審査要旨 | | 有機化合物は,通常絶縁体・非磁性体であると見なされてきたが,有機合成金属,有機強磁性体がそれぞれ発見され,有機分子集合体の物性研究は大きく進展した.それを受けて現在,複合的な物性をいかに制御するかの指針が求められている.その中にあって,多成分分子を種々の分子間相互作用により階層的に集合化させ,超分子構造体へ構築する上での方法論の確立に,期待が集まっている. 申請者は,本論文においてこの様な状況を踏まえ,導電性を示す電荷移動錯体を研究対象として取り上げ,その構成要素となるドナー分子に,三次元的造形を持たせることにより,「新しい超分子的集合様式をもつ電荷移動錯体やイオンラジカル塩を創出すること」を目標として掲げている.さらにそのイオンラジカル塩の示す物性において,「多成分系ならではの物性の動的制御の可能性」を追求している.以下にその概略を紹介する. 序章において申請者は,導電性錯体構築上で基本となるテトラチアフルバレン(TTF)