学位論文要旨



No 113131
著者(漢字) 田畑,真美
著者(英字)
著者(カナ) タバタ,マミ
標題(和) 荻生徂徠における自己成就 : <気質不変化論>を軸に
標題(洋)
報告番号 113131
報告番号 甲13131
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第198号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐藤,康邦
 東京大学 教授 関根,清三
 共立女子大学 教授 佐藤,正英
 共立女子大学 助教授 黒住,真
 共立女子大学 助教授 菅野,覚明
内容要旨

 本論文の狙いは、江戸中期の儒学者荻生徂徠(1666-1728)の提示する<気質不変化論>と呼ばれる考え方を軸に、徂徠の捉える自己成就の在り方を明らかにすることにある。

 <気質不変化論>とは、朱子学の根本思想である<気質変化論>を否定する考え方であり、朱子学における自己成就の在り方、及びそこから導き出される人間観と見解を異にするものであった。人間のあるべき有り様として「渾然至善」の状態、換言すれば「聖人」の状態を掲げ、後天的な修養によってその状態に到達することを自己成就の形とした朱子学に対し、徂徠は人間が生来持つ多種多様な<個>性に基づいた自己成就の在り方を掲げた。つまり徂徠は、朱子学が明確に規定された「聖人」という一定の自己像を全ての人間存在にとって普遍的なものとして提示するのに対し、個々の存在が各々目指すべき多種多様な自己像を承認したのである。この個々の多種多様な在り方を承認するか否かが、両者の見解の決定的相違点なのである。

 第一章では、この自己成就を巡る理解の相違の源となっている、朱子学と徂徠学における人間の「性」の規定の仕方をそれぞれ確認する。そしてその上で、生来の「性」としての「気質」が変化するということに対する二者の見解の相違、つまり朱子学における<気質変化論>と徂徠学におけるその否定の根拠を検討する。徂徠は、朱子学の「性」を「本然」と「気質」に二分し前者を本来的有り様として重視する考え方を批判し、そこで軽視された「気質」の価値を位置付け直す。徂徠は、人間の「性」を「気質」のみであるとし、それを「天」から付与された通りに「成就」することこそが重要であるとした。

 この徂徠が承認した「気質」、すなわち人間の多種多様な性質の内実を詳しく考察するのが第二章である。徂徠は、「気質」に由来する各々の存在の<個>性をその所与の状態において直接的に肯定するわけではない。徂徠は、<個>性が持つ「善」にも「悪」にもなりうる多重性を指摘し、<個>性それ自体は単なる過剰なものに過ぎないことを認める。そして、それをある一定の方向性に基づいて「成就」させる必要性を主張した。その方向性とは、他者にとって意味や価値があり、何らかの役に立つことが出来る存在、つまり<有用性>を持つ存在になるということであった。徂徠は、人間が各々の<個>性に基づいてその<有用性>を発揮出来るようになることを、<個>性の「成就」であると捉えていたのである。

 さらに徂徠は、この<有用性>を核とする多種多様な<個>性の「成就」こそが人間の普遍的な有り様であると考える。<個>性の「成就」は、人間としてのあるべき有り様でもあったのである。このことを徂徠は、人間が普遍的に共有する三つの性質によって説明する。第三章では、徂徠の捉える人間の普遍的性質について詳述し、<個>性の「成就」と人間としてのあるべき有り様の結節点を検証する。徂徠は、その三つの性質を「親愛生養の性」・「運用営為の才」・<移化能力>と規定する。人間は、このうち特に前二者によって他者と共に存し、相互に<有用>な存在として働き、養い合いながら生きていくという人間としての根本的な有り様を展開していくのである。

 以上、第三章までは主に人間の「性」を巡る考察を行なったが、第四章ではそうした人間の「性」を「成就」させる装置としての「道」と人間との関わりに焦点を置いて論じる。徂徠は、「道」を「聖人」によって後天的に作られた具体的制作物であるとし、人間の実際の生活を統制するだけではなく、人間の<個>性を養い、「天下を安んずる」ことに与させる機能を持つものであると考えた。「道」による<養い>は、人間の実際の日常生活において、各々の「性」に従って自然かつ余裕のある形で行なわれるものであった。それはいわば、人間自身の固有な「生」の開示を許容し、その意味で人間の<主体>を尊重するものであった。

 このように、徂徠は基本的に生来の「天性」に即した個々の存在の「生」の開示を主張したが、この考え方は朱子学における人間観と大きく一線を画していた。第五章では、今までのまとめとして、徂徠の<気質不変化論>から導き出される人間観を「活物」という概念を軸に概観する。徂徠は「活物」の概念を基に、人間を他者と養い合いながら各々の<個>性としての働きを発揮し、あるべき自己を形成していく存在であるとする。つまり、人間は他者との<養い-養われ>るという相互交流の中で各々の多様な自己を「成就」していく存在なのである。いわば徂徠は、この他者との有機的連関を主軸として、人間における多種多様な自己成就、及び自己像の有り様を肯定しているのである。

審査要旨

 本論文は、近世日本の儒学者荻生徂徠の倫理思想を、その人間理解に焦点を絞って考察したものである。徂徠の説く独特の道の議論はきわめて多岐にわたる論点から成っているが、本論文は、その中から特に、朱子学的修養論を徹底して批判した徂徠学の、「自己成就」をめぐる理解をとりあげ、道学的普遍に対して、特殊・具体的な個の多様性を強調したとされる徂徠の人間理解を、その存在論的根底に迫りつつ詳細に分析したものである。

 従来の徂徠研究の多くは、政治と道徳の分離、自然から作為への移行等々を特色とする徂徠の道の規定の独自性の中に、近代の萌芽や、近代的主体性の確立を見いだすことを主たる関心としていた。そうした中にあって、これまで、経世済民の枠組みの中に回収されるものと見なされてきた、徂徠学における自己実現の問題を、あらためて人間本性をめぐる徂徠の議論の中に追究し、一定の像を描き出しえた本論文の意義は大きい。

 論者は、徂徠の「道学」批判の論旨を、単に道徳性の問題の分離を志向したものと解する立場をとらない。論者は、むしろ、内面的道徳性とは無縁に見える日常的・現実的な多様な生の営みそのものにおいて、持敬・窮理に代わる徂徠学の「自己成就」のプランが示されているものと考える。ここから論者は、一般に役割存在としての位置づけ論に解消されていると見られてきた、徂徠のいわゆる気質不変化論を、質的変化とも、また単なる量的変化とも異なる、特有の「変化」の相において把握しようと試みる。すなわち、「性」「中」「養い」「移・化」といった徂徠学の諸概念を精密に再検討し、聖人たることを要求されない普通の人間の自己実現の形を明らかにするのである。これらを通して、徂徠の道の思想が、結局のところは生きてみなければわからない個の生の意味や価値を、挫折や不足をも含めて全的に肯定する倫理思想的枠組みの提示に他ならないことが結論されるのである。

 以上のような試みは、徂徠のテクストの精密な読みと、論者自身の普遍的倫理への問題関心に支えられておおむね成功していると評価できる。ただ一方で、方法的な概念の規定にやや明瞭さを欠くこと、章立てや論理の構成に改善の余地が見られること、また問題を限定したことの引き換えに徂徠学の他の諸側面との関係付けが十分に論じられていないことなど、今後の課題とすべき点もいくつか残されている。とはいえ、これらは本論文の価値を決定的に損なうものではない。

 以上により、審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位を授与するに値するものと判定する。

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