学位論文要旨



No 113144
著者(漢字) 何,治濱
著者(英字)
著者(カナ) ヘ,ジビン
標題(和) 中国東北と日本の経済関係史 : 1910・20年代のハルビンを中心に
標題(洋)
報告番号 113144
報告番号 甲13144
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第116号
研究科 経済学研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 石井,寛治
 東京大学 教授 原,朗
 東京大学 教授 西田,美昭
 東京大学 教授 加納,啓良
 東京大学 助教授 谷本,雅之
内容要旨

 満州事変以前の1910、20年代の時期にハルビンを中心とする北満州の経済的地位はすでにかなり高く、しかも日本との関わりもかなり深かった。にもかかわらず、日本において経済史研究の対象としてあまり取り上げられてこなかった。例えば、味岡徹氏の「ロシア革命後の東三省北部における『幣権回収』」、吉村道男氏の「日露戦争後における北満州・沿岸州視察報告の特質」、李明氏の「日露戦争後における満州の南北分割について」などがあるが、しかしこうした満州事変以前の北満州を対象として正面から取り組んだ研究はわずかであった。その以外に実際は日本における中国東北に関する研究は相当蓄積があるが、しかしその成果があるとともに、問題点も幾つか残されていると思われる。それは概していえば、先ず第一、これまでの研究はやや東北の南部に偏っており、北部に関する研究は相対的に不足していることである。実は、満州事変以前の東北北部と日本の経済関係を限って見ても両者は相当深く関わっていた。例えば、1920年代には数千人の日本人がハルビンに常住し、貿易、金融、工業等様々な経済活動を行なっていた。一方、ハルビンの中国商人はハルビンに来た日本人とただ受け身的に取引をするのみならず、自ら日本に出向いて見学したり、商売したりしていた。ましてや国際色が濃いハルビンは日本の勢力圏外にあるので、そこに進出した日本人と中国人との関係は、南満州のそれと比べれば、一層複雑であった。というのは、そこには中国人、日本人の他にロシア人をはじめとする欧米人が大勢おり、皆激しい競争に加わったからである。そのような独自の特徴を持つ東北北部と日本の経済関係の実態及びその背景を立ち入って研究することは十分に価値があることだと言えよう。

 第二には、日本経済史分野における従来の東北経済史に関する研究は殆ど植民地史として中国東北を対象に扱っているために、日本サイドの中国に対する侵略の原因やその特質は周到に究明されたが、しかし東北地域自身の経済発展のメカニズムに関してはあまり言及されていない。一地域としての中国東北経済は歴史的要因に規定され、関内や南方と比べると共通性があるとともに特殊性も著しく持っている。例えばその特殊性について言えば、人口の密度が非常に低いこと、耕地として利用できる土地が広大にあること、労働人口の構成は移住者が多く、しかも流動性が高いこと、早くからもロシアと日本の政治、経済の勢力による影響を強く受けているために、経済の対外依存度が比較的高いこと、在来産業は弱いこと、南と北両地域の経済的独立性が相対的に高いことなどが挙げられる。すなわち、特殊性を持っている東北はそれなりの内在的経済発展メカニズムがあるはずである。従って、日本と中国東北の経済関係を究明しようとすれば、東北経済の実状に合わせて、その内在的発展のメカニズムを重視する視角も欠かせないことであろう。

 第三には、従来の研究はロシア革命以降、ハルビンをはじめとする北満州は満州事変まで事実上主権回収が成功したことを看過してきたきらいがある。ロシア革命後ハルビンにおけるロシア勢力が俄に崩壊し、それまで彼らに握られていた主権は中国人の手に戻った。そのために、ある意味で言えばハルビン市及び中東鉄道地域は植民地的支配から解放されたと言っても過言ではなかろう。しかもこのことによって政治の分野だけでなく、経済の面でも大きな変化がもたらされたのである。つまり満州事変までの間においては主権を回収できた東北地方政権及び中国の経済関係者らは、抑圧された時期になかった勢いで経済活動を展開し、大きな成果を成し遂げていった。ハルビンにおける民族資本の割合が東北全域において例外的に優位を占めていたことはその有力の証拠といえよう。満州事変以前の東北経済を論ずるにはこの本質的な変化を重要視しなければならないと思う。

 したがって、本研究の課題は1910、20年代の中国東北北部、所謂北満州における中心都市であるハルビン及びその周辺地域と日本との経済関係の実態及びそのような経済関係が結ばれた歴史的な原因を明らかにすることである。

