人工物がいちじるしく集積している現代都市では、自然性の高いゆたかな環境音は激減し、それにかわって、屋外では自動車などを発信源とする騒音が増大し、屋内では屋外の音源から遮断されたうえ電子機器等を発信源とする特異な人工音に曝されている場合が多い。こうした中で電子メディアを利用した環境音を造成する試みもふえている。しかし、このような人工的な音環境と人間との適合性が保障されているかどうかについては、これまで、音の質的な評価基準があいまいであったことや、音が人間に及ぼす感性的影響を生理学的に評価する有効な方法が未開発だったことなどから、本格的な研究の対象外におかれてきたといえる。 本研究では、音が人間の脳に及ぼす影響を高い精度で検討する手法を開発すること、生体をとりまく環境音等がもつ物理構造からみた音質的特性を抽出すること、そしてその特性が人間にどのような影響を及ぼすか調べることを目的とした。 この目的に関連して、大橋らの先行研究では、自然性が高い地域の環境音には都市騒音環境音にくらべて、可聴域をうわまわる高周波成分と、ミクロな時間領域におけるゆらぎ構造が豊富に含まれていることをみいだした。また、音が人間の脳に及ぼす生理的影響を評価するため、脳電位の成分のポテンシャルを指標とした評価手法を開発し、可聴域をうわまわる高周波成分が含まれている音は、それを除外した音に比べて成分の活性を統計的に有意に増大させることを示した。この研究では、脳電位をFFT法を用いて計量し、音呈示を開始してから充分時間が経過したあと長時間にわたって計測を行いその平均値を求めることによってはじめて、脳活性の変化を抽出することに成功している。しかし音の印象は瞬間的に形成される場合も少なくないはずであり、そのような場合についてはこの方法は必ずしもうまく機能しない。もし、音呈示開始直後における脳電位の過渡的変化を高精度に分析することができれば、音が人間の脳に及ぼす感性的影響を直接的あるいは詳細に検討する指標になりうることが期待される。しかし、FFT法のもつ原理的限界により、過渡的変化を高精度に分析することは困難であり、課題として残されていた。 そこで本研究では、脳電位の過渡的変化を高精度に分析するために有効な方法論を検討し、最大エントロピー法を応用した新しい脳電位分析手法を開発した。そしてその手法を用いて、生体をとりまく快適性の高い音に顕著にみられる高周波成分とミクロなゆらぎ構造という物理的音質特性が、人間の脳に及ぼす影響について検討することを試みた。 本研究ではまず、従来行われている脳電位分析法を応用して脳電位の過渡的変化を分析することの妥当性を検討した。その結果、高速フーリエ変換(FFT)法をはじめとして、従来の脳電位分析法では短時間の非定常的な脳電位データを扱う上で原理的な限界が無視できないことがあきらかになった。そこで、最大エントロピー法(Maximum Entropy Method:MEM)に着目し、これを応用した脳電位分析法を考案した。 MEMは、短時間のデータからでも信頼性が高く安定なスペクトルが得られる点に特徴がある。そこでまず脳電位の時系列データを0.5secの短い時間区分に分割し、各分割区間を局所的な定常とみなしてMEMスペクトルを求め、それらを時間軸にそって並べMEMスペクトルアレイを表示した。その際同時にFRE(最終予測誤差)をモニタし、脳電位の安定性の指標とした。また、脳電位の変化を評価するための定量的指標を得るため、MEMスペクトルアレイから、成分ポテンシャル、ピーク周波数、成分のスペクトル変化量をそれぞれ求め時間変動をしらべた。さらに、個人個人の分析結果をもとに、被験者全体の傾向を評価するため、得られた定量的指標について全被験者平均の変動を求めた。さらにまた、評価した全体の傾向が統計的に有意といえるかどうか確認するため、統計検定を行った。以上のような分析手法を実用化するため、脳電位計測・記録・分析システムを構築し、実際の実験データの分析に応用した。 つぎに、生体をとりまくさまざまな音がどのような物理的特徴をそなえているかをしらべるため、MEMの原理を音の分析にも応用し、高周波成分とミクロなゆらぎ構造に着目してあらためて分析した。まず、自然性が高度に保存された地域の快適な環境音と、都市の騒音環境音とを比較分析した結果、自然性が高い環境音には、可聴域を超える高周波成分が豊富に含まれ、時間的にミクロなゆらぎが豊富であるのに対して、都市騒音環境音では周波数分布が低周波成分に著しくかたよっており、時間的にミクロなゆらぎも乏しいことが確認された。つぎに、インドネシア・バリ島に伝わる民族楽器であるガムランの音楽を調べると、瞬間的に100kHzにおよぶ強烈な高周波成分をもつこと、打鍵後にもスペクトルのゆらぎが豊かに発生していることがみいだされた。