学位論文要旨



No 113163
著者(漢字) 和泉,潔
著者(英字)
著者(カナ) イズミ,キヨシ
標題(和) 外国為替市場の人工市場モデル
標題(洋) An Artificial Market Model of a Foreign Exchange Market
報告番号 113163
報告番号 甲13163
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第161号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 大勝,孝司
 東京大学 教授 永野,三郎
 東京大学 教授 玉井,哲雄
 東京大学 助教授 池上,高志
 筑波大学 教授 寺野,隆雄
内容要旨 1研究の背景

 「人間は複雑な社会システムの中で,いかに学習を行なうのか」という問題は,認知科学や人工知能の分野で,従来の方向性に対する反省として,重大な課題となっている.従来の認知科学や人工知能の研究では,独立した個人が行なう学習といったものに焦点が集まっていたが,最近になって,人為的ではない,複雑で現実的な社会的場面における学習,中でも経済学的な相互作用における学習に関する研究の必要性が強く認識されてきている.

 経済学の分野の方でも,最近,従来の経済理論における人間の学習に対する過度の理想化に対し強い批判が行なわれている.特に,近年,市場の激しい変動を経験した外国為替市場(以下,外為市場)では,市場参加者である"人間の心理"の効果が特に注目されている.しかし,合理的な人間のみが存在するこれまでの伝統的な経済理論では,過度に理想的で非現実的な市場が仮定されており,市場参加者の個人特性の違いや心理的側面を軽視されてきた.経済学的な場面における人間の学習に関して,認知科学や人工知能の分野からの知見を利用して,より現実的な新しい市場の理論を構築する必要性が強く提唱されているが,具体的なモデルや理論はまだ現れていないのが現状である.

 また,最近,社会科学共通の理論的な問題として,社会システムにおけるミクロレベルとマクロレベルのシステムの関係が特に注目を集めているが,残念ながら現状の理論では抽象的な話に留まっており,実際に何らかのモデルを構築し分析している研究は少ない.

2研究の目的

 本研究の目的は,上述の課題に対する解答への取り組みとして,外為市場を一つのケーススタディとして,人工市場アプローチと呼ばれる新しいアプローチを提出することである.

 人工市場アプローチでは,市場参加者個人のミクロな情報処理・意思決定過程の分析と,マクロな市場の分析の両者を行う.その上で,従来の合理的期待仮説を廃した,各々の市場参加者が相互作用しながら学習していくマルチエージェントシステムの観点から,新しく外為市場のモデルを構築する.そして,モデルの計算機シミューレーションを行ない,その結果により,実際の外為市場で見られる様々な創発的現象をエージェント間の相互作用の視点から定量的に解析する.

3研究の内容と結果

 人工市場アプローチは,現場観察に基づく個人の情報処理過程の解析,マルチエージェント・アプローチに基づくミクロからマクロへの統一したモデルの構築,モデルの計算機シミュレーションの結果に基づいた市場の創発的現象の解析の三つのステップにわかれる.

3.1個人の情報処理過程の解析

 実際に外為市場に参加しているディーラーに対して,実際の意思決定現場における情報の種類,予想形成の方式,学習のメカニズムに関するインタビューと質問紙調査を行ない,得られたデータを認知科学の学習理論の知見から分析した.

 分析の結果,実際の市場参加者たちは常に他人と相互作用しながら,現在の市場を支配しているレート変動の理論に適応していることがわかった.その結果,市場全体から見ると,予測力の低い予想方式は淘汰され,現在のレート変動をうまく説明できる予想方式のみが生き残っていくこともわかった.

 このように,実際の外為市場では,ミクロなレベルの適応行動が集積して,市場というよりマクロなシステムを動かし,その動きに合わせてミクロなレベルで適応行動がおきている.このような環境との相互作用は生態学におけるシステムとも共通の特徴である.そのため,本研究における外為モデル(AGEDASI TOF)は,上記のような市場参加者の適応行動を,遺伝的アルゴリズムを用いて,生物の遺伝とのアナロジーから記述している.

3.2市場のマルチエージェントモデルの構築

 本研究のモデルにおいて各期は,既存の外為市場モデルと共通である知覚・予想形成・戦略決定・レート決定の四つのステップに新たに適応ステップを加えた五つのステップから成り立っている.

