学位論文要旨



No 113172
著者(漢字) 斎藤,文修
著者(英字)
著者(カナ) サイトウ,フミノリ
標題(和) ポジトロニウムと各種気体分子の散乱における運動量移行断面積の測定
標題(洋) Measurement of Momentum-transfer Cross-sections for the Scattering of Positronium by Various Gas Molecules
報告番号 113172
報告番号 甲13172
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第170号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 櫻井,捷海
 東京大学 教授 小牧,研一
 東京大学 教授 山崎,泰規
 東京大学 助教授 和田,信雄
 東京大学 助教授 久我,隆弘
内容要旨

 ポジトロニウムは陽電子と電子が束縛状態にある水素状の原子である。

 最も質量の小さな原子であるとともに、ポジトロニウムと気体分子の散乱は、ポジトロニウムの質量中心と電荷中心が一致するために平均の静電相互作用が存在せず、交換相互作用の効果が大きいという他の中性原子分子の間の散乱にない特徴を持っている。

 本研究では、陽電子消滅2光子角相関法によりポジトロニウムの運動量分布の測定を行い、気体中におけるポジトロニウムの熱化の様子を調べた。測定はシリカ微粒子が3次元ネットワークをなしたシリカエアロゲルを用いて行った。シリカ微粒子中で生成したポジトロニウムは、シリカエアロゲル中の差し渡し約70nmの空隙で気体分子と衝突し消滅するので、効率よく角相関測定を行うことができる。

 H2、CH4、Ne、Ar、N2、C2H4、COについて測定を行った。

 オルソポジトロニウムの平均寿命は、磁場強度に依存して大きく変わる。磁場強度を変え複数の磁場での角相関測定を行って、異なる平均寿命のオルソポジトロニウムの運動量分布を求めた。

図1 2光子消滅したオルソポジトロニウムの角相関曲線,図2 ポジトロニウムの平均寿命と平均運動エネルギーの相関。2重丸はC2H4、黒丸はN2、菱形はCO、白丸はシリカエアロゲルを真空中に置いたときの変化を示す。

 得られた運動量分布からポジトロニウムの平均運動エネルギーと平均寿命の相関を得た。ポジトロニウムは気体分子との弾性散乱によって熱化して行くモデルによって、Boltzmann方程式から導いた式を測定結果にfittingし、ポジトロニウムと気体分子の運動量移行断面積を求めた。測定のエネルギー領域0.3eV以下では運動量移行断面積の値は一定として解析した。

 入射陽電子の気体分子との散乱によるポジトロニウム生成率は、Oreのモデルによって予測される。He、Ne、Arでは予測の範囲に納まるのに対し、Kr、Xeでは生成率は予測値より著しく小さい。生成したポジトロニウムが急速に消滅する過程が考えられているが、その機構については研究者の間で意見が一致していない。

 希ガスについて寿命測定、Xe、Krについては角相関測定を行い、ポジトロニウム生成率と熱化の関係を調べた。

審査要旨

 ポジトロニウムは陽電子と電子の束縛状態で、質量が電子の2倍の最も軽い「原子」である。このエキゾチックな原子をプローブとして金属の電子状態などの各種の物性の研究が行われている。本研究はポジトロニウムが2光子消滅にするときに放出される線の放出角度分布からポジトロニウムの運動量分布を知る、いわゆる陽電子消滅2光子角相関法を用いて、ポジトロニウムの熱化の過程を観測することにより、ポジトロニウム-気体分子散乱の運動量移行断面積を求めたものである。本研究は低エネルギーの中性原子の有効な検出器が存在しない低エネルギーでの原子分子衝突の分野に対しても重要な寄与をしている。

 本論文は4章から成る。第1章で本研究の意義と背景となる事項の説明、および測定手段の解説がされた後、第2章で測定の詳細とデータの解析が述べられ、第3章で結果に対する考察がされた後、第4章に結論がまとめて述べられている。

