学位論文要旨



No 113133
著者(漢字) 張,龍妹
著者(英字)
著者(カナ) チャン,ロンメイ
標題(和) 源氏物語における救済
標題(洋)
報告番号 113133
報告番号 甲13133
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第200号
研究科 人文社会系研究科
専攻 日本文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,日出男
 東京大学 教授 小島,孝之
 東京大学 教授 多田,一臣
 東京大学 助教授 安藤,宏
 東京大学 助教授 月本,雅幸
内容要旨

 人間にとって救済が必要になるのは、身心の分離・相剋が意識されたときである。『源氏物語』では、それが主として仏教信仰における現世離脱と、如何ともしがたい現世執着との矛盾としてとらえられている。しかし、登場人物の救済問題において、そのような信仰心と俗世間にある「身」との不均衡関係の上に、古代的な情念としての「魂」と「身」の関係も加わっているように思われる。本論文では、道心問題を軸に、離脱を志向する「心」、情念としての「魂」と社会的存在としての「身」との関係を解明し、もって物語における救済の意義を考察した。

 「身」と「心」の関係には、(a)とくに恋愛感情にみられる感情・情念を意味する感性の「心」と肉体を意味する「身」、(b)主として憶良の作品・紫式部の歌・白居易の詩作にみられる信仰心ともいうべき離脱を志向する「心」(=意気)と生身の人間としての「身」(=身体)との対応構造が指摘できる。(a)の場合、古代では情念を表す「魂」に等しい「心」は、遊離することによって「身」の代わりに思いを実現するという主体的な働きを行うが、平安時代になると、そのような「心」の遊離性も低下し、情念の「心」もかえって「身」に屈するようになった。(b)の場合では、それを「身」をめぐる離脱を志向する「心」と現世に執着する「心」との相剋としてとらえなおすことができ、信仰心が現実の「身」に従属してしまう構造がみられることを指摘した。『源氏物語』が創作されたころでは、(a)・(b)のいずれの場合でも、「心」はすでに「身」に妥協し、従属するものになっていたのである。

 そのような「心」と相違するのは情念としての「魂」である。「身」にまつわる社会的要素の増幅に伴い、「心」はその遊離性を喪失しつつあるが、「魂」は「魂合」を求めて社会のしがらみから超越することができた。物の怪となって活動する六条御息所の生霊・死霊は、理性の統御を越えた古代的な情念の「魂」そのものである。その情念が成就できなかったため、彼女は出家しても成仏できなかった。柏木も仏の救済よりも、女三宮との共感を求め、それによる自身の「魂」の救済を幻想したのである。このように、仏道による救済が、情念としての「魂」の救済と絡んでいるのである。

 紫の上・光源氏の道心に顕著に現れているのは、深い道心に背反する限りない愛憐執着の苦悩である。紫の上は光源氏の愛情に背くことができず、光源氏は「憂愁」を悟りに転換することができなかった。二人は結局出家を放棄していることから、同じく信仰心が現実の「身」に妥協する関係をみることができる。それとともに、最後まで絆に執着し、もって心身一体での出家を実現しようとしていることは、仏教的では執着心が罪で救済の妨げであるとする認識とは別に、仏の救済の前提条件として、「魂」の救済が位置づけられていると読むことができる。紫の上の救済が読み取れるのも、彼女の「魂」が救われるからである。

 一方、光源氏は終に出家しなかった。彼は生来抱え込んでいる「憂愁」を解消することができなかったからである。未練を断ち切ることができなければ、絆の存在がなくなって、その上執着心がなくなるということはあり得ないのである。したがって、心身一体での出家が不可能であれば、「魂」の救済はあり得ないし、仏の救済も期待できないのである。これは物語の作者が光源氏の道心描写を通して示した人間救済についての厳しい認識であろう。

審査要旨

 本論文は、『源氏物語』がその主題を担うべく、いかに人間救済の課題を深化させているかを具体的に分析し論述した論文である。作品分析を通して、仏教信仰における道心志向としての「心」、人間の内奥にある情念としての「魂」、また人間の社会的存在としての「身」という関係性をとらえ、その関係に矛盾や不均衡の生ずるところに救済の課題があるととらえる。また他方では、古代和歌における「身と心」(感性と肉体)、中国的な詩文における「身と心」(信仰と人間存在)という対応関係をも参照しながら、『源氏物語』における救済の課題の独自性を析出していく。具体的には六条御息所・柏木・紫の上・光源氏ら作中人物の造型を俎上にのぼせ、その救済のありようを論じているが、その中心は主人公光源氏にある。その生涯を通じて憂愁を深めさせられている光源氏には、愛憐執着ゆえの苦悩を強めるだけに、ついに「魂」の救済がありえなかった。そこにこの作品の主題の深化があると論じている。

 従来も仏教的な課題からの分析はしばしば行われてきたが、本論文の「心」「身」「魂」という言葉の分析、さらにそれを古代和歌や漢詩文の言葉と対応させる方法には、従来にはない斬新さが認められる。それによって分析が説得力をもち、論証が相対的な確かさをもちえている。ただし、光源氏の生涯にわたる心の憂愁の問題に関しての分析については、なお一考すべき余地が残されている。しかし論旨全体を弱めてはいない。

 よって、審査委員会は本論文が博士(文学)の学位に値するとの結論に達した。

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