可避的に介在する。「強さのペシミズム」の立場に身を置くということは、この洞察に基づき、生存から意味を剥奪するような如何なる表象によっても損なわれることのない生存への意欲を獲得するための「自己克服」の手段として、最もペシミスティックな表象を自ら産出し、これを肯定することに他ならない。「強さのペシミズム」は、実験的な「ペシミズム」であり、「健康な人間」に対する要請としての「ペシミズム」に他ならない。

 (5)ニーチェによって書き残されたもののうちに「下降としてのペシミズム」の要素が侵入する1871年4月以前には、『悲劇の誕生』へと収束する悲劇論が「強さのペシミズム」の表現として構想されていたという事実、そして、「強さのペシミズム」を体現する存在が「自由なる精神」と名付けられていたという事実は、認識の実験のために生存を利用する自由と勇気の獲得がニーチェの「課題」であったこと、そして、ニーチェの「病気」がペシミスティックな表象を真理として要求する「下降としてのペシミズム」であったことを証する。

 (6)1881年の『曙光』において、ニーチェは、「権力」乃至「権力感情」という概念によって「強さのペシミズム」が「健康」の証であり、人間の生存の本来的な姿であることの証明を試み、1882年の『悦ばしき知識』及び1883年から85年の『ツァラトゥストラかく語りき』において、「自己克服」の手段としてのペシミスティックな表象のうち、生存から意味を最も深刻に剥奪するような表象を「等しきものの永劫回帰」の仮説として定式化する。「等しきものの永劫回帰」が「育成する思想」であるのは、この仮説を真なるものとして欲求する者が、権利上最も「健康な人間」と見做され得るからであった。

 (7)「強さのペシミズム」が「健康」の意味であり、最もペシミスティックな表象の実験的な産出により、却って生存への意欲を増大させる実験のために生存全体を利用することがニーチェ哲学の本質である以上、ニーチェ哲学は「実験哲学」と名付けられるべきである。そして、「実験哲学」としてのニーチェ哲学にとって、「近代」という時代は、認識の実験の手段として生存全体を利用する自由を実現しつつある時代であり、「近代」における「啓蒙」は、常に如何なる段階においても己の目標に到達している。ニーチェに従う限り、「近代」という時代、及び「近代」における「啓蒙」の成果は肯定的に、この限りにおいて肯定的に把握されねばならないのである。

審査要旨

 ニーチェの思想の時代区分といえば、常識的に三期に分けられる。第一期は『悲劇の誕生』を主要著作とする1877年まで、第二期が『人間的な、あまりに人間的な』(78年)、『曙光』(81年)、『悦ばしき知識』(82年)等を含む1882年まで、そして第三期が、『ツァラトゥストゥラかく語りき』(83〜85年)に始まり、病に沈む1889年までである。

 論者はまず、こうした「常識」がルー・ザロメの著作『その作品におけるフリードリッヒ・ニーチェ』(1894年)に由来するものであることを示す。そして、この常識がおよそ維持しえないものであることを、ニーチェ自身の回想的発言、および、豊富な文献の精緻な分析を通して、実証しようとする。

 その分析は多岐にわたるが、ポイントは、『鋤の刃』とのタイトルでとりまとめられている、1876年に成立した手稿をめぐるものである。論者によればこの手稿は、ニーチェ自身の発言によっても、また、内容的にも、それに先立つ思想、すなわち、『悲劇の誕生』や、未発表に終わった「幻の書」、『哲学者の書』とは、根本的に異質なものである。すなわちそれに先立つ思想は、「本能の病気」-つまり、「妄想」、「仮象」、「幻想」であるわれわれのこの世の生を、ひたすら生きようとする「本能」もしくは「意志」が病んでいた状態―のもとで成立したものであった。後(1880年代後半)の表現によれば、それは「下降としてのペシミズム」の表出であった。それに対して、『鋤の刃』は、ニーチェがこの「病気」から回復し、「健康」を取り戻して記されたもの、つまり、間違いなく「強さのペシミズム」の表出である。この手稿の用語によればそれは、「自由なる精神」の所産である。

 論者によれば,この手稿が、ニーチェの思想を決定的に二分する。すなわち、それ以後の思想は、基本的にこの手稿のものと同質である。『人間的な、あまりに人間的な』は、手稿とまったく同じ「自由の精神」の思想に貫かれている。また、『曙光』においては、この「自由の精神」の完成形態が見いだされうる。というのも、そこには「実験哲学」の思想-すなわち、われわれの生が「妄想」であるという認識を積極的に提示して、われわれの生存をそうした認識の実験の場所として利用すべきだという思想―が、現われているからである。つとに有名な「永劫回帰」という思想も、そうした「実験哲学」の一形態にほかならない。

 こうした論議においてなお興味深いのは、『鋤の刃』以降の「強さのペシミズム」の思想が、『悲劇の誕生』のための覚え書き(とりわけ1870年9月から1871年春までの覚え書き)において、実はすでに明瞭に読みとられうるという指摘である。

 以上の論述は、徹底的に文献的な手法によって貫かれ展開されており、その間の哲学的な議論に関しては、なお不十分の感を免れない。しかし、ニーチェの時代区分に関する主張はきわめて説得的であり、ニーチェ研究に一石を投ずることは疑う余地がない。よって審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位を授与するに値すると判定する。

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