学位論文要旨



No 113159
著者(漢字) 森本,雅子
著者(英字)
著者(カナ) モリモト,マサコ
標題(和) 音の高周波成分とゆらぎが脳に及ぼす影響について : 脳電位変動成分の新解析手法の開発と応用
標題(洋)
報告番号 113159
報告番号 甲13159
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第157号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 河内,十郎
 東京大学 教授 繁桝,算男
 東京大学 教授 川戸,佳
 東京大学 助教授 丹野,義彦
 東京大学 助教授 酒井,邦嘉
内容要旨

 人工物がいちじるしく集積している現代都市では、自然性の高いゆたかな環境音は激減し、それにかわって、屋外では自動車などを発信源とする騒音が増大し、屋内では屋外の音源から遮断されたうえ電子機器等を発信源とする特異な人工音に曝されている場合が多い。こうした中で電子メディアを利用した環境音を造成する試みもふえている。しかし、このような人工的な音環境と人間との適合性が保障されているかどうかについては、これまで、音の質的な評価基準があいまいであったことや、音が人間に及ぼす感性的影響を生理学的に評価する有効な方法が未開発だったことなどから、本格的な研究の対象外におかれてきたといえる。

 本研究では、音が人間の脳に及ぼす影響を高い精度で検討する手法を開発すること、生体をとりまく環境音等がもつ物理構造からみた音質的特性を抽出すること、そしてその特性が人間にどのような影響を及ぼすか調べることを目的とした。

 この目的に関連して、大橋らの先行研究では、自然性が高い地域の環境音には都市騒音環境音にくらべて、可聴域をうわまわる高周波成分と、ミクロな時間領域におけるゆらぎ構造が豊富に含まれていることをみいだした。また、音が人間の脳に及ぼす生理的影響を評価するため、脳電位の成分のポテンシャルを指標とした評価手法を開発し、可聴域をうわまわる高周波成分が含まれている音は、それを除外した音に比べて成分の活性を統計的に有意に増大させることを示した。この研究では、脳電位をFFT法を用いて計量し、音呈示を開始してから充分時間が経過したあと長時間にわたって計測を行いその平均値を求めることによってはじめて、脳活性の変化を抽出することに成功している。しかし音の印象は瞬間的に形成される場合も少なくないはずであり、そのような場合についてはこの方法は必ずしもうまく機能しない。もし、音呈示開始直後における脳電位の過渡的変化を高精度に分析することができれば、音が人間の脳に及ぼす感性的影響を直接的あるいは詳細に検討する指標になりうることが期待される。しかし、FFT法のもつ原理的限界により、過渡的変化を高精度に分析することは困難であり、課題として残されていた。

 そこで本研究では、脳電位の過渡的変化を高精度に分析するために有効な方法論を検討し、最大エントロピー法を応用した新しい脳電位分析手法を開発した。そしてその手法を用いて、生体をとりまく快適性の高い音に顕著にみられる高周波成分とミクロなゆらぎ構造という物理的音質特性が、人間の脳に及ぼす影響について検討することを試みた。

 本研究ではまず、従来行われている脳電位分析法を応用して脳電位の過渡的変化を分析することの妥当性を検討した。その結果、高速フーリエ変換(FFT)法をはじめとして、従来の脳電位分析法では短時間の非定常的な脳電位データを扱う上で原理的な限界が無視できないことがあきらかになった。そこで、最大エントロピー法(Maximum Entropy Method:MEM)に着目し、これを応用した脳電位分析法を考案した。

 MEMは、短時間のデータからでも信頼性が高く安定なスペクトルが得られる点に特徴がある。そこでまず脳電位の時系列データを0.5secの短い時間区分に分割し、各分割区間を局所的な定常とみなしてMEMスペクトルを求め、それらを時間軸にそって並べMEMスペクトルアレイを表示した。その際同時にFRE(最終予測誤差)をモニタし、脳電位の安定性の指標とした。また、脳電位の変化を評価するための定量的指標を得るため、MEMスペクトルアレイから、成分ポテンシャル、ピーク周波数、成分のスペクトル変化量をそれぞれ求め時間変動をしらべた。さらに、個人個人の分析結果をもとに、被験者全体の傾向を評価するため、得られた定量的指標について全被験者平均の変動を求めた。さらにまた、評価した全体の傾向が統計的に有意といえるかどうか確認するため、統計検定を行った。以上のような分析手法を実用化するため、脳電位計測・記録・分析システムを構築し、実際の実験データの分析に応用した。