 1.知覚ステップ:各市場参加者は,今期が始まる前までに入ってきたさまざまな情報から為替レートに影響を与えると思われる材料を知覚する.

 2.予想形成ステップ:知覚された材料をもとに,自分自身の信念体系にしたがって,将来の為替レートの変動のシナリオを作成し,レートを予想する.

 3.戦略決定ステップ:自分自身の予想を用いて,レートがいくらなら円やドルの資本をどれくらい売り買いするかを決定する.

 4.レート決定ステップ:各市場参加者の売り買いを市場全体で集積して,需要と供給が均衡するような値にレートが決定される.

 5.適応ステップ:遺伝的アルゴリズムを用いて各市場参加者の予想形成部を通応させる.具体的には,最初に,決定された今期のレートから各市場参加者の持つ信念体系の予想の当たりはずれを計算し,その値をもとに,予測力の高かった信念体系の市場全体の頻度が多く予測力の低かった信念体系の頻度が低くなるように変化させる.このことは,各市場参加者が予測力の高い信念体系をまねして取り入れたと解釈できる.又,他人との相互作用や自分一人によって新しい信念体系をつくっていく.このように次期に用いる信念体系が用意される.

 以上の五つのステップの繰り返しにより,計算機の中に仮想的な市場と取り引きが行われ,為替レートが変動していく.

 本研究のモデルは次の二点の特徴を持つ.一つは、本モデルでは各エージェントが市場に関する予想方式のルール体系を内部に持ち,これを学習により適応させている点である.これにより,実際の市場における市場参加者の情報処理過程に関するデータをモデル内のエージェントと対応させながら,モデルの構築や評価を行うことが可能になった.もう一つは,金利などの経済の基礎的な要因に関する実データも入力情報として扱われている.そのため,現実のレート変動の定量的なシミュレーションが可能となった.以上の二つの特徴により本モデルは,従来のモデルと異なり,定性的にだけでなく定量的にも実際の経済現象の解析を行なうことが可能になった.

3.3市場の創発的現象の解析

 まずモデルの評価を行なうために,既存のモデルと予測力の比較テストを行った.次に,実データを用いた計算機シミュレーションにより,実際の外為市場に見られる創発的現象の一つであるバブルの解析を行った.そして,予想の多様性における相転移といった観点から,他の創発現象のメカニズムの解明を試みた.最後に,以上の結果を現場観察の結果から検証した.

 予測力の比較 1986年から1993年までの実際の外為市場の週次データを用いて,既存の外国為替市場モデルと予測力の比較を行なった.比較したモデルはランダムウォークモデルと線形回帰モデルの二つである.結果は本モデルにより他のモデルに対して予測誤差の10%以上の改善が見られた.つまり,この三つのモデルの中で,本モデルがもっとも予測力が高かったのである.

 バブル 次に,本モデルを用いて1990年の円安バブルと1995年の円高バブルの二つに時期について,為替レートのバブルの解析を行なった.レート予測の結果の分布を調べたところ,バブルが発生したグループ(バブルグループ)と発生しなかったグループ(ノンバブルグループ)に分けることができた.まず,各グループの典型的なケースの材料の重要度の変化を比較したところ,以下の二つのことがわかった.一つ目は,バブルグループの方が経済の基礎的な要因に関する材料に対して敏感な市場参加者が多かったことである.もう一つは,バブルグループでは,短期的には現在のトレンドが続くように(同調的期待),長期的には大きく変動したらもとの水準に戻るように(回帰的期待),予想する市場参加者が多かったことである.そして,バブルが発生したシミュレーションのケースにおいて,バブルの成長と崩壊での市場の需要と供給関係を調べた.その結果,バブルの崩壊時には取り引き量はほとんどゼロになり,崩壊の前後で需給関係が逆転していたことがわかった.以上の結果によると,この時期のバブルのメカニズムとして以下のものが考えられた.バブルは市場参加者の予想の同調により成長し,ほぼ全ての市場参加者の予想が収束して取り引きが成立しなくなってバブルが崩壊した.

 予想の多様性における相転移による創発的現象の解明 バブルグループに含まれる予測パスを分析した結果,レートが上がる予想と下がる予想が市場で半々くらいにわかれていた時期(フラット相)と,どちらか一方に収束した時期(バブル相)が見られた.フラット相では,需給が均衡し取り引き高が多い反面,レートの変動幅は小さかった.一方バブル相では需給が一方に偏り,取り引き高が少ないがレートの変動幅は大きい.

