ロートは状況を、基本的に敵意あるものとして経験した。ロートの作品には、状況の中で生き、状況に翻弄されざるをえない人間という存在の、不完全さおよび可能性と、状況と無縁な、ゆるぎない幸福へのあこがれが、並行して記されている。 伝統的形而上学によれば、人間やものは、神の意志や実体の連鎖といった包括的秩序の一部であった。人間の意図の実現のための原料や道具であるのではなく、それぞれに意味をもっていた。この包括的秩序への信頼が失われた近代においては、意味を保証するものはない。われわれの社会に流通しているのは、「本質のない」概念、空疎な図式、見せかけ、名称のみである。そしてわれわれは、思いがけない現実に襲われる。できごとの経験は、われわれが望まぬような、われわれに苦痛を与えるような見知らぬものの現出である。それはまさしく「被ること(Leiden)」である。懐疑はわれわれが、ひとつの統合された全体に帰っていくことはできない、という意識なのだ。神による保証、その上でわれわれの存在が展開される超越的舞台が失われたことは、表層に対して、伝統的に「深さ」という比喩で表されてきた次元が不安定になったことを意味する。現象に対する実在の次元、直接に認識されるものに対して、意味づけをし、価値判断をし、修正を行うことを可能にするものが、見えなくなったのだ。懐疑は神と世界と自己を分割することによって、不正や不幸に逆らい、修正するようなはたらきを自己の側に見出すことを可能にする。 しかしわれわれは幸福でありたいのだ。たとえ懐疑が、後から幸不幸の彼岸のひとつの感情を可能にするにしても、それは意識という居心地の悪い道を通ってなのである。われわれが幸福であるためには、われわれが救われてあることが必要であろう。つまり人間ではない、絶対的な力のみが、われわれを絶対的幸福の中に置くだろう。 第I部では、20年代に書かれた三つの作品をとりあげ、その中で現象にすぎないものとほんとうのもの、レッテルにすぎないものと人間らしいものという対概念がどのように提示されているかを、検討した。「クモの巣」、「果てしなき逃走」の主人公は、「実体なき」機能の連鎖としての社会に対し、その「下」の実体、体験し、他者に出会い、幸不幸を感じ、意味を求めるものの存在を見出すことができない。「野いちご」では、社会的表れの背後に保証のある世界、「故郷」が提示される。しかしこの「故郷」は、作中人物が思い描いたものではなく、そこにあるものだ。ないもの、失われた実体を設定し、想定し、信頼することは無理なのである。 第II部では、神に対する反逆という「ヨブ」のモチーフが、彼岸にも此岸にも頼りうる実体を見出せない者たちの経験を語っているのを見た。「反逆」と「ヨブ」の主人公たちは、神に対する反逆により、形式のみになってしまった伝統と訣別し、連関として構成され、固着化し、習慣化した現実像から離れる。それにより、彼らの中で具体的状況に対する感受性がはたらき始める。このとき幸福は、道徳的規則により手に入れられるものではなく、偶然、Fortunaとしての性格をふたたびとりもどす。「残酷で恵み深い」神である神とは、人間が変更可能なものの境界線そのものとなる。統合するなら、何かが失われていってしまうようなものが、経験の中でのみ結び合わされて、ひとつの意味の感覚がもたらされる。 第III部では、状況の中で生きる存在と状況の致命的影響を受けない存在の可能性を秤にかける、ふたつの作品を検討した。「タラバス」は言わば回心物語であるが、状況とかかわらない、主観的世界における幸福、いわば天の故郷をもってしまう者の物語である。「偽の分銅」は、不幸に逆らうはたらきとして呼び出される、意識=良心について語る。それは孤独なものであり、「故郷」に帰ることとは、両立しない。 これらの作品は、状況にかかわらない幸福の道と、状況の中で生きること、つまり懐疑の道が、交わらないことを語っている。現代においては、幸福の道は、個別的な、奇妙な者、奇矯的存在の道としてのみある。懐疑の道はわれわれに、人間としてのあらゆる経験を与え、われわれを外から来る何ものにも頼らぬ意識の端緒に立たせる。しかしそれは、困難で不安定な道なのだ。ロート最後の作品、「聖なる酔っぱらいの伝説」は、もともと実体を内にもつ者ではなく、「われわれ」のうちのひとりが、幸運な状況に支えられて故郷を見出す、まさに「伝説」として書かれるのである。 |