 つぎに、生体をとりまくさまざまな音がどのような物理的特徴をそなえているかをしらべるため、MEMの原理を音の分析にも応用し、高周波成分とミクロなゆらぎ構造に着目してあらためて分析した。まず、自然性が高度に保存された地域の快適な環境音と、都市の騒音環境音とを比較分析した結果、自然性が高い環境音には、可聴域を超える高周波成分が豊富に含まれ、時間的にミクロなゆらぎが豊富であるのに対して、都市騒音環境音では周波数分布が低周波成分に著しくかたよっており、時間的にミクロなゆらぎも乏しいことが確認された。つぎに、インドネシア・バリ島に伝わる民族楽器であるガムランの音楽を調べると、瞬間的に100kHzにおよぶ強烈な高周波成分をもつこと、打鍵後にもスペクトルのゆらぎが豊かに発生していることがみいだされた。一方、西欧圏の代表的打鍵楽器であるピアノは、周波数成分が10kHz以下の帯域におさまり、打鍵後のゆらぎも乏しいという現象がみられた。つぎに、民族的な伝統唱法であるモンゴルのホーミー、ブルガリア民族唱法、そして日本人歌手のポップ・ミュージックを分析すると、高周波帯域に及ぶ広い周波数成分を含み、音程変化に由来しないミクロなゆらぎがあることが見出された。一方、ベルカント唱法では、雑音成分をおさえまっすぐな発声を理想とするため、高周波成分が乏しく音程変化がない部分ではゆらぎが乏しいという現象が見られた。これらの特徴のちがいは、演奏に対する文化的な相違を反映しており興味深い。

 つぎに、可聴域をうわまわる高周波成分が人間の脳に影響を及ぼすのかどうかを検討するため、高周波成分が豊富なガムラン音楽を音素材にして、もとの高周波成分を豊富に含む音(FRS)と、フィルターによって高周波成分をカットした音(HCS)とを被験者に交互に呈示し(図1)、その間の脳電位の変化をしらべた。その結果、FRSを呈示した時には、呈示開始直後に脳電位の成分のポテンシャルが数秒間にわたって一旦抑制され、その後大きく上昇するのに対して、HCSを呈示した時には、そのような変化はみられず、両者のあいだには過渡的な変化において顕著なちがいがあることがみいだされた(図2,3)。

図1 実験に用いた音素材図2 典型的な被験者のMEMスペクトルアレイ図3 全被験者平均の成分ポテンシャルの変化

 刺激呈示後に成分が抑制される傾向については、古典的な時間波形の視察によっても、" blocking"として知られている。この現象は、注意状態の上昇と関連が深いといわれていることから、高周波成分を含む音の方がより現実感覚を刺激し、注意を喚起しやすい可能性が推定される。ところが、音呈示開始後10〜20秒程度経過すると、前記の傾向は逆転してFRSを呈示した時の方がHCSを呈示した時よりも成分のポテンシャルが有意に増大するという過程が観察された。この現象は、高周波成分を除外した音に比べて、高周波成分を含む音の方が、より快適でリラックスした状態を導くことを示唆している。

 これらの結果は、先行研究の心理実験において可聴域上限をこえる高周波成分を含む音の方が、高周波成分をカットした音よりもより現実感・臨場感に富み、リラックスしやすく快適感を感じるという結果と整合性のある結果といえる。

 また、同じガムラン音楽を音素材にして、その高周波成分をゆらぎのない定常なホワイトノイズから抽出した人工的な高周波成分でおきかえた音(aFRS)を作成し、これともとの自然の高周波成分を含む音(nFRS)とが脳電位に及ぼす影響のちがいを分析した。その結果、aFRS呈示時には、nFRS呈示時にみられたような、成分ポテンシャルの呈示開始直後の抑制と上昇、そして長時間経過後の増大、という脳電位への影響が判然とは現れなかった。このことから、可聴域を超える高周波成分のゆらぎという、それ単独では知覚できない性質のちがいであっても、自然界の音に存在する音と、自然には存在しない性質をもった人工の音とでは、脳活性に及ぼす影響が異なる可能性があることが示唆された。