 本論文の構成及び概要は以下のとおりである。

 第1章は、「ハルビン市場をめぐる中国と日本の商人の競合関係」である。この章において先ず鉄道の開通によるハルビン市場圏の形成過程を概観する。その中で、主に流通機構に重点をおいて分析を行なった。それから、ハルビン市場に進出した中国と日本の商人がそれぞれ占めている地位、その企業形態、取引慣習などについて分析した。最後に国際市場との関連に注目しながら中国と日本の商人の間にあった競合関係を成立させたメカニズムを明らかにした。

 第2章は、「金融業における中国人と日本人の抗争関係」である。国際都市ハルビンの凄まじい成長を可能とさせたのは、ハルビンにおける金融業の発達であった。満州事変以前のハルビンには、中国はもちろんのこと、日本、米国、英国、ロシア、フランスなどの諸国の銀行、金融機構が多数存在していた。その間の競争が激しく演じられたことはいうまでもないが、しかし何よりも重要なのは、そうした多くの金融機関が存在していたために商品がスムーズに流れていたことである。本章においては、通貨の複雑な在り方、金融市場の構造、通貨の発行をめぐる中日間の攻防などについて明らかにした。

 第3章は、「工業および電力業における中日間の競合関係」である。ハルビン市が誕生してまもなく近代的加工工業が定着でき、そして急速に成長できた理由の一つはエネルギー源としての電力事業の発達に求められる。ハルビンの場合、ロシア人による電力会社についで早くも中国人の経営する電力会社が生まれた。そしてロシア革命後、ロシア人の撤退に乗じて日本人関係者はロシア人の電力会社を買収し、たちまち猛スピードで事業拡大に努めた。その際、ちょうど中国全土にわたっての利権回収運動が展開し、中日間の事業独占権をめぐる攻防がかなり激しいものとなった。この章において、その競争の実態に迫り、そして其の現象面の背後にあった因果関係を究明した。

 終章は、「総括と展望」である。満州事変以前のハルビン市を中心とする北満州地域を対象として、様々な側面から中日間の経済関係の歴史を総括した上で、満州事変以降の中日間の経済関係の様相を展望した。

 以上の分析を改めて要約すれば、満州事変以前の1910年代、20年代の中国東北の北部、いわゆる北満の中心都市ハルビン地域での商業、金融業、工業及び電力業等の諸分野において中日両国の経済勢力が互いに競合した結果漸次中国側の方が優勢になり、日本側は反対に衰退の方向をたどったことが確認されたといえよう。しかも、そうした経済関係は基本的には市場メカニズムによる競合関係であったことも確認できた。すなわち、1910年代、20年代のハルビンにおける中日間の経済関係を論ずる場合、しばしば、中国政府による中国人商工業者への人為的、権力的支援の強さが指摘され、それが中国側の経済的優勢の根拠とされてきたが、そうした支援は統治主体としての当然の主権の発動と見做されるべきものが中心であり、競合関係のあり方を規定した基本的要因はあくまでも市場における競合だったと見なければならない。具体的に言えば、日本側商工業者の後退せざるをえなかった原因として本論文は下記の5点を指摘した。

1)市場の変化に対応する能力の差

 対ロシア市場が消滅した際に、中国側商工業者は販売先を国内にシフトすることに成功したが、日本側の商工業者はあまりできなかった。

2)経営上の経費の差

 当時のハルビンにおける商工業の従業員の賃金は、日本人は中国人の2倍だったので、とくに不況となると、業績におのずと差が出てくることになる。

3)消費者との距離の差

 日本人の経済関係者は中国人消費者に対してあまり親近感を持っていないばかりか反対に中国人に対して軽蔑の意識がかなり強かったようである。

4)権力の支持の度合いの差

 利権回収に成功した中国政府側の支持の下で、中国人商工業者は鼓舞され、民族工業及び電力業の分野において長足の進歩を成し遂げた。日本側の商工業者は不利の立場に立たされ、折角手に入れた製粉、製油工場を、大連中心主義という日本の政策に矛盾したために、中国人からの攻勢の前で支持を得られずに手放さざるをえなかったし、国策会社の朝鮮銀行、正金銀行、東洋拓殖等金融機関は、信用の低い日本人中小商工業者よりも信用のある中国人の方に積極的に融資していた。

