学位論文要旨



No 113139
著者(漢字) 富重,純子
著者(英字)
著者(カナ) トミシゲ,ジュンコ
標題(和) 懐疑と幸福 : ヨーゼフ・ロートの作品世界における
標題(洋)
報告番号 113139
報告番号 甲13139
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第206号
研究科 人文社会系研究科
専攻 欧米系文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 平野,嘉彦
 東京大学 教授 浅井,健二郎
 東京大学 教授 松浦,純
 東京大学 助教授 重藤,実
 東京大学 助教授 藤井,啓司
内容要旨

 ロートは状況を、基本的に敵意あるものとして経験した。ロートの作品には、状況の中で生き、状況に翻弄されざるをえない人間という存在の、不完全さおよび可能性と、状況と無縁な、ゆるぎない幸福へのあこがれが、並行して記されている。

 伝統的形而上学によれば、人間やものは、神の意志や実体の連鎖といった包括的秩序の一部であった。人間の意図の実現のための原料や道具であるのではなく、それぞれに意味をもっていた。この包括的秩序への信頼が失われた近代においては、意味を保証するものはない。われわれの社会に流通しているのは、「本質のない」概念、空疎な図式、見せかけ、名称のみである。そしてわれわれは、思いがけない現実に襲われる。できごとの経験は、われわれが望まぬような、われわれに苦痛を与えるような見知らぬものの現出である。それはまさしく「被ること(Leiden)」である。懐疑はわれわれが、ひとつの統合された全体に帰っていくことはできない、という意識なのだ。神による保証、その上でわれわれの存在が展開される超越的舞台が失われたことは、表層に対して、伝統的に「深さ」という比喩で表されてきた次元が不安定になったことを意味する。現象に対する実在の次元、直接に認識されるものに対して、意味づけをし、価値判断をし、修正を行うことを可能にするものが、見えなくなったのだ。懐疑は神と世界と自己を分割することによって、不正や不幸に逆らい、修正するようなはたらきを自己の側に見出すことを可能にする。

 しかしわれわれは幸福でありたいのだ。たとえ懐疑が、後から幸不幸の彼岸のひとつの感情を可能にするにしても、それは意識という居心地の悪い道を通ってなのである。われわれが幸福であるためには、われわれが救われてあることが必要であろう。つまり人間ではない、絶対的な力のみが、われわれを絶対的幸福の中に置くだろう。

 第I部では、20年代に書かれた三つの作品をとりあげ、その中で現象にすぎないものとほんとうのもの、レッテルにすぎないものと人間らしいものという対概念がどのように提示されているかを、検討した。「クモの巣」、「果てしなき逃走」の主人公は、「実体なき」機能の連鎖としての社会に対し、その「下」の実体、体験し、他者に出会い、幸不幸を感じ、意味を求めるものの存在を見出すことができない。「野いちご」では、社会的表れの背後に保証のある世界、「故郷」が提示される。しかしこの「故郷」は、作中人物が思い描いたものではなく、そこにあるものだ。ないもの、失われた実体を設定し、想定し、信頼することは無理なのである。

 第II部では、神に対する反逆という「ヨブ」のモチーフが、彼岸にも此岸にも頼りうる実体を見出せない者たちの経験を語っているのを見た。「反逆」と「ヨブ」の主人公たちは、神に対する反逆により、形式のみになってしまった伝統と訣別し、連関として構成され、固着化し、習慣化した現実像から離れる。それにより、彼らの中で具体的状況に対する感受性がはたらき始める。このとき幸福は、道徳的規則により手に入れられるものではなく、偶然、Fortunaとしての性格をふたたびとりもどす。「残酷で恵み深い」神である神とは、人間が変更可能なものの境界線そのものとなる。統合するなら、何かが失われていってしまうようなものが、経験の中でのみ結び合わされて、ひとつの意味の感覚がもたらされる。

 第III部では、状況の中で生きる存在と状況の致命的影響を受けない存在の可能性を秤にかける、ふたつの作品を検討した。「タラバス」は言わば回心物語であるが、状況とかかわらない、主観的世界における幸福、いわば天の故郷をもってしまう者の物語である。「偽の分銅」は、不幸に逆らうはたらきとして呼び出される、意識=良心について語る。それは孤独なものであり、「故郷」に帰ることとは、両立しない。

 これらの作品は、状況にかかわらない幸福の道と、状況の中で生きること、つまり懐疑の道が、交わらないことを語っている。現代においては、幸福の道は、個別的な、奇妙な者、奇矯的存在の道としてのみある。懐疑の道はわれわれに、人間としてのあらゆる経験を与え、われわれを外から来る何ものにも頼らぬ意識の端緒に立たせる。しかしそれは、困難で不安定な道なのだ。ロート最後の作品、「聖なる酔っぱらいの伝説」は、もともと実体を内にもつ者ではなく、「われわれ」のうちのひとりが、幸運な状況に支えられて故郷を見出す、まさに「伝説」として書かれるのである。

審査要旨

 本論文は、ユダヤ人として、旧オーストリア=ハンガリー帝国領ガリツィア(現ウクライナ共和国領)のブロディに生を享け、ヨーロッパ各地を転々としたのち、パリで死んだ特異なドイツ語作家ヨーゼフ・ロート(Joseph Roth,1894-1939)の数編の小説をとりあげて、その作品世界における「懐疑と幸福」の諸相を追求したものである。

 1920年代にはいわゆる「失われた世代」の流れに棹さして、社会批判的傾向の強い作品を書いていたロートは、ナチスが権力を掌握する1930年代に移行するとともに、一転して宗教的、保守的な傾向をあらわにしはじめたと、一般には理解されている。それにたいして、論者は、なるほど年代による変化は認められるにしても、基本的には同一のテーマの展開、変奏として、いわば広義の教養小説として、ロートの作品系列を読み解こうとする。超越的、普遍的な神による意味づけが失われてしまった近代の世界にあっては、個人の身にふりかかる出来事、その眼に映る現象は、何の関連ももたない偶然の様相を呈する。それにもかかわらず、あるいはそれゆえにこそ、社会から与えられた役割を忠実に果たすことによって、あるいは伝統的な硬直した信仰に固執することによって、あるいはまた、自然的な欲望に身をまかせることによって、世界との未分化な状態を維持しようとする人物像を、ロートは、さまざまにえがきわけている。しかし、彼らは、多く挫折し、「懐疑」にとらわれる。その一方で、能動的に「懐疑」することによって、神・世界・自己を「分割」し、みずからが非同一的に生きる余地をつくりだそうとする「詐欺師的存在」に、論者は注目する。そこにこそ、「幸福」の可能性があるとしても、しかし、その「幸福」を保証すべき「故郷」は、もはや実体としては存在せず、その仮象は、希有の偶然としてのみ与えられる、そうした「伝説」としてしか語りようがない。ロートの作品がはらむこのアポリアを指摘して、論者は、一連の作品解釈の結論としている。

 本論文は、ロートの作品における同一のテーマの存在を証明しようとするあまり、論証の展開そのものまでも、まま冗長な反復に陥っているきらいがあるが、参考文献を博捜しつつ、他方で首尾一貫した論理を構成しえた力量は、十分に評価されるべきものである。以上に鑑みて、本審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位に相当するものと判断する。

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