コンコルダとは、教皇庁と世俗国家が締結する政教条約である。1801年のコンコルダは、第一統領ナポレオン・ボナパルトと教皇ピウス7世が、革命で混乱に陥ったフランスのカトリック教会を再編成するために締結したものである。 1801年のコンコルダを対象とする歴史研究は、1960年代前半まで、権力者のイニシアティヴに重きを置く観点にもとづいて進められてきた。この方法論は1970年代にフランスで台頭したアナール史学に厳しく批判され、その結果として1801年のコンコルダも直接的な研究対象としては取り上げられなくなった。本論文は、この研究上の空白を埋めるべく、新しい手法によってコンコルダを分析しなおすことをめざすものである。 本論文が研究対象とするのは、1801年のコンコルダに関する未検討の領域である。このコンコルダについて、従来とはことなる視点から、諸宗教勢力が多様な動きを示していた当時のフランスの国内事情を視野に入れて分析する。その際に鍵となる概念が「礼拝の自由liberte des cultes」である。「礼拝の自由」は二つの要素から構成されている。第一に宗教的多元性の許容、第二に礼拝の形態に対する不干渉である。 コンコルダ交渉は1800年11月にパリで始まり、1801年7月16日に合意に至った。「礼拝の自由」の二つの要素は、以下のような形で合意された。 宗教的多元性の許容に関しては、教皇庁は教義で信教の自由を否定しており、消極的に黙認することで譲歩した。礼拝の形態に対する不干渉に関しては、統領政府がほぼ全面的に譲歩した。ただし、統領政府は、カトリック教会の活動にある程度の統制を加える手段として、聖職者の叙任に関する権利などを確保した。 結果的に、教皇権によってフランスのカトリック教会の再編成を進めつつも、同時に統領政府が信教の自由を保証して宗教紛争を回避することで合意が形成されたといえる。しかし、それはトップレベルにおける決定であり、フランス社会が受容するまでにはさまざまな困難が生じざるをえない。合意内容の修正は不可避であった。統領政府は独裁的な中央集権的支配として評価されることが多いが、フランス社会の実状に無関心だったわけではない。コンコルダの合意の修正を含めて、重要な政策決定に際してはさまざまな手段によって収集された情報が活用されている。 国立中央文書館所蔵の一次史料を中心に統領政府に集約された情報を分析した結果、当時のフランスの宗教事情はかなりの多様性を示していたことがわかった。革命によってカトリック教会は分裂していた。信教の自由を否定する急進派カトリックは宗教的少数派の排除を主張していた。対外戦争の勝利は国土の拡大をもたらしたが、併合された地域には独自の宗教的伝統があり、旧来のフランス領と同一視して一律の対応をとることは困難であった。これらの多様な宗教勢力は個別の利害をもち、それを実現することを統領政府に迫っていた。かくして統領政府は、信教の自由を保証した上で、宗教活動に強力な統制を加えなければ、間違いなく国内で宗教対立が生じると認識したのである。 しかし、統領政府がコンコルダによる合意の線を踏み越えるためには、教皇庁と決めた役割分担では再編成が進まないことが証明される必要があった。その試金石こそ、教皇庁が担当した1801年9月の司教総辞職であり、教皇の辞任勧告は多数の現職司教から拒否された。それを受けて、統領政府は宗教政策の軌道を修正し始める。 統領政府は方針転換の核として1801年10月に宗教参事官職を設置した。宗教参事官に任命されたポルタリスは、ただちに第一統領から託された国内で宗教的安定を実現するという課題に着手した。宗教参事官は国内の諸宗教勢力からの請願に対して、迅速かつ公正に対応したのである。その結果、宗教的安定は実現し、統領政府の宗教政策は世論の強固な支持を獲得したのである。 統領政府は世論の支持の下に礼拝の形態に対して厳しい制限を加えた。コンコルダは単独では施行されず、礼拝の形態を制限するカトリックの附属条項とプロテスタントの附属条項を加え、共和第10年芽月18日法として施行された。二つの附属条項は統領政府による厳しい宗教統制を定めると同時に、プロテスタントにカトリックと同等の権利を認め、信教の自由を具体的に保証した。合意を踏みにじられた教皇庁は統領政府を批判したが、フランスの世論から支持されている統領政府の宗教政策が動揺することはなかった。 19世紀においては、礼拝を保護すると同時に統制を加えるという条件の下で、宗教上の自由が俗権によって有効に保証された。この原則は、1801年のコンコルダによって初めて確立されたのである。 |