学位論文要旨



No 113132
著者(漢字) 坂場,武史
著者(英字)
著者(カナ) サカバ,タケシ
標題(和) 視覚系の情報伝達 : 網膜内網状層におけるシナプス伝達に関する実験的研究
標題(洋)
報告番号 113132
報告番号 甲13132
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(心理学)
学位記番号 博人社第199号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 立花,政夫
 東京大学 教授 佐藤,隆夫
 東京大学 助教授 高野,陽太郎
 東京大学 教授 河内,十郎
 東京大学 助教授 酒井,邦嘉
内容要旨

 視覚系において、網膜は光を受容する機能と、感度の調節・コントラストの増強・色情報の抽出・運動の検出といった様々な視覚情報処理を行う機能を兼ね備えている。光を受容する視細胞や第2次ニューロンの双極細胞は、光刺激に対して緩やかに膜電位が変化する緩電位応答を発生する。双極細胞の緩電位応答は、網膜の出力細胞である神経節細胞に伝達されるとスパイク列に変換されて脳の視覚中枢へと送られる。神経細胞間での信号の伝達はシナプスと呼ばれる特殊化された部位で生じる。緩電位変化を伝達する網膜のシナプスは、脳のようにスパイクを発生する神経細胞間で信号を伝達するシナプスとは異なり、視覚情報をアナログ的に処理するのに適した機構になっていることが予想される。そこで、本論文では、網膜の双極細胞が緩電位変化を伝達物質の放出に変換する機構について詳細な検討を行った。

 実験には、キンギョの網膜から単離したオン型双極細胞を用いた。この細胞は、伝達物質を放出する部位であるシナプス前終末が中枢神経系の神経細胞としては例外的に大きい、という特徴を持っている。双極細胞は伝達物質として、グルタミン酸あるいはその類似物質を放出する。そこで、グルタミン酸受容体を豊富に含むアメリカナマズ網膜から単離した水平細胞を用いて、双極細胞から放出される伝達物質を検出した。シナプス前終末内のシナプス小胞の中に伝達物質は詰め込まれており、シナプス小胞が細胞膜に融合することによって、伝達物質は細胞外に開口放出される。その際、膜面積が僅かに増加するので、膜容量変化を測定することによって伝達物質の放出量を定量的に測定することができると考えられる。本実験では、膜容量測定法も適用した。

 一連の実験を行った結果、以下のことが明らかになった。

 (1)蛍光性Ca2+指示薬を用いてシナプス前終末における遊離Ca2+濃度を計測したところ、脱分極によってCa2+チャネルを活性化されている間、遊離Ca2+濃度は増加し続けたが、最大でも2Mにしか達しなかった。また、Ca2+チャネルが閉じると、遊離Ca2+濃度は数秒の時定数でゆっくりと減少した。

 (2)細胞膜直下の遊離Ca2+濃度をCa2+依存性K+チャネルの活性化を指標として調べたところ、5ms以内に10M以上になることが推定された。

 (3)双極細胞に脱分極パルスを与えてから伝達物質が放出されるまでの遅延時間を測定し、この値から伝達物質放出部位での遊離Ca2+濃度を推定した。その結果、伝達物質の放出部位ではCa2+チャネルの活性化に伴い、局所的に100M以上のCa2+が集積し、1ms以内に伝達物質が放出されることがわかった。

 (4)伝達物質の放出部位はCa2+チャネルのごく近傍に存在するために、素速く伝達物質を放出することができると考えられる。また、Ca2+チャネルが活性化されると、細胞内の遊離Ca2+は急峻な勾配を持って不均一に分布しうることが証明された。

 (5)伝達物質の放出には、脱分極開始後1ms以内に現れる速い成分と、開始後10msも遅れて現れる遅い成分があった。前者は、Ca2+チャネルの極近傍に存在しているために即時放出可能な状態にあるシナプス小胞が開口放出されたために生じ、後者は、Ca2+チャネルよりもやや離れた部位にある放出可能なシナプス小胞が動員されたために生じたものと考えられる。

 (6)脱分極によって生じる微小な膜容量変化はシナプス小胞の開口放出を正確に反映していることが明らかになった。この結果に基づき、双極細胞のシナプス前終末に存在する放出可能なシナプス小胞の数は5000個以上あることが推定された。

 以上の結果から、網膜の双極細胞は、瞬時に伝達物質を放出するのみならず、持続的にも放出することができる機構を兼ね備えており、光刺激による緩電位応答を忠実に次の神経細胞へ伝達できるようになっていることが証明された。

審査要旨

 本論文は、視覚系における初期情報処理を担う網膜での信号伝達に関して詳細な実験的研究を行い、光情報をアナログ的に伝達できる仕組みを解析したものである。

 神経細胞間の情報伝達はシナプスという構造を介して行われる。シナプス前細胞の神経終末内にCaイオンが流入すると、伝達物質を含有しているシナプス小胞が細胞膜に融合して伝達物質が開口放出され、シナプス後細胞に作用することによって情報が伝達される。本論文では、網膜第2次ニューロンである双極細胞が光刺激に応答して伝達物質を持続的に放出する機構を検討した。実験には、キンギョ網膜から単離した双極細胞を用い、膜電流を計測すると共に伝達物質の放出を検出した。

 第1章では、シナプス前終末におけるCaイオンの空間的・時間的変化を検討した。その結果、細胞が興奮してCaチャネルからCaイオンが流入すると、Caチャネル付近に集積し、1ミリ秒以内に伝達物質を放出することができることを証明した。第2章では、伝達物質の放出を規定する別の要因として、シナプス小胞の動態について検討した。その結果、Caチャネルの近傍にあって即時放出可能な小胞群と、Caチャネルからやや離れた位置にあって遅れて動員される小胞群とが存在することを見いだした。第3章では、実験結果に基づき、網膜双極細胞が光情報をアナログ的に伝達できる仕組みについて、新たなモデルを提案した。

 これまで、シナプス前終末が一般に小さいために、伝達物質の放出機構に関する解析が遅れていた。本研究は、シナプス前終末が例外的に大きいという網膜双極細胞の特徴を生かし、かつ、高度な実験手法を適用することによって、伝達物質の放出機構に関する重要な新知見を得た。また、視覚系の情報伝達を考える上で貴重な概念を提案した。本論文では、視覚そのものとの対応関係や、神経細胞の微細構造や分子機構との対応関係が明らかにされていないが、これは今後に残された課題である。しかし、実験の精確さ、論理の確実性、独創的な知見など、本論文の完成度は極めて高い。審査委員会は、本論文が博士(心理学)を授与するに値するものとの結論に達した。

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