 本研究では、実際に陽電子消滅2光子角相関法を原子分子衝突実験の目的に使うことを可能にするために、いくつかの工夫がされている。第1は、陽電子からポジトロニウムが生成される媒体として、シリカエアロゲルというシリカ超微粒子集合体を利用することである。これによって、入射陽電子の約半数という高い効率で、微粒子間の広い空隙内にポジトロニウムが生成される点である。シリカエアロゲルの空隙は、すべて外気とつながっているので、そこに衝突気体分子を導入し、その間隙を衝突空間としている。第2は、平均寿命0.125nsで自己消滅するパラポジトロニウムからの線の角度相関から、ポジトロニウム生成直後の運動量分布(エネルギー分布)を知ることである。第3は、平均寿命142nsのオルソポジトロニウムは3光子にしか自己消滅しないので、そのままでは2光子角相関装置では検出出来ないが、これに磁場を掛けることで、オルソ・パラ状態のmixingを用いて2光子自己消滅を起こさせ、運動量分布(エネルギー分布)の測定を可能にしている点である。磁場の強度をかえることで平均寿命、すなわち、相互作用時間を変化させて、ポジトロニウムが気体分子と相互作用しながら熱平衡状態に近づく様子を高精度で刻々追跡する事が可能になり、ポジトロニウムと気体分子の散乱における運動量移行断面積を求めることができた。

 対象とした気体は、ネオン、水素、メタン、窒素、エチレン、一酸化炭素である。磁場は、気体分子の種類によって少し異なるが、0.16Tから1.7Tまで変化させ、これによって、オルソポジトロニウムの平均寿命が約2.6nsから88nsの間の広い範囲について、平均運動エネルギーを追跡している。ただし、2光子角相関法は、非常に狭い立体角内に放出された線2本を同時計測する手法であるため、検出効率が低く、根気を要する実験である。さらに、線源からの陽電子はその速度方向にスピン偏極しているため、磁場が正方向(陽電子の入射方向と平行な向き)、負方向(同じく反平行な向き)の両方の場合を測定して平均したデータを用いないと、オルソポジトロニウム成分を正確に分離できない。このため、本研究ではひとつのデータを得るのに普通の角相関実験の2倍の時間がかかる。この間、最低2、3ヶ月にわたって、磁場を安定に切り替えながら測定を続ける忍耐力が必要である実験である。特に、弱い磁場の実験では、オルソポジトロニウムが2光子消滅する確率も減少するので、それだけ余計に時間がかかっている。また、質量の大きな気体分子に対しても十分な精度の測定をするために、本研究では、3気圧で行うための特別な実験槽を作製して使用してる。特別な部分は、陽電子を外部から試料室に導入するためのBe薄膜を張った窓である。論文提出者は、この窓の設計に際して、陽電子を吸収しないようになるべく薄くする要求と、3気圧の実験に耐えられるようにすることのかねあいを慎重に検討し、Be薄膜の厚さと窓の直径を決定した。

 このようにして得られたポジトロニウムの運動量分布のデータから、平均エネルギーを計算し、ポジトロニウムは気体分子との弾性散乱によって熱化するとしてBoltzmann方程式から導いた式に当てはめて、ポジトロニウムと気体分子の運動量移行断面積の値を得た。その結果、次のような成果が得られた。

 (1)ポジトロニウムとネオン、メタン、窒素、エチレン、一酸化炭素の運動量移行断面積の信頼できる値を、初めて求めた。得られた値は、以下の通りである。

 Ne:(10±7)×10-16cm2、H2:(17±5)×10-16cm2

 CH4:(17±8)×10-16cm2、N2:(26±8)×10-16cm2

 C2H4:(23±7)×10-16cm2

 (2)測定した2原子分子、多原子分子気体中におけるポジトロニウムの熱化は弾性散乱によって行われ、非弾性散乱による熱化の効果はほとんどないことが確認した。

 (3)一酸化炭素中ではポジトロニウムは非弾性散乱によっても熱化し、その効果は弾性散乱による熱化の効果と同程度あることが分かった。これは、一酸化炭素分子が永久双極子モーメントを持つためであろうと推論した。

 審査委員会は、本研究において、忍耐力を要する困難な測定とその解析が十分注意深く行われ、結果に対すする考察もおおむね適切な方法でなされていると判断した。ポジトロニウムというエキゾティックな「原子」用いた研究であるとはいえ、他の方法では解析が不可能な1eV以下のエネルギー領域での原子分子どうしの相互作用の様子を明らかにした意義は大きい。なお、本研究は、指導教官他との共同研究であるが、論文提出者が主体となって実験計画の立案、実験、解析を行ったもので、論文提出者の寄与は大であると判断される。

 よって本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる。

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