審査要旨 | | 本論文は,近代における「日本人」という,ナショナル・アイデンティティを表示する概念について,その「境界的」な諸事例をめぐる言説の綿密な探索と分析をとおして,その歴史的な形成・動揺・再構成等の過程を考証したものである。具体的には,琉球,北海道,朝鮮半島,台湾の4つの地域に関して,それぞれ日本国の支配権力がおよんだ時期における,これら地域の住民を「日本人」として同化すべきか否かをめぐる政策論的な諸言説を検討し,その矛盾や背景や連関のさまざまな様相を明らかにするという,それ自体としてもアクチュアルな歴史研究として意義の大きい作業をとおして,この考察が遂行されている。 本論文は,序章,結論,および、4部23章からなる本体部分からなっている。序章では,前記のような本論文の問題意識と,方法,視点が明確に述べられている。第I部を構成する6つの章では,明治初期の「琉球処分」から,台湾および朝鮮半島における「統治」体制が形成されるまでの,その地の住民への「同化」/「排除」をめぐる政策論的な言説と,その背景が,当時の歴史的な状況の文脈の中で考察されている。第II部を構成する5つの章では,第I部で明らかにされた,「日本人」というナショナル・アイデンティティの矛盾を含んだ概念が,内部からも外部からも,動揺にさらされることとなる経緯と,このようなアイデンティティの危機に対処する政策論的な諸言説の系譜が追求されている。第III部を構成する諸章(6章の内5章)では,第I部,第II部で見てきたような,支配する側からの「日本人」規定に対して,支配された諸地域の住民の側の,「日本人」の概念をめぐる諸言説が,その背後にある現実の力関係と,さまざまな関心,抱負,思惑等の交錯する磁場との関連において,考察されている。(この部の最終章-第17章「最後の改革」-は,内容上は第II部に入るもの(危機に対応する支配の側の対処)であるが,歴史的な流れに即して,この部の末尾に置かれている。)第IV部を構成する6つの章では,第二次世界大戦の終結後の時期に,「日本人」のコンセプトの境界をめぐる現実的な,かつ顕在的な「問題」として,なお残されて政策論的な論争の対象となった主要な地域として,戦後の「沖縄」をめぐる言説が,集中的に取り上げられ,検討されている。結論では,本論における膨大な実証分析を踏まえて,近代における「日本人」のアイデンティティの問題が,(1)「後発帝国主義としての特徴」,(2)「公定ナショナリズム」,(3)「有色の帝国」,という3つの基軸から明快に整理され,その上に立って,(4)分類しがたいものの曖昧さの意義,(5)支配されるものの側からの拮抗,(6)両義的な存在の危険性と可能性,という3つの視点から考察が行われている。 本稿の意義はまず何よりも,その本論23章を構成する,膨大な資料の掘り起こしとその適切な読解という作業をとおしての,数多くの具体的な史実についての検証にあるが,今あえて概括的に,その特質を要約するとすれば,以下の諸点にあるといえる。第一に,日本とその支配地域との関係を,当時の巨視的な国際関係の磁場の中で,著者のいう「三体問題」(「欧米」/「日本」/「アジア」の3者関係)の文脈の中において考察し,この文脈から,「日本人」のアイデンティティをめぐる多くの言説の背景を追求していること。第二に,このことと同時に逆に,「日本人」のアイデンティティをめぐる言説の多くの背後に,時には極めて「微視的」ということもできる,官庁の部局間のセクショナリズム,当事者間の思惑や関心の交錯等をも,細密画のように緻密に解明してみせていること。第三に,アイデンティティという問題と,現実的な政策や法制等との,相互に作用するダイナミズムという領域に光を当てていること。第四に,このような考察から得られた結果を,日本における歴史的な経験の概括としてだけでなく,他の所にも適用しうる形で,過去・現在・未来におけるナショナリティ,アイデンティティをめぐるアクチュアルな諸問題の解明にも資する仕方で,一般化された理論として提示する努力がなされていること。 これに対して,強いて本稿の「弱点」を指摘するならば,本論の史料的な実証部分の充実と対比するとき,「結論」等の理論的な部分はやや平板であり,独創性,透徹性において劣るように思われる。たとえば,「有色の帝国」という本稿の最も特色ある鍵概念も,魅力的かつ有用な視点を提示するものではあるが,概念としての独自性の規定には,なお明晰化の余地のあること。「言説分析」という著者の依拠する「方法」についても,歴史学におけるごく通常の史料分析の方法を,言説としての対象に限定して適用したということ以外に,特別な方法論的な意味のあるものとしては提示されていないこと。また,「言説を分析する」ということの,歴史研究におけるステイタス,あるいは,言説という事象自体の,現実に実行される政策の決定過程や,語られざる意志,時には意識さえされない動因等々の連関する総体の布置の中でのステイタスについて,いっそう周到な理論的用意があれば,主題である「日本人」論自体についても,これを現実に規定した要因の総体について,更に透徹した考察をなしえたであろうこと。等々である。 けれどもこれらの「弱点」はすべて,本論の実証部分の充実と対比した場合の「物足りなさ」であって,間違った主張や矛盾した論理が展開されているわけではない。本論部分において既に充分といえる学術的達成の意義に対して,幾分かの減点を必要とする如き欠陥ではないということができる。 以上を総合して,本論文は,博士(学術)の学位を授与されるに値する論文であると結論する。 |