5)経営組織と、相互の協力関係の差

 中国各地に根を下ろした聯号組織と比べれば、日本の企業の大多数は個々バラバラに宙に浮いていたような状態であり、相互の協力関係が緊密ではなかったのである。

 要するに、中国の主権がしだいに強化され、市場メカニズムがよく機能していた1910年代、20年代の国際都市ハルビンの市場において中日両国の商工業者は互いに宿命的な競合を繰り返したが、上述した諸々の要因によって漸次中国側の方が優勢になったのである。

審査要旨

 本論文は、1910・20年代のハルビンを中心とする中国東北北部、いわゆる北満州における日本人商工業者と中国人商工業者の関係の変化とその根拠を究明することによって、1931年の満州事変が中国の民族資本の発展にとって与えた決定的な打撃の意義を明らかにすることを課題としている。全体は序章と終章を別として、3つの章からなり、ハルビン市場における商業、金融業、工業・電力業をめぐる日中間の競合・抗争関係が順次検討されている。

 序章「課題と研究方法」において、著者は、ハルビンを中心とする東北北部地域は、1917年のロシア革命から満州事変までは事実上主権が中国に回収され、民族資本を基軸とする内在的発展が目覚ましかった点で、東北南部地域と異なっていたにもかかわらず、東北地域に関する従来の日本と中国での研究は、南部についての検討に偏ったままで東北地域全体を論じ、北部の独自性を看過してきたことを指摘し、本論文ではそうした研究史上の欠陥を是正したいと述べている。

 第1章「ハルビン市場をめぐる中国と日本の商人の競合関係」で、著者は、先ず1905年のポーツマス条約において日本側がハルビン以南の東清鉄道支線の獲得に失敗して長春以南の路線しか獲得できなかったため、ロシアはウラジオストックからハルビンを経て欧州に至る最短コースを依然として掌握したこと、特産物である大豆の対欧州・日本輸出の発展が起動力となって国際都市ハルビンには各国商人が集まったが、第一次大戦開始まではロシア商人が圧倒的な優位を保っていたこと、大戦が始まると日本商人が一時優位を占めたとはいえ、大戦終了後は再び各国商人が激しく競争するようになったことを指摘する。次いでハルビンにおける中国商人の多くが河北省・山東省などの関内出身者からなり、同業組合と商会(商業会議所)に結集して勢力を伸ばしていったのに対して、日本商人の大半は西日本出身で1910年代に急増するが20年代には後退気味となることを概括的に明らかにした上で、特産物取引については1910年代に大きな地位を占めていた有力日本商人が20年代には満鉄の混合保管制度の北満延長の結果大連市場での取引に後退してしまい、ハルビンでは中国商人が海外輸出を日本人その他の外国人の貿易商社に依存しつつ優位を占めるようになり、日本からの輸入品取引においても大阪に駐在員を派遣する中国商人によるルートが1920年代には優位を占めるようになると指摘する。

 著者は、さらに、こうした特産物取引と輸移入品取引の双方における中国商人の発展を支えた根底には、「聯号」といわれる中国独自の経営組織があったとし、その特徴を検討する。すなわち、中国とりわけ東北においては伝統的な地縁・血縁に基づく共同経営組織としての合股制度が、外国勢力の侵入に対応して多角的な共同出資組織である聯号組織へと発展する場合がしばしば見られるが、聯号は各店舗の相対的独自性と経営者の権限が保証されることが強みとなって発展したこと、しかし聯号は危険分散のために大規模店舗の設立を抑制する傾向があるため、特産物の対欧州輸出業務にまでは進出できないという限界をもっていたことを指摘する。

 第2章「金融業における中国人と日本人の抗争関係」において、著者は、先ずハルビン市場における中日両国の金融システムが、いずれも政府系大銀行・民間中規模金融機関・質屋という三層構造をなしていたことを指摘した上で、中国政府系大銀行が日系企業に全く貸出をせず、いわば資本の論理よりも政治の論理を優先していたのに対し、日本側の金融機関は信用のある中国人には盛んに融資するという資本の論理に沿った活動を展開していたことを明らかにする。次いで、著者は、通貨の支配権をめぐる中日間の抗争を問題とし、1917年のロシア革命を機にそれまでハルビンで支配的地位を占めていたルーブル紙幣が姿を消し、代わって朝鮮銀行券としての金票が一時普及したが、間もなく中国政府と中国商人らの合意に基づいて東三省官銀号その他の中国系諸銀行から発行された哈大洋票が流通し始め、20年代後半には相場の下落に悩まされつつも圧倒的な地位を占めたことを明らかにする。

