20世紀の、1920年代の昭和期に入る以前の時期の日本では、日本の世界戦略をもとめる議論のなかに、大アジア主義がみられた。大アジア主義は、昭和期に入って大東亜共栄圏の建設の夢へと政治的に結実していくが、この時期ではまだ政治議論の一つであった。そして大アジア主義を説く人々のなかには、イスラーム圏まで視野に含める人物が何人かいた。彼らは、来日したパン・イスラーム主義者たちとの接触のなかからイスラーム圏の知識を得ていたのである。一方同時期に、西欧の圧力に、軍事的、政治的、そして文化的に圧倒されていたイスラーム圏では、パン・イスラーム主義が芽生えていた。そのとき、西欧の一部とみなされていたロシアに対して日本が日露戦争で勝利した。何人かのパン・イスラーム主義者は、その日本に期待して来日した。彼らが、イスラーム世界に関心をもった大アジア主義者のインフォーマントであった。アジア主義者、あるいは大アジア主義者のなかから、内田良平、大川周明、波多野烏峰の3人を、来日したパン・イスラーム主義者のなかからイブラヒム・アブデュルレシト、ムハンマド・バラカトッラー、アフマド・ファドリーの3人を取り上げて、イスラーム世界と日本の関係を論じたのが本論文である。 アジア主義を取り上げた研究は少なくなく、またパン・イスラーム主義に関する研究もイスラーム世界や欧米諸国、そして日本ででも少なくはない。しかしこの両者を同時並行的に取り上げ、その関係を論じた研究は、本論文が始めてであり、その独創的価値は高い。 本論文は、序論、第1章、第2章、結論、そして参考資科として注、参考文献、資料集よりなり、本文159ページ、参考資料123ペーじである。 序論は、イスラームとムスリム世界に対する明治期日本の関心と研究にかかわる論述からはじめている。ここで、この時期の日本の、当該地域に関する関心は、エジプトの混合裁判所などの調査を通じて条約改正の参考事例を集めることにあったが、日本が朝鮮を支配するようになると、植民地支配のモデルとしての植民地エジプトやチュニジアにあった、という重要な指摘がなされている。さらに、日本の世界戦略のための情報収集として、外務省や陸海軍、さらに東亜同文書院と黒流会などによる中央アジアやイランなどの調査が具体的に紹介されている。 序論の2番目の部分は、明治日本に対するムスリムの関心が取り上げられている。そこではエルトゥグール事件、大日本国憲法と日露戦争に対するムスリムの反応を紹介されているが、日本の憲法へのムスリムの反応は、世界ではじめての言及である。つづいて3番目の部分で、1906年に東京で開催されたとされる宗教会議に関する独自の研究が展開されている。実際に開催されたか否かは不明のこの会議の結果、天皇は日本にふさわしい宗教としてイスラームを採択したという風聞がイスラーム世界に広まった事実が詳細に紹介され、日本研究の分野で言及されたことのないこの歴史的事実に読者は驚かされる。そして、イスラーム世界が夢み、創造した日本のイメージの研究も、歴史的事実の研究と同様に重要であるとの主張は納得できる。最後の部分は、本論文の内容の先行研究の紹介である。 第1章は、「はじめに」と3節よりなっている。 「はじめに」は、「明治日本のイデオロギーの一潮流としてのアジア主義」と題され、アジア主義と大アジア主義についての論述である。ここでは、竹内好などのアジア主義に関する議論が批判の対象となり、次のような結論が導かれている。アジア主義も大アジア主義も日本をアジアの盟主と考える点では同一であるが、アジア主義は他のアジア諸国が独立した国家として独自の文化を維持しつつ団結することを主張しているのに対して、大アジア主義は他のアジア諸国に日本の宗教を押しつけて、あくまで日本の利益となるように機能することを求めるという、大きな差がある。そして二つの主義は、一つから他へと時間とともに変化するのではなく、思想として行きつ戻りつするものであった。このアジア主義と大アジア主義の差に関する議論は、より幅広い視野でなされる必要があるのではないか、との疑問が残った。 「内田良平-大アジア主義者として-」と題する第1節は、内田の生涯と思想を扱っている。黒龍会の創始者の一人であった内田は、ロシアを日本の敵と断定し、朝鮮を日本の保護下におき、かつ併合することを主張し、そのために奔走した人物であった。