学位論文要旨



No 113143
著者(漢字) 桜井,信哉
著者(英字)
著者(カナ) サクライ,シンヤ
標題(和) 原初から見た近世貨幣の研究
標題(洋)
報告番号 113143
報告番号 甲13143
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第115号
研究科 経済学研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 石井,寛治
 東京大学 教授 武田,晴人
 東京大学 助教授 岡崎,哲二
 東京大学 助教授 小野塚,知二
 東京大学 助教授 谷本,雅之
内容要旨

 まず、近世貨幣史研究の課題と方法を模索する試みを第I部の第一章「近年の江戸期貨幣史研究方法の展開」で行なった。この章では、従来の研究を「銭匁研究」 「十六世紀後半の貨幣流通」「考古学的方法」「その他」の四種類に分けてまとめたが、これにより、近年の近世貨幣史研究が、近世固有の貨幣現象を分析しようと試みることで大きな成果を挙げてきたことを明らかにできた。つまり、「銭匁研究」は江戸時代独特の「銭匁」という貨幣単位の存在を明らかにし、「十六世紀後半の貨幣流通」に関する研究は近世初頭において米が貨幣として用いられていた実体を明らかにした。「考古学的方法」による研究では六道銭などの貨幣に関する民俗が明らかとなり、また、中国史の研究者からは貨幣を国家支払手段と見る見方が提出された。

 次に、第二章「十九世紀における銀貨出目獲得の計画性〜数量的研究の限界〜」では、第一章で見た研究方法とは正反対の数量的手法による研究論文、大倉健彦・新保博「幕末の貨幣政策〜開港と万延の貨幣政策〜」を取り上げ、このような研究方法が持つ問題点を明らかにした。すなわち、このような研究方法が、実証を十分に重視しなかったため、近世貨幣のヴィヴィッドな現象を捉えることが出来ず、近世貨幣政策が持つ計画性・規則性を見落としていたことを明らかにした。

 以上の研究状況を踏まえ、本稿の中核となる第II部以降では、「パンダの親指と経済人類学」「進化論と経済学」「西鶴の大晦日 貨幣の論理と終わらぬ時間」などの岩井克人氏の貨幣に関する考察を導きの糸として依拠した。岩井氏は、人類学的知見に基づき、貨幣が前近代においては、近代のように商業的に使用されていたのではなく、政治的・儀礼的・呪術的に使用されていた史実を指摘した。そして、現在のパンダの親指が元々は手首の一部で、現在とは全く異なる機能をしていたという進化論の知見を踏まえると貨幣は「パンダの親指」であるとした。第II部以降では、このような貨幣観を踏まえ、江戸時代固有の経済=貨幣現象を分析するため、現在の貨幣=パンダの親指が、江戸時代においてはパンダの手首であったこと、すなわち、現在とは全く異なる貨幣の使用がされていたことを証明することを課題とした。

 第三章「『御威光』と貨幣〜贈与による統治〜」で明らかにされたことは、貨幣が江戸時代において政治的・儀礼的・呪術的に使用され、江戸幕府は貨幣を政治的に贈与することを統治の重要な根拠としていたことであった。そして、このような貨幣の政治的な使用は特に将軍の代替わりの時に最も顕著に現れ、そのために、江戸幕府は貨幣の改鋳をしばしば行なった。さらに、江戸幕府が幕末に政治的危機に陥った原因は、この種の貨幣の政治的な使用に失敗したことであった。すなわち、長州藩は将軍が膨大な費用がかかる上洛をせずに高位を受けたことをきっかけとして尊王化していき、水戸藩は幕府の将軍代替わりの際の莫大な浪費を批判した。幕末開港後に幕府は威信を高めようと膨大な費用をかけて上洛を行なったが、西洋的自然観の流入などにより、贈与物が持つ政治的な力は次第に失われていった。

 近世貨幣の前近代固有のあり方を示す二番目の論文が第四章「江戸時代における貨幣単位と重量単位〜大黒作右衛門の『匁』の貨幣単位化意図〜」である。イギリスの貨幣単位「ポンド」がもともとは重量単位だったように日本の江戸時代の貨幣単位「両」も十七世紀までは単なる重量単位であった。しかし、近世の代表的な重量単位である「匁」は幕末まで貨幣単位化されることがなかったため、貨幣単位の観点から検討されたことがなかった。本章では、近世貨幣の特権商人であった大黒常是が十九世紀に銀座から仕事を取り戻すため重量単位「匁」を名目化し貨幣単位化しようとしたことを明らかにした。勘定所もこの計画を真剣に検討したが、結局、却下となり、この時点で、日本の近代資本主義を担う貨幣単位は「両」=「円」へと譲られた。

