学位論文要旨



No 113137
著者(漢字) 吉田,京子
著者(英字)
著者(カナ) ヨシダ,キョウコ
標題(和) 十二イマーム・シーア派におけるガイバ論の形成 : シャイフ・サドゥークの方法と意義
標題(洋)
報告番号 113137
報告番号 甲13137
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第204号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鎌田,繁
 東京大学 教授 竹下,政孝
 東京大学 教授 後藤,明
 東京大学 助教授 柳橋,博之
 東京大学 助教授 市川,裕
内容要旨

 本論は、十世紀後半から十一世紀前半にかけて成立したガイバ思想の発展経緯を、当時のイマーム派の代表的ハディース学者であるシャイフ・サドゥーク Muhammad b. ’Ali b.Husayn b.Babuyah(Babawayh)al-Qummi(d.381/991)の『信仰の完成と恩寵の充足』Kamal al-Din wa-Tamam al-Ni’mahの分析を通じ、解明するものである。

 本論は、十二イマーム・シーア派のガイバ思想を、従来の研究でみられたような完成された一つの公定教義としてとらえず、個々の思想家たちによる知的作業が結晶化したものと考える。このような立場から、『信仰の完成と恩寵の充足』を、十二イマーム・シーア派のガイバ思想全体を構成する一構成要素として分析する。

 従来の研究では『信仰の完成と恩寵の充足』は、ハディース集の形式をとる「(派内の信者に対する)教示的」テクスト、「伝聞による論証」のテクストとして、クライニーやヌウマーニーのガイバ論と同類視されてきた。本論では、この分類規定で網羅しきれていないシャイフ・サドゥークのガイバ論に固有の部分に焦点をあてる。

 『信仰の完成と恩寵の充足』は、十二代イマームのガイバの内容を規定する部分、具体的情報やイマームなどからのハディースによって一連のガイバ規定を正当化する部分、物語ハディースの引用によってそれらを補完する部分の三層構造をなす。

 十二代イマームのガイバの内容を規定する部分と、ハディースによってそれらの規定を正当化する部分では、従来のガイバ論での方法が全面的に継承されている。それに対し、シャイフ・サドゥークのガイバ論固有の論証が展開されるのが、物語ハディースを採用した部分である。この部分では、過去の預言者や伝説的人物の物語が、イマームのガイバと対応するように配置され、物語が常にイマームのガイバを暗示するよう、さらに、十二代イマームのガイバの規定も常に物語を喚起するものになるよう構成されている。

 物語の採用により、ガイバ思想は、十二代イマームの不在という特定の一時点にのみ関わるものではなく、アーダムに始まる原初から神の審判が下される終末までの時間全体を視野に入れた原理として認識される。過去の預言者に関する物語、長寿物語、ズー・カルナインとユーザースフの物語の三種類の物語を通じて初めて、ガイバが原初〜現在〜未来という時間全体を集約するものとして、巨視的にとらえられる。

 さらに、物語の採用は、読者(信者)の心理作用として、十二代イマームのガイバそのものに備わる「不可知のもの」としての属性を開示させる。「不可知のもの」としての属性は、十二代イマームのガイバを、真正性が要求される歴史的事実の領域から、人知では推し量ることの不可能な信仰真理の領域へと転化させる。それを受けて、シャイフ・サドゥークは、「不可知のもの」であるガイバを全面的に受け入れ、自己の置かれた立場に耐えることこそがイスラームの信仰であると結論づける。彼は、十二代イマームのガイバを、イマーム派の信仰に対する試金石として機能させ、来世における救済の主要動因として位置づけたのである。

 シャイフ・サドゥークのガイバ論は、この物語採用により、クライニーやヌウマーニーのテクストとは異なるガイバ論テクストであると結論づけらる。そこには、同派のガイバ思想が明確に進歩発展している経緯が読み取れるからである。シャイフ・サドゥークのガイバ論は、既存のガイバ認識を継承し、それらに新たな解釈や情報を加えるとともに、物語ハディースを多用することで、ガイバの「不可知のもの」としての属性を開示させ、ガイバを真偽を問う領域から、絶対服従が要求される信仰真理の領域へ転移させた「巨視的ガイバ論」といえる。

審査要旨

 本論文は十二イマームシーア派の教義の確立に貢献した西暦10世紀のハディース学者シャイフ・サドゥークがその著「信仰の完成と恩寵の充足」のなかで、終末に再臨し正義をもたらすと信じられている十二代目の最後のイマーム(マフディー)のガイバ(姿を隠していること)を、どのように正当化し、理解しているかを分析したものである。筆者はテキストの地道な読解を通して、ガイバ思想の歴史的展開のなかにサドゥークの議論を位置づけることに成功している。

 第一章では、サドゥークの活動をまとめ、十二イマーム派のなかでの彼の評価の推移を述べる。彼が必ずしも第一級の評価を与えられなかったのは、合理主義的な思潮の強まりと彼のハディースの素朴な利用法のためであると指摘する。

 第二章では、テキストのおかれた外的環境としてサドゥークの時代の政治的、思想的状況、イマーム派内の社会的状況などを簡潔に整理する。本書の述作の目的は、シーア派と対立するスンニー派を批判することではなく、シーア派内の対立、混乱に惑わされている信者にガイバの正当性を納得させるために書かれたものであると指摘する。またサドゥークに先行してガイバを論じたふたりの学者を検討し、サドゥークを含めて皆ハディースを提示する形態で論証を進めるという共通性はあるが、それぞれの著作は固有の特徴をもっていることを明晰に論じる。これらの指摘はガイバ論の歴史的展開を考えるうえでの基礎的知見を提供するものと考えられる。

 第三章では、ガイバの基本的な様態については先行ガイバ論を踏襲しそれをさらに詳細にした点にサドゥークの特徴を見出すが、他方、従来見られなかった要素として、昔の預言者、長寿者、英雄の物語ハディースの利用をあげる。特に、イスラーム以前の預言者たちの物語のなかにガイバなど、マフディーの行なうこと(の前例)はすべて含まれており、ガイバは預言者たちの慣例に従った、正当なものであるという論証を見出す。これはそれまで無視されがちであった物語ハディース援用の意味についての優れた着眼である。

 第四章で、筆者はサドゥークの議論のもっとも特徴的な点である物語ハディースの多用が、ガイバの歴史性を背景に退かせ、新たな面を開示するという。ガイバは「不可知のもの」である、という面がそれであり、それは神の恩寵に基づく「伝聞知」によってしか知ることのできないものとなる。こう考えることでガイバがいかに非現実的に映ろうが、それは真実/虚偽の人間理性の判断の及ばない問題となり、歴史的事実の領域から信仰的真実の領域に移行すると筆者は考える。ここにはハディース学的「知」に基づく信仰のあり方が示唆されている。

 本論文によって、サドゥークの議論が、先行する学者たちのものとは異なる独自の内容と意義をもつことが明らかにされた。物語分析を通して物語ハディースがいかに本書の述作の意図に統合され、ガイバの正当化に貢献しているかを示した筆者の論旨は明快であり、説得力がある。イスラーム社会のなかで物語の果たした役割、イスラーム全体のメシア思想とシーア派マフディー思想との連関など、十分に考察の及んでいない点も見られるが、これらは決して本論文の価値を否定するほどのものではない。

 以上により、審査委員会は本論文が博士(文学)の学位を授与するに値すると判定する。

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