 このような予想の多様性における相転移から以下の三つの創発的現象を説明できた.取り引き高と変動の負の相関は,各相における両者の関係から解明された.レート変動の分布が正規分布と有意に異なることは,フラット相での尖度の大きい分布と,バブル相での裾の厚い分布の重ね合わせであることから説明できた.市場全体の予想が収束しすぎると逆にレートが皆が予想する方向に動かないというコントラリーオピニオン現象は,バブル相で予想が収束しすぎて反対のオーダーがなくなって取り引きが成立しなかったことに対応した.

 また,このような相転移が起きるメカニズムを解明するため,エージェントが持つ重要度から各材料を分類し,その時間変化を解析した.その結果,1995年の円高バブルにおいては、材料は計量経済学系,ニュース系,チャートトレンド系の三つに分類された.この時期のフラット相からバブル相への相転移は,ニュース系の材料の重要度の収束と,チャートトレンド系の材料の重要度がプラスになり,トレンドがトレンドを生むといった正のフィードバックが起きていたからであった.

 現場観察データとの比較インタビューや質問紙調査の結果と上記のシミュレーション結果を比較検討した結果,材料の分類や市場における重要度の変化,創発現象のメカニズムに関するシミュレーション結果を支持していた.

4結論

 このように,本研究では,個人の適応行動を考慮しコンピューターシミュレーションを行なう,人工市場アプローチが,従来のモデルでは説明できなかった様々な市場の創発的現象を,ミクロとマクロの関係の観点から,解明することができた.従って,本研究では,このアプローチが定性的にだけでなく定量的にも実際の経済現象の解析に用いることの可能性を示すことができた.

審査要旨

 外国為替レートの急激な変動が国民経済に重大な影響を与えることは周知の通りで今日では日常的なニュース報道の中でも取り上げられる程である。市場での価格決定に関する研究は、従来から専ら経済学の対象分野と目され市場の本質的挙動を追及する姿勢から合理的期待仮説を導入するなど比較的に単純化した各種理論・統計モデルを生み出してきた。しかし、市場は自由で多様な意思を持った人間多数が関与するためとしか解釈しえない程余りにも複雑な現象を現実に呈している。

 論文提出者は、ミクロとマクロを含む市場システムの全体的な挙動を分析する視点から総合的な計算機シミュレーション用モデルを構築する立場で臨み、現実の市場参加者の挙動を綿密に分析した上で、単に経済学のみではなく認知科学や人工知能など幅広い分野からの知見を一部拡張する形で体系化することにより、人工市場アプローチに立脚しかつ予想ルールの適応学習を組み入れた新しい市場分析モデルの構築に成功した。すなわちこの人工市場アプローチでは、ミクロな市場参加者個人の情報処理・意思決定過程の分析と、マクロな市場の需要・供給曲線による均衡解分析の両者を相互補完的に行う。その上で、従来の経済理論での合理的期待仮説からも脱却したより現実的な市場参加者像を反映させるため、各々の市場参加者が相互作用しながら学習していくマルチエージェントシステムの機能を重視して、ミクロからマクロへと統合化する外為市場のモデルを構築した。

 論文提出者は更に、本モデルによる計算機シミューレーションの結果を用いて、実際の外為市場で見られるバブルの成長・消滅など従来の経済学の市場モデルでは不十分にしか説明できなかった様々な創発的現象のメカニズムをエージェント間の相互作用の視点から定量的に解析した。すなわち予想の多様性における相転移といった観点からシミュレーション結果を綿密に分析し、各エージェントの重視する情報群を因子分類した上で市場における重要度意識の分布が動的に変化する様子に基づいて創発的現象のメカニズムを解明した。このような市場での意識分布の変化を経時的に克明に分析するといったことは現場観察では事実上不可能である。しかし時期を区切った断片的な観察データならば得られたので、本モデルに依る結果を検証する意味で比較し、ほぼ良好な一致の結果を得た。