 最後に、外部からの遮音性がたかく電子機器類が発する音などが支配的な室内の音環境下に所在する場合と、その音環境に自然環境音を再生付加した場合との脳電位のちがいを予備的に検討した。その結果、ここで検討した被験者においては、高周波成分とゆらぎ構造とを豊富に含む自然環境音を再生付加した場合の脳電位は、再生音を呈示開始した直後に一旦抑制され、呈示開始後長時間経過すると、原環境音下にくらべて増大していく傾向がみられ、ガムラン音楽を用いて行ったこれまでの検討結果と整合性のある変化傾向を示した。これによって、本研究で開発した分析手法が音環境と脳との適合性を検討していく上での現実的有効性をもつ可能性が示された。

 以上のようにMEMを中心に開発した新しい脳電位分析手法を応用することによって、これまでの手法では困難だった脳電位の過渡的な変動を明瞭にとらえ定量的に分析することが可能になった。この手法と、これまでFFTを使って行われてきた長時間の脳電位平均による分析手法とのあいだで矛盾する結果は生じなかった。これらの手法をあわせて用いることによって、これまでにないあらたな知見を得ることができ、手法の有効性が確認されたと考えられる。この手法に今後さらに工夫を重ねることにより、生体をとりまく音が脳に及ぼす影響についてより詳細にしらべることによって、音環境と人間の脳との適合性を評価する方法論を検討していくことが期待される。

審査要旨

 本論文は、高度技術が集積された現代社会の中での人間と環境との相互作用のあるべき姿の追求を視野におき、音が人間の脳に及ぼす影響を脳電位分析を通じて検討したもので、

 (1)音が人間の脳に及ぼす影響を高い精度で検討する新しい手法の開発

 (2)人間をとりまくさまざまな環境音が持つ物理構造からみた音質特性の抽出

 (3)(2)で抽出された特性が人間の脳に及ぼす影響の検討

 の三つの柱からなっている。

 (1)では、従来の研究で用いられている高速フリーリエ変換法(FFT)などの脳電位分析法を検討し、これらは長時間持続する脳活性の変化を抽出することはできても、音提示開始直後の過度的変化の分析に用いるには原理的な限界が無視できないことを明らかにし、短時間の過度的変化を精密に分析する方法として、短いデータからでも信頼性の高いスペクトルがえられる最大エントロピー法(Maximum Entropy Method:MEM)を応用した新しい手法を開発している。

 具体的には、脳電位にみられる自発脳波の持続時間が最短で0.5sec程度であることを根拠に、脳電位変動の時系列データを時間長0.5sec(データ数128ポイント)に分割し、分割区間は局所的に定常とみなしてMEMスペクトルを求め、それらを時間軸に沿って並べてMEMスペクトルアレイを表示し、その際同時にFRE(最終予測誤差)をモニタして脳電位の安定性の指標としている。このMEMスペクトルアレイによって、各被験者の自発脳波全体の変化パターンの定性的な把握が可能となっているが、さらに定量的指標をとらえるために、MEMスペクトルアレイから成分ポテンシャル、ピーク周波数、成分のスペクトル変化量をそれぞれ算出し、脳電位の時間変動の客観的な分析を行っている。個々の被験者について得られたこれらの定量的指標は、全被験者にみられる全体の傾向の統計的分析を可能にしている。

 以上のような脳電位分析法を効率よく進めるための分析システムの構築と実用化が本論文の柱の一つとなっているが、そこには論文提出者の斬新な発想と創造性を認めることができる。