彼の思想のなかにあるアジア秩序は「世界でもっとも優秀な国家である」日本を中心とし、天皇に神性を与える神道に基礎をおくものであった。彼は、黒龍会の指導者の一人として、来日したムスリムと会見したり、アフガニスタン叛徒鎮定を祝賀して皇帝に祝電を打つなどをおこなったが、彼のいうアジア秩序のなかには、イスラーム世界もムスリムも含まれてはいない、という結論が導かれている。内田良平の思想に関する研究は従来手薄であり、本論文はそれを埋めている。 第2節は、「大川周明の思想における「西/東」の二分法とイスラーム」と題し、彼の生涯と思想を論じている。宗教に学問的に興味をもっていた大川は、早くからイスラームに注目し、その紹介に努めていた。アジア主義者としての彼にとって、「東洋」という同質な社会の最重要構成国は日本、中国、インドの3国で、その周辺にイスラーム諸国が位置していた。彼の東と西の二分法的思想のなかでイスラーム諸国は、中国とインドのムスリムは別にして、東(東洋)と同質ではなかったが、西(西洋)との対抗するためには、イスラーム諸国やムスリムの協力を必要としたのである。以上の議論を介して、この節は大川の思想と行動を整理している。大川周明に関しては先行研究が充分にあるが、彼のイスラーム研究自体ではなく、イスラーム世界を視野に収めた政治思想の紹介として、本論文のこの部分は十分に価値がある。 第3節は、「波多野烏峰-「イスラーム」と「アジア」の両立を目指して-」と題し、ムスリムに改宗した謎の人物波多野烏峰の生涯を追求し、彼の思想の位置づけをおこなっている。波多野烏峰は筆名であって本名ではない。彼は誰であったか、をめぐって、同時期に活躍した波多野姓の3人の人物を取り上げて同定を試みるが、その結論は保留している。ムスリムであった波多野烏峰は、来日したムスリムと親交を結び、日本にイスラームを普及する努力をおこなったが、彼にとってのイスラームは天皇を崇拝し、天皇の祖先神をアッラーと同一視する「日本的イスラーム」でしかなかった。そしてアジア主義者としての波多野鳥峰は、イスラーム世界を含めたアジアが西と対抗する図式を描いていた、と結論づけている。波多野烏峰に関しては、本論文がはじめての本格的研究である。本人の著作、波多野烏峰の候補者の家族とのインタビュー、彼の活動を注目していた各国諜報機関の秘密報告など、資料を駆使して描いた波多野烏峰像は、高い学術的価値をもつ。 第2章は、「はじめに」と4節よりなる。 「はじめに」は、「国境なきイデオロギーとしてのパン・イスラーム主義」と題されている。そこで、パン・イスラーム主義者として中東諸国で活躍したアフガーニーの思想と行動を分析し、典型的なパン・イスラーム主義者と一般にみなされている彼を、出自、教育、運命によって規定された特殊な例と断定している。つづけて、エジプトで刊行されたマナール誌の分析を通して、同誌の主宰者であるラシード・リダーのパン・イスラーム主義は、彼の世界観というよりは目的であった、と結論づけている。アフガーニーとリダーに関しては先行研究が充分にあるが、それらを参照しながら新しい視点を提供していて、パン・イスラーム主義を説く導入部として成功した叙述となっている。 第1節は、「イブラヒーム・アブデュルレシト-「居住の地」を求めて-」と題し、彼の生涯と思想を追求する。ロシア帝国に吸収されようとしていたタタール人ムスリム社会の政治的リーダーであった彼は、タタール人国家の独立への援助を求めて来日した。十分に政治的であった彼は、彼を利用しようとする日本の政治家や政治団体に迎えられ、日本でのイスラーム布教の試みすら許された、その彼にとって最も重要なアイデンティティーは、タタール人を包摂する概念であるトルコ人であり、ときとしてパン・イスラーム主義者となったのである。祖国を逐われた彼にとって、居住した日本もまた祖国の一つなのであり、その地のアジア主義になにがしかの共感を示したものの、パン・イスラーム主義の宣伝をやめることもなかった、と結んでいる。イブラヒームに関する研究は、現在トルコで一種のブームになっている。また、彼の旅行記の日本に関する部分は、日本語訳も出版されている。それらに加えて、本論文は、彼の行動に対する日本側の反応を描き出したという、特色をもつ。 