 さらに、江戸時代において、貨幣は管理通貨制下と異なり、地金の価値で通用していた側面が大変強かった。このことは、三井家が貨幣改鋳の際にとった対処を示す古文書の分析により明らかとなった。これが第五章「地金としての近世貨幣〜三井家の悪鋳への対応〜」である。これにより、三井家が貨幣の悪鋳に関する情報をいち早く集め、悪鋳となる貨幣を密かに売り出したり、商品の売値を変更したりするなど管理通貨制下では考えられない前近代固有の対処を行なっていたことを示した。また、市場の状況などから貨幣を売り出せないと判断したときには、その貨幣で商品を大量に買い込むなど、悪鋳への対処は徹底したものであった。また、文政の悪鋳が貨幣の交換手段機能を揺るがし商人の商売をやりにくくさせたことを明らかにして、先行研究の文政の改鋳に関する評価に修正をせまった。

 さらに、本稿では、従来、近世貨幣研究において、他分野に比べ、古文書による実証が大変遅れていたことを問題視して、第III部で、主に事件史を中心として広範な実証を行なった。対象として事件史を取り上げた理由は、近世固有の「時代の調子」を知るためには、単なる詳細な制度史のみならず、江戸時代の人間が様々な事件に巻き込まれ行動する様を描写することが欠かせないと考えたからである。このため、取り上げた事件も江戸時代に固有と考えられる事件を中心に取り上げた。

 すなわち、第六章「文化二年の贋包銀一件と大黒常是」でとりあげた贋包銀の事件は、江戸時代固有の貨幣信用システムである包金銀の制度を悪用したものである。江戸時代において貨幣は包まれて流通しており、特に大黒常是などの特権商が包んだ貨幣は信用度が大変高く、中身が開封されることなく通用していた。そのような慣習を逆手にとり、文化二年に、常是の出入り手代が、贋の銀貨を常是包で包み使用するという事件が起きた。この事件の研究により江戸時代固有の貨幣信用システムが内部から揺らぐ過程とそれが再興される過程が明らかとなった。

 第七章「御金蔵一件と大黒常是」で取り上げた御金蔵をめぐる事件は贋包銀の事件で常是が押し込めとなっている間に、銀座が常是の仕事を担当したことで明らかとなった事件であった。すなわち、御金蔵に納められている銀貨が正規の量に足りないことが発覚し、常是と銀座は、不足額を補うのに奔走した。また、文政年間には、この一件で常是に協力的だった銀座の手代が常是に多額の借金を要求しに来るなど、御金蔵が、江戸時代において経済上、最大の禁忌であったがゆえの混乱が跡を引いた。

 第八章の「銀座改正以後の大黒長左衛門」では、前近代の貨幣発行につきもののシーニョアレジに寄生する特権商人が避けることの出来なかった御家騒動を扱った。寛政十二年の銀座改正で貨幣に関する仕事をすべて大黒作右衛門に譲った大黒長左衛門は、すぐに復権工作を始め、作右衛門家も本家としてそれに協力していた。しかし、文政年間の末頃から、長左衛門は幕府内の知り合いから勧められたことをきっかけに、寛政十二年以前のように銀貨に関する仕事を作右衛門家との間で二分することを望むようになった。作右衛門はすぐに手代を結束させ長左衛門に翻意を促すが聞き入れられず、互いに幕府内の知り合いを利用して御家騒動を繰り広げた。結局、銀座の仲介により収められたこの事件は、貨幣の発行が世襲されていた特権商人により請け負われていた時代を象徴するものであり、登場人物の詳細な描写は当時の貨幣政策の生々しい現場を明らかにした。

審査要旨

 本論文は、貨幣の商業的使用が盛んとなった日本近世社会において、貨幣がなお保っていた原初的な側面に光を当て、前近代固有の貨幣現象を究明しようとしたものである。全体の構成は、従来の近世貨幣史研究の批判的検討を通じて著者の分析視角を明らかにした第I部「導入」と、近世貨幣の機能をその原初的側面に力点をおいて分析した第II部「原初から見た近世貨幣」、および、銀座とともに銀貨の発行を担当した大黒常是家の歴史的役割を事件史的に究明せんとした第III部「事件から見た大黒常是」からなり、最後に第IV部として簡単な「むすび」が述べられている。