 本論文では市場について第1章で合理的期待仮説などを中核とする従来の経済学のアプローチでは現実との乖離が甚だしく新たな視点でのアプローチの必要性を説き、第2章で市場のマクロ分析とミクロ分析およびこれらを統合化した形の研究についてそれぞれの動向を詳しく論じている。その上で本研究の全体的な方針を第3章で記述している。まず実際に外為市場に参加しているディーラーに対して、実際の意思決定現場における情報の種類、予想形成の方式、学習のメカニズムに関するインタビューと質問紙調査を行ない、得られたデータを認知科学の学習理論の知見から分析した(第4章)。分析の結果、実際の市場参加者たちは常に他人と相互作用しながら、現在の市場を支配しているレート変動の理論(予想方式)に適応していることが確認された。このように実際の外為市場では、ミクロなレベルの適応行動が集積して、市場というマクロなシステムを動かし、その動きに合わせてミクロなレベルで適応行動がおきている。このような環境との相互作用は生態学におけるシステムとも共通の特徴である。そのため第5章において、本研究における外為モデル(AGEDASITOFと略す)を詳述し、上記のような多数の市場参加者の適応行動を、遺伝的アルゴリズムを用いて、生物の遺伝とのアナロジーから記述している。

 本研究のモデルにおいて各期は、既存の外為市場モデルと共通である知覚・予想形成・戦略決定・レート決定の四つのステップに新たに適応ステップを加えた五つのステップから成り立っている。

 1。知覚ステップ:各市場参加者は、今期が始まる前までに入ってきたさまざまな情報(約20種類)から、為替レートに影響を与えると思われる材料を知覚する。

 2。予想形成ステップ:知覚された材料をもとに、自分自身の信念体系(市場に関する予想方式のルール体系)にしたがって、将来の為替レートの変動のシナリオを作成し、レートを予想する。

 3。戦略決定ステップ:自分自身のレート予想(の期待値と分散)を用い、かつ所定のリスク忌避度に応じて、市場レートがいくらなら円やドルの資本をどれくらい売り買いするかを決定する。

 4。レート決定ステップ:各市場参加者の売り買いを市場全体で集積して、需要と供給が均衡するような値にレートおよび出来高が決定される。

 5。適応ステップ:遺伝的アルゴリズムを用いて各市場参加者の予想形成部を適応させる。具体的には、最初に、決定された今期のレートから各市場参加者の持つ信念体系の予想の当たりはずれを計算し、その値をもとに、予測力の高かった信念体系は市場全体での次期の頻度がより多くなりかつ予測力の低かった信念体系の頻度が低くなるように変化させる。このことは、各市場参加者が予測力の高い信念体系をまねして取り入れたと解釈できる。又、他人との相互作用や自分一人によっても新しい信念体系に変化する。このように次期に用いる信念体系が用意される。

 以上の五つのステップの繰り返しにより、計算機の中に仮想的な市場が構成されて、そこで自律的に取り引きが行われ、為替レートが変動していく。

 本研究のモデルは次の二点の特徴を持つ。一つは、本モデルでは各エージェントが市場に関する予想方式のルール体系を内部に持ち、これを学習により適応させている点である。これにより、実際の市場における市場参加者の情報処理過程に関するデータを、モデル内のエージェント機能と対応させながら、モデルの構築や評価に利用することが可能になった。もう一つは、金利などの経済の基礎的な要因および政治経済のニュースなどに関する実データは入力情報として扱われている。そのため、現実のレート変動の定量的なシミュレーションが可能となった。

 以上の二つの特徴により本モデルは、従来の人工市場モデルとも異なり、定性的にだけでなく定量的にも実際の経済現象の解析を行なうことが可能になった。しかもその時々における各種情報に対する市場内部での意識の分布およびその変化について解析することも可能となった。

 そこで第6章では、本モデルによるコンピューターシミュレーションの結果を詳細に分析することにより、従来型の経済モデルでは十分に説明できなかったバブル現象、出来高とレート変化の関係など様々な市場の創発的現象について扱い、市場内部での意識の分布およびその変化の観点から解明することができた。

 本論文の研究成果の一部は、既に数編の学術論文(審査付きと審査なしを含め)として投稿・掲載され専門家に高く評価された。また独創的で優れた研究として著名な経済専門紙の記事に採り上げられたこともある。なおこれらの学術投稿論文には他に共著者がいるけれども実質的には論文提出者の成果である。

 以上要するに、論文提出者は、外国為替市場という国民経済的にも重要な影響がありかつ経済現象の複雑さでは典型的な市場を題材に選び、人工市場アプローチによる統合的なモデルを構築して、現実の複雑な経済現象の解明に大いに寄与した。

 よって本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる。

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