一方、西欧圏の代表的打鍵楽器であるピアノは、周波数成分が10kHz以下の帯域におさまり、打鍵後のゆらぎも乏しいという現象がみられた。つぎに、民族的な伝統唱法であるモンゴルのホーミー、ブルガリア民族唱法、そして日本人歌手のポップ・ミュージックを分析すると、高周波帯域に及ぶ広い周波数成分を含み、音程変化に由来しないミクロなゆらぎがあることが見出された。一方、ベルカント唱法では、雑音成分をおさえまっすぐな発声を理想とするため、高周波成分が乏しく音程変化がない部分ではゆらぎが乏しいという現象が見られた。これらの特徴のちがいは、演奏に対する文化的な相違を反映しており興味深い。 つぎに、可聴域をうわまわる高周波成分が人間の脳に影響を及ぼすのかどうかを検討するため、高周波成分が豊富なガムラン音楽を音素材にして、もとの高周波成分を豊富に含む音(FRS)と、フィルターによって高周波成分をカットした音(HCS)とを被験者に交互に呈示し(図1)、その間の脳電位の変化をしらべた。その結果、FRSを呈示した時には、呈示開始直後に脳電位の成分のポテンシャルが数秒間にわたって一旦抑制され、その後大きく上昇するのに対して、HCSを呈示した時には、そのような変化はみられず、両者のあいだには過渡的な変化において顕著なちがいがあることがみいだされた(図2,3)。 図1 実験に用いた音素材図2 典型的な被験者のMEMスペクトルアレイ図3 全被験者平均の成分ポテンシャルの変化 刺激呈示後に成分が抑制される傾向については、古典的な時間波形の視察によっても、" blocking"として知られている。この現象は、注意状態の上昇と関連が深いといわれていることから、高周波成分を含む音の方がより現実感覚を刺激し、注意を喚起しやすい可能性が推定される。ところが、音呈示開始後10〜20秒程度経過すると、前記の傾向は逆転してFRSを呈示した時の方がHCSを呈示した時よりも成分のポテンシャルが有意に増大するという過程が観察された。この現象は、高周波成分を除外した音に比べて、高周波成分を含む音の方が、より快適でリラックスした状態を導くことを示唆している。 これらの結果は、先行研究の心理実験において可聴域上限をこえる高周波成分を含む音の方が、高周波成分をカットした音よりもより現実感・臨場感に富み、リラックスしやすく快適感を感じるという結果と整合性のある結果といえる。 また、同じガムラン音楽を音素材にして、その高周波成分をゆらぎのない定常なホワイトノイズから抽出した人工的な高周波成分でおきかえた音(aFRS)を作成し、これともとの自然の高周波成分を含む音(nFRS)とが脳電位に及ぼす影響のちがいを分析した。その結果、aFRS呈示時には、nFRS呈示時にみられたような、成分ポテンシャルの呈示開始直後の抑制と上昇、そして長時間経過後の増大、という脳電位への影響が判然とは現れなかった。このことから、可聴域を超える高周波成分のゆらぎという、それ単独では知覚できない性質のちがいであっても、自然界の音に存在する音と、自然には存在しない性質をもった人工の音とでは、脳活性に及ぼす影響が異なる可能性があることが示唆された。 最後に、外部からの遮音性がたかく電子機器類が発する音などが支配的な室内の音環境下に所在する場合と、その音環境に自然環境音を再生付加した場合との脳電位のちがいを予備的に検討した。その結果、ここで検討した被験者においては、高周波成分とゆらぎ構造とを豊富に含む自然環境音を再生付加した場合の脳電位は、再生音を呈示開始した直後に一旦抑制され、呈示開始後長時間経過すると、原環境音下にくらべて増大していく傾向がみられ、ガムラン音楽を用いて行ったこれまでの検討結果と整合性のある変化傾向を示した。これによって、本研究で開発した分析手法が音環境と脳との適合性を検討していく上での現実的有効性をもつ可能性が示された。 以上のようにMEMを中心に開発した新しい脳電位分析手法を応用することによって、これまでの手法では困難だった脳電位の過渡的な変動を明瞭にとらえ定量的に分析することが可能になった。この手法と、これまでFFTを使って行われてきた長時間の脳電位平均による分析手法とのあいだで矛盾する結果は生じなかった。これらの手法をあわせて用いることによって、これまでにないあらたな知見を得ることができ、手法の有効性が確認されたと考えられる。この手法に今後さらに工夫を重ねることにより、生体をとりまく音が脳に及ぼす影響についてより詳細にしらべることによって、音環境と人間の脳との適合性を評価する方法論を検討していくことが期待される。 |