 第I部「導入」では、著者は、まず最近の日本近世史研究が、第二次大戦後の日本経済の高度成長の萌芽を近世社会に求めるという問題関心に導かれる傾向が強くなったために、近世社会の固有の在り方を見失いがちであることを指摘し、近世における貨幣現象についても前近代固有の貨幣現象に注目する必要があることを主張する。そして、第1章「近年の江戸期貨幣史研究方法の展開」において、中世末期に渡来銭に代わって米が通貨として多く使用された事実に関する研究や、近世において銭貨が本来の文単位でなく銀貨の匁単位で流通する「銭匁」勘定が広く見られた事実や金銀貨幣が包金銀の形で流通することが多かった事実に関する研究などを取り上げ、中世・近世貨幣のそうした固有性に注目した研究が大きな成果を挙げ始めていると評価する。

 次いで、第2章「十九世紀における銀貨出目獲得の計画性-数量的研究の限界-」においては、近世貨幣の悪鋳率が恣意的に決定されたとする田谷博吉説を批判すると同時に、秤量銀貨と計数銀貨の悪鋳率を論じた大倉健彦・新保博説についても、金銀相場の変動や一両未満の少額金貨の存在を無視しているために事実誤認があり、また、幕府が江戸の物価安定のためには赤字を生む計数銀貨の秤量銀貨への改鋳も敢えて行った事実が評価されていないなど、幾つかの実証上の問題点があると批判する。

 第II部「原初から見た近世貨幣」では、まず第3章「『御威光』と貨幣-贈与による統治-」において、著者は、近世の人々が貨幣を儀礼用(例えば銀何枚)と商業用(例えば銀何匁)に分けて二元的に認識していたにもかかわらず、従来の研究が商業的使用の側面にのみ集中していたとの批判に基づき、江戸幕府の統治が貨幣の政治的・儀礼的・呪術的使用によって大きく支えられていた事実を検討している。例えば、将軍の代替わりにさいしては、華麗な葬儀が行われるとともに多額の金銀が諸大名に贈与され、新将軍の宣下に当たっては町人にまで銭が下賜されており、その費用の捻出のために貨幣の改鋳がしばしば行われたことを指摘し、幕末において幕府の威信が低下したのは、国内的には従来の儀礼と贈与による統治が失敗したことが影響しているのではないかと指摘する。

 次に第4章「江戸時代における貨幣単位と重量単位-大黒作右衛門の「匁」の貨幣単位化意図-」において、著者は、江戸時代の金貨の単位である「両」が17世紀には重量単位であったのが18世紀初頭の改鋳を通じて貨幣単位として名目化したのに対して、銀貨の単位である「匁」については貨幣単位化=名目化が見られず重量単位のまま幕末に至ったことを改めて問題とし、19世紀前半においては、実は銀貨についても名目化構想が幾つも存在したこと、それは何れも銀貨鋳造の主導権を銀座から奪回しようとする大黒作右衛門家による提案であったが、やや性急な内容であったため幕府勘定所によって却下されたことを明らかにしている。

 続く第5章「地金としての近世貨幣-三井家の悪鋳への対応-」では、著者は、近世の貨幣が全体として名目化傾向を辿るとはいえ、依然として金属貨幣としての性格を強く帯びていることに注目し、改鋳にさいして貨幣の使用者たる商人がどのような対応をしたかを三井家の事例に即して検討する。その結果、三井家が、悪鋳の情報を早目に掴んで、悪鋳される貨幣を密かに売却したり、商品価格を改定したりして対応していることを明らかにするとともに、悪鋳が貨幣の交換手段としての機能を低下させ商人たちの活動を困難にさせたことを指摘している。

 第III部「事件から見た大黒常是」において、著者は、従来の近世貨幣史研究が個別の貨幣政策の評価に関心を集中し過ぎていたために、貨幣政策と直接に結びつかない貨幣現象の究明が遅れたとし、一代限りの銀座年寄とともに銀貨発行を担った世襲制の大黒常是家の活動について事件史的な接近を試み、当時の銀貨の発行機構と流通の独自な在り方を解明しようとしている。

 第6章「文化二年の贋包銀一件と大黒常是」で、著者は、大黒常是家によって包まれた銀貨「常是包」が、金座の後藤家によって検査・封印された金貨「後藤包」とともに、一般の両替商による包金銀よりも遥かに高く信用され、中身が開封されることなく通用していたことを逆手にとって、大黒家の出入り手代が贋の銀貨を「常是包」として包んで使用したことが発覚し、逮捕・処刑がなされた経過を述べている。

