学位論文要旨



No 113138
著者(漢字) 坂本,貴志
著者(英字)
著者(カナ) サカモト,タカシ
標題(和) 崇高による自由の理念の救出と歴史哲学 : シラーの三部作悲劇『ヴァレンシュタイン』
標題(洋)
報告番号 113138
報告番号 甲13138
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第205号
研究科 人文社会系研究科
専攻 欧米系文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 浅井,健二郎
 東京大学 教授 平野,嘉彦
 東京大学 教授 松浦,純
 東京大学 助教授 重藤,実
 東京大学 助教授 藤井,啓司
内容要旨

 本稿はシラーの歴史悲劇『ヴァレンシュタイン』が、彼の歴史哲学と現実の歴史観との間にある相克をその本質的な問題として抱えるものと位置づけ、最終的に、崇高という、シラーの芸術理論における最も重要な概念によってこの巨大な三部作の持つ意味の解明を目指そうとするものである。それゆえ、議論の手続きとしては、シラーの歴史哲学を考察すること、崇高についての議論を押さえることがまず最初に考えられる。この上で『ヴァレンシュタイン』の中に反映される現実の歴史の経過というものが、シラーの歴史哲学を破綻させるような力を持つものとして捉えられ、最終的にシラーの悲劇芸術が目標とする崇高によって、悲劇の内部で、シラーの歴史哲学の終局に位置する自由の理念の救出がいかにして行われるかを見ようとするものである。

 古典主義前期、美学修養時代のシラーは、カントの啓蒙主義の影響を受けて目的論的な歴史哲学を構想するが、それは素朴を始点とし自由をテロスとする目的論的螺旋構想の歴史哲学と捉えられる。また、シラーの崇高論では結局のところ、美の理論の時と同じように、理念的な自由が求められ、実践的崇高の経験において人間は、感性的に働きかけてくる外部の対象を契機として感性的世界から脱却するのであり、人間が本来能力として持つ自由の理念の存在を確認するのである。一方で、永劫の未来の果てに確保されていたはずの自由の理念が、崇高の中ですでに先取りされる可能性があり、この瞬間に、螺旋構造を持ったシラーの目的論的歴史哲学は崇高の中にその終局を見いだす。シラーはその歴史哲学としては、ひとつの目的論的な螺旋構想を抱くものの、同時に悲劇の中で崇高なる対象を契機として、歴史哲学の終局に位置するはずの自由の理念を現在的に表示する可能性を得るのである。

 『三十年戦史』において現実的な歴史が「自然力相互の葛藤」として眺められるとき、現実の歴史の中にはシラーの歴史哲学がその終局に用意する自由の理念へと向けたいかなる運動性も見られない。そうした歴史の現実的な姿が、「見えない力」としてこの三部作『ヴァレンシュタイン』の中で捉え直され、その象徴が皇帝となる。こうした力から自由であろうとするヴァレンシュタインの企図は、昨日までの世界を理由なく肯定する力との葛藤の中に置かれるが、最も堅固な力としての「見えない力」の勝利という結果が最終的に生じる。それはシラーの現実的な歴史考察の結果でもある。ただ、ヴァレンシュタインは「見えない力」との戦いに敗れはしても、「崇高のモノローグ」を語るときには、自らを挫折せしめ、そして生命を脅かす敵からは自由になり、崇高となる。この瞬間に、シラーの歴史哲学、すなわち歴史の終局にある自由の理念に向かって螺旋状に発展していくという彼の構想は、現実の歴史と、これを形づくる「見えない力」によって破綻するのだが、そうしたシラーの歴史哲学の破綻を回避し、自由の理念を救出するのが崇高であり、ヴァレンシュタインは崇高であることによって、シラーの歴史哲学の現実的な歴史を前にした破綻を回避し、同時に自由の理念の救出を行うのである。シラーの見るように歴史が「自然力相互の葛藤」である限り、自由はいかなる場面にも存在し得ない。そうした感性的な事物の連鎖から、主観の内で自由になる以外に、自由の理念の表出はあり得ない。自由になるための抵抗力をヴァレンシュタインは『ヴァレンシュタインの死』の中の「崇高のモノローグ」で最終的に見せ、シラーはこの崇高なるものの形姿により、その歴史哲学の破綻と自由の理念の救出を同時に行うのである。三部作『ヴァレンシュタイン』は、シラーの歴史哲学を破綻させるような認識、すなわち「自然力相互の葛藤」としての歴史の中に、悲劇を構成する力を求めるものである。この構造の中から崇高という芸術表現の可能性が生まれ、これにより、自由の理念の救出と、この理念をテロスとするシラーの歴史哲学そのものの救出が同時に可能となるのである。

審査要旨

 本論文はフリードリヒ・シラー(1759-1805年)の、ドイツ古典主義を代表する歴史劇三部作『ヴァレンシュタイン』 (1798-99年)を、古代ギリシア悲劇との対比において、シラー独特の歴史哲学に基づく<近代悲劇>として捉え、その思想的淵源を解明しつつ論ずる作品論である。

 本論文は大きな二つの章から成る。論者は、まず「序」で論述主題を提示したのち、第一章「シラー美学と歴史哲学の形成」において、シラーの歴史研究(とりわけ『三十年戦争史』)と美学研究を手掛りに、<自由>の理念の実現をテロスとする歴史哲学の形成、および、この理念とシラー美学の頂点に位置する<崇高>概念との関係を、シラーに大きな影響を与えたゲーテの芸術論ならびにカントの哲学との比較検討をまじえながら、詳細に分析・叙述する。次いで第二章「『ヴァレンシュタイン』論」では、第一章での分析を踏まえ、現実の歴史によって実現を阻まれる<自由>の理念が、悲劇空間のなかで、主人公ヴァレンシュタインの到達する<崇高>により救出される結構が解明される。

 本論文の叙述には、同一テーゼの不要な繰り返しが所々見られ、同時に、個別的な論述モティーフの配列になお一層の工夫が望まれる点、また、シラーの現在を論者の現在から批判的に相対化しようとする視点がやや稀薄な点、等に問題がないわけではない。とはいえ、人間を悲劇的に断罪する神話的機構をもたない近代において、シラーが、ギリシアの神々に代わる暴力(Gewalt)の源泉を歴史に見出し、これによってシラーの近代悲劇が可能になったとする論者の見解には充分説得力があり、今後の研究の発展を大いに期待させる。

 以上により本審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位に相当するものと判断する。

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