「ムハンマド・バラカトッラー-「インド独立」を求めて-」と題する第2節は、日本やアメリカなどで独立運動を展開したムスリム革命家の生涯と思想を描いている。彼の来日の目的は、日英関係を分断すること、インド人革命志士を支援するために武器の購入先を探すこと、そして日本を含むアジアのムスリムにパン・イスラーム主義の言説を広め、東京にそのためのネットワークの拠点を形成することであった、と本論文は説く。彼は結局、イギリス政府の圧力によって日本から退去させられ、目的を果たすことはできなかったが、政治目的のための手段としての彼のパン・イスラム主義は、そのための雑誌の発行などを通して日本にそれなりの影響を与えた、としている。バラカトッラーに関して先行研究はあるが、日本での活動に加えて、世界にまたがる彼の行動を全体的に描いた点で、本論文のこの部分は高い価値をもつ。 第3節は、「アフマド・ファドリー-「安住の地」を求めて-」と題する。エジプトの軍人であった彼は、退役後、日本人の妻を得て、また日本語を学んだ上で、妻とともに来日した。彼にとって日本は、おそらくは夢の国であり、近代化のモデルであり、研究の対象であった。来日後の彼は、バラカトッラーなどとともにパン・イスラーム主義のための雑誌の共同編集人になったりはしたが、イスラーム布教の熱意はなく、また日本のアジア主義者の主張には同調できなかった、と結論づけられている。彼は、エジプトへの帰国後、自殺してしまうが、エジプト人でもあり、トルコ人でもあると自覚していた彼にとって、日本は最終的に何であったのかは疑問のまま残してある。ファドリーは、最近一部の研究者によって注目されているが、彼に関する資料を網羅的に調査した上での叙述は、出色である。 第4節は、「アジア義会-パン・イスラーム主義とアジア主義の接点-」と題し、研究対象となることはなかったアジア義会の、設立、会員の構成、その主張と活動が紹介されている。アジア義会は、まさに、日本のアジア主義が、その一部で、イスラーム世界までも視野に入れていたことを証明するものである、と本論文は主張する。アジア義会が出版した『大東』という雑誌をもとにした本論文のこの部分は、日本の学界にとってもまったく新しい知見を提供している。 結論は、アジア主義にしてもパン・イスラーム主義にしても、決して一つのものではなく、それを説く人の立場に応じて多様なものであったことを説いている。個人のアイデンティティーも一つではないように、「主義」もまた一つのものではないのである。そして個別の「主義」の背景には、事実だけではなく、想像もまたは働いている、との結論を導いている。結論の部分はいささか明快さにかけていて、もう少し読者に訴えるものがほしかった、というのが実直な感想である。 本論文は、未公刊の資料を多数利用し、斬新な視点で日本とイスラーム世界の関係を論じたものである。本論文が取り上げた6人は、それぞれ先行研究がある人物ではあるが、本論文はそのひとりひとりについて先行研究を超える研究を含み、さらに6人をまとめて取り上げることによってアジア主義とパン・イスラーム主義の未知の側面を鮮やかに描き出すことに成功している。 このように、本論文は、地域研究という発展途上の学問分野に、新しい手法と問題意識を導入した論文で、極めて高く評価できる。ただし、いくつかの問題もある。アジア主義者として取り上げた3人は、アジア主義者の一部であって全体ではない。また、パン・イスラーム主義者として取り上げた3人は、たまたま来日したという条件を共有しているだけで、パン・イスラーム主義者の代表なのではない。日本のアジア主義者のなかでの3人の位置、パン・イスラーム主義者のなかでの3人の位置に関して、より詳細な分析が必要であった。また、外国人として日本語で博士論文をまとめた努力は高く評価できるが、日本語の表記に多くの誤りがあったことは残念であった。そして、資料に基づく事実の追求には迫力があるが、それに基づく議論には、明快さを欠く部分もあった。 しかし、以上のような若干の不足は、本論文の価値を大幅に損なうものではない。審査委員会は、論文審査の結果として、本論文を博士(学術)の学位を授与するに充分な業績であると、全員一致で、判定する。 |