 次の第7章「御金蔵一件と大黒常是」では、著者は、贋包銀の事件で常是が謹慎刑に処せられている間、常是の仕事を担当した銀座が、幕府の御金蔵に常是が納入した銀貨に不足のあることを発見し、常是とともに不足分の補填に奔走して事を内々に済ませたこと、後に銀座の手代がそのことを種に常是を脅迫し多額の借金を要求したことを明らかにしている。

 最後の第8章「銀座改正以後の大黒長左衛門」において、著者は、寛政12年(1800)に上納銀の滞納による銀座人粛正および大黒長左衛門家追放がなされた「銀座改正」のさいに、京都にあった本家の作右衛門家に銀貨関係の全仕事と手代のほとんどを譲った長左衛門家が、その後、執拗に復権工作を進め、当初は作右衛門家もそれに協力的であったが、次第に復権を妨害する姿勢に変わり、幕府の関係者を巻き込んでの御家騒動になったこと、事件は銀座からの経済的支援を条件に長左衛門家が身を引くことで天保4年(1833)に決着したが、長左衛門家が幕府によって永蟄居から赦免されたのは弘化3年(1846)であったことを子細に追跡している。

 以上が本論文の要旨である。近世貨幣史の研究は、新しい視角からの研究が少しずつ現れているとはいえ、研究者の数は少なく、近世史研究の中では遅れた分野であるといって差し支えない。本論文の著者は、そうした研究史の停滞を打破すべく、近世貨幣の固有の特徴を把握しようとする新たな研究動向に沿いながら、多面的な実証を試み、研究水準の上昇に寄与せんとしたといえよう。

 そのさい、著者が採用した方法は、田谷博吉『近世銀座の研究』(1963年刊)において利用されつつも、十分には利用されたとはいえない国会図書館所蔵の大黒常是『御用留便覧』(52冊)を丹念に解読し、さらに三井文庫所蔵の三井家史料の中から従来の研究では利用されなかった改鋳時の各店舗間の書状類を分析するというものであった。もともと著者は近世古文書を全く読んだ経験がなかったのであるが、大学院の資料研究の授業に熱心に参加して読解力を身につけ、苦労してそれらの古文書に取り組んだ熱意は多とすべきであろう。

 そうした視角と方法によって、本論文は、これまでの近世貨幣史研究が看過ないし軽視してきた諸論点について様々な新事実を掘り起こすことに成功した。とくに、金貨だけでなく銀貨においても重量単位からの名目化=貨幣単位化が進む可能性があったこと、そうした名目化傾向にもかかわらず、貨幣改鋳にさいして商人たちは貨幣や商品の売買による機敏な対応を迫られたこと、銀貨の発行と流通に関して銀座とともに大黒常是家が決定的な役割を果たしており、「常是包」の信用失墜は近世貨幣流通の根幹を揺るがす大事件であったこと、などについて明らかにしたことは高く評価されよう。

 しかしながら、本論文には、幾多の問題点があることも指摘しなければならない。まず、数量経済史の方法に対する著者の批判は、部分的な欠陥についての指摘が多く、そのことから方法そのものの欠陥を指摘するのは論理の飛躍があるように思われる。著者の分析自体が数量分析と文書分析の相互補完的性格を示しているというべきであろう。また、近世貨幣の儀礼的使用を明らかにするという点では、そのことと近世貨幣の商業的使用とが如何なる関連にあるのかという核心的論点の掘り下げが不十分である。仮に著者の言うように江戸幕府が武力やイデオロギーによる支配よりも儀礼による支配を重んじた国家だったとしても、儀礼に使用される貨幣を直ちに貨幣の儀礼的使用と評価すべきでなく、貨幣の商業的使用こそが幕府儀礼にとって次第に重要になっていくことをどう評価するかが検討されなければならない。さらに、論文全体の構成がまとまりを欠いており、とくに第III部は、史料紹介的な叙述に止まっていて、著者の主張がどこにあるのか簡単には読み取れない難点がある。

 このように、本論文はさまざまな問題があるが、それは現在の近世貨幣の研究史の状況に制約されて生じた面もあり、また、著者自身がそれらの欠陥を自覚していることを考えると、本論文は、著者が独立の研究者としての出発点を形作ったことを証明するものと見てよく、審査委員会は、本論文の著者が博士(経済学)の学位を授与されるにふさわしいとの結論を得た。

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