 第3章「工業及び電力業における中日間の競合関係」では、著者は、ハルビンの三大工業といわれる製油業・製粉業・醸造業をはじめとする諸工業において当初ロシア人や日本人によって設立された工場の多くが1920年代には中国人の手にわたっていると指摘するとともに、電力業においても日本人の北満電気株式会社の活動に対して、中国人によるハルビン電業公司が市内の電車電灯用電力の独占供給権を得て激しく対抗し、20年代末には北満電気を追い詰めていったことを明らかにしている。著者によれば、日本企業の中には、一方ではボロジン高田醸造株式会社や加藤醤油醸造公司のように、過度な競争を避ける「共存指向型」の企業もあったが、他方では北満電気株式会社のように満鉄からの援助に支えられつつ技術的優位にものを言わせて市場独占を目指す「対立指向型」の企業もあったという。

 以上の分析を踏まえた終章「総括と展望」で、著者は、1920年代のハルビンにおいて中国人商工業者が日本人商工業者を圧倒していったのは、前者が消費者との密接な関係を含む広範囲な人的ネットワークを有効に利用しえたのに対し、後者は相互の協力関係が薄かっただけでなく、国策会社の満鉄や特殊銀行によるバックアップも乏しかったためであり、それは中国の主権が回復されていた北満の政治状況を前提とする市場競争の結果に外ならないとする。そして、1931年の満州事変と32年の「満州国」設立を画期とする経済秩序の再編が、中国人資本家の関内への撤退をもたらすとともに、ハルビンの民族資本家の発展の機会を奪い去ったという展望を述べて結びとしている。

 以上が本論文の要旨である。日本における中国東北地域に関する研究はかなりの蓄積があり、中国においても研究が進みつつあるが、ハルビンを中心とする東北北部に焦点を合わせた研究は乏しい。本論文の特徴は、そうした研究上の空白部分について、日本による植民地化という角度からでなく、中国の内在的経済発展の視点から立ち入った分析を試みたところにある。

 著者は、東京大学その他の所蔵する満鉄調査資料など日本側資料を博捜するとともに、ハルビン档案館の資料集など中国側の資料も利用することによって、ハルビンにおける日本と中国の経済関係について多面的に究明した。1920年代のハルビンにおいては日本人の勢力が次第に中国人との競争に敗れて後退しつつあったこと、中国人商工業者の強さの秘密が「聯号」といわれる多角的な共同出資組織の活動にあったこと、また日本人商工業者は大豆運賃の確保を優先する満鉄の混保制度や利益本位の特殊銀行の融資態度のために伸び悩んでいたことなどを明らかにした点は、高く評価されよう。

 しかし、本論文に対して幾つかの疑問や注文があることも事実である。まず、本論文は全体として総花的な叙述が多く、掘り下げが不十分なところがある。例えば中国人が同業組合に結集していたことが彼らの強みだという指摘はあっても、同業組合が具体的にどのような役割を果たしていたかの分析がないし、とくに工業についての検討は部門毎の史実の羅列に止まっている感がある。また、ハルビンに検討対象を絞ったこと自体は本論文の分析をユニークなものとしているが、その反面で後背地の大豆生産農家や輸出港の貿易商社との関係が曖昧になり、東北北部の経済が、東北南部の経済といかなる関連を持ち、中国全体の統一的国民経済の発展の中にどのように位置づけられていたかが不明確になっている。さらに、著者は結論部分において、1920年代の中国人商工業者の優位を決定したものが、あくまでも市場における競合であり、中国政府による権力的支援は統治主体としての当然の主権の発動にすぎないとしているが、中国政府系大銀行が民間業者に伍して盛んな金融・商業活動を行っていたことなどは、通常の市場競争の原則を破る権力的な行動ではなかったかという疑問を禁じえない。

 もっとも、このような問題点の多くは、研究史の薄さによって生じている面もあり、著者自身が今後の課題として十分自覚していることを考えると、本論文の価値そのものを否定するものでは決してない。審査委員会は、全員一致で、本論文の著者が博士(経済学)の学位を授与されるにふさわしいとの結論を得た。

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