人間にとって救済が必要になるのは、身心の分離・相剋が意識されたときである。『源氏物語』では、それが主として仏教信仰における現世離脱と、如何ともしがたい現世執着との矛盾としてとらえられている。しかし、登場人物の救済問題において、そのような信仰心と俗世間にある「身」との不均衡関係の上に、古代的な情念としての「魂」と「身」の関係も加わっているように思われる。本論文では、道心問題を軸に、離脱を志向する「心」、情念としての「魂」と社会的存在としての「身」との関係を解明し、もって物語における救済の意義を考察した。 「身」と「心」の関係には、(a)とくに恋愛感情にみられる感情・情念を意味する感性の「心」と肉体を意味する「身」、(b)主として憶良の作品・紫式部の歌・白居易の詩作にみられる信仰心ともいうべき離脱を志向する「心」(=意気)と生身の人間としての「身」(=身体)との対応構造が指摘できる。(a)の場合、古代では情念を表す「魂」に等しい「心」は、遊離することによって「身」の代わりに思いを実現するという主体的な働きを行うが、平安時代になると、そのような「心」の遊離性も低下し、情念の「心」もかえって「身」に屈するようになった。(b)の場合では、それを「身」をめぐる離脱を志向する「心」と現世に執着する「心」との相剋としてとらえなおすことができ、信仰心が現実の「身」に従属してしまう構造がみられることを指摘した。『源氏物語』が創作されたころでは、(a)・(b)のいずれの場合でも、「心」はすでに「身」に妥協し、従属するものになっていたのである。 そのような「心」と相違するのは情念としての「魂」である。「身」にまつわる社会的要素の増幅に伴い、「心」はその遊離性を喪失しつつあるが、「魂」は「魂合」を求めて社会のしがらみから超越することができた。物の怪となって活動する六条御息所の生霊・死霊は、理性の統御を越えた古代的な情念の「魂」そのものである。その情念が成就できなかったため、彼女は出家しても成仏できなかった。柏木も仏の救済よりも、女三宮との共感を求め、それによる自身の「魂」の救済を幻想したのである。このように、仏道による救済が、情念としての「魂」の救済と絡んでいるのである。 紫の上・光源氏の道心に顕著に現れているのは、深い道心に背反する限りない愛憐執着の苦悩である。紫の上は光源氏の愛情に背くことができず、光源氏は「憂愁」を悟りに転換することができなかった。二人は結局出家を放棄していることから、同じく信仰心が現実の「身」に妥協する関係をみることができる。それとともに、最後まで絆に執着し、もって心身一体での出家を実現しようとしていることは、仏教的では執着心が罪で救済の妨げであるとする認識とは別に、仏の救済の前提条件として、「魂」の救済が位置づけられていると読むことができる。紫の上の救済が読み取れるのも、彼女の「魂」が救われるからである。 一方、光源氏は終に出家しなかった。彼は生来抱え込んでいる「憂愁」を解消することができなかったからである。未練を断ち切ることができなければ、絆の存在がなくなって、その上執着心がなくなるということはあり得ないのである。したがって、心身一体での出家が不可能であれば、「魂」の救済はあり得ないし、仏の救済も期待できないのである。これは物語の作者が光源氏の道心描写を通して示した人間救済についての厳しい認識であろう。 |