 (2)では、MEMの原理をさまざまな音の物理的特徴の分析に応用している。具体的には、自然環境音(パナマ、バロ・コロラド島の熱帯雨林とインドネシア、バリ島の農村の庭園)と都市騒音環境音(豊島区南大塚、駅前交差点とその近くの屋内、中野区東中野の道絡沿いの屋外と屋内)とを比較して、自然環境音には可聴域を越える高周波成分が豊富に含まれ、しかも時間的にミクロなゆらぎが豊富であるのに対し、都市騒音環境音は周波数分布が低周波成分に著しくかたよっており、時間的にミクロなゆらぎにも乏しいことを明らかにしている。また、さまざまな音楽の比較では、バリ島に伝わる民族打楽器であるガムランの音楽には、瞬間的に100kHzに及ぶ強烈な高周波数が含まれ、打鍵後にもスペクトルのゆらぎが豊に発生しているのに対して、西欧圏の代表的打鍵楽器であるピアノは、周波数成分が10kHz以下の帯域におさまり、打鍵後のゆらぎも乏しいことを確認している。

 (3)は、本論分の中心となる部分で、(1)で構築された脳電位分析システムを用いて、(2)で明らかにされた環境音の音質特性が人間の脳に及ぼす影響を、脳電位の成分に焦点を当てて分析している。

 第一実験では、自然環境音と同様に高周波成分とミクロなゆらぎを豊富に含むことが(2)で確認されており、また、被験者に比較的馴染みがないために嗜好の個人差が少ないと考えられるガムラン音楽を刺激として用い、これを本来の高周波成分をそのまま含む音(FRS)と、そこからフィルターによって24kHz以上の高周波をカットした音(HCS)の2条件を用意し、これを16人の被験者に交互に繰り返して2回づつ提示して、その間の脳電位変化を調べている。分析は、波が最も大きくかつノイズの混入が少ないことが予備実験で確認されている右後頭部(国際10-20法のO2)が対象とされている。その結果、FRS提示条件では、提示開始直後に成分のポテンシャルが数秒間にわたって一旦抑制され、その後大きく上昇するのに対して、HCS提示条件ではそのような変化はみられず、両条件の間には過度的な変化において顕著な違いがみられることがみいだされた。この結果は、従来の"-blocking"として知られている現象に関する理論から、高周波成分を含む音の方がより現実感覚を刺激し、注意を喚起しやすいためと説明されている。一方、音提示開始後10-20秒程度経過した時点では、前記の傾向は逆転して、FRS提示条件の方がHCS提示条件より波成分のポテンシャルが有意に増大するという経過が観察されている。これは、可聴域上限を越える高周波成分を含む音の方が、高周波成分をカットした音よりも現実感・臨場感に富んだリラックスした快適感を感じることを明らかにした先行心理実験の結果を、脳電位変化のレベルで確認したものと解釈されている。

 第二実験では、同じガムラン音楽を素材として、その高周波成分をゆらぎのない定常なホワイトノイズから抽出した人口的な高周波成分におきかえた音(aFRS)を作成し、これともとの自然な高周波成分を含む音(nFRS)とが脳電位に及ぼす影響の違いを検討している。その結果、aFRS提示条件では、nFRS提示時にみられたような、成分ポテンシャルの音提示直後の抑制と上昇、長時間経過後の増大がともにnFRS提示時ほどには判然とは現れないことが明らかにされ、可聴域を越える高周波成分のゆらぎの有無という、それ自体は単独では知覚できない音質の違いが、脳の活性化に異なる影響を及ぼしていることが示唆されている。

 予備的に行われた第三実験では、大型機械の動作音、電子機器の冷却ファン・ノイズ、空調ノイズなどが錯綜した大型工場の中央制御室内で、ゆらぎを伴う高周波成分を豊富に含む環境音を提示した時の脳電位変化が検討されている。結果はまだ被験者一人のものにすぎないが、自然環境音を付加することによって、騒音の多い原環境下では少なかった成分のポテンシャルが、次第に増大していく傾向が認められている。

 以上要約した本論分の実験は、被験者の内観の聴取と記述が不足しているなどの不満は残るものの、音の高周波成分とそのゆらぎが脳に及ぼす影響について、新しい知見を提供しており、今後広い範囲の活用が期待できる脳電位の新しい分析法の開発も含まれている。

 よって本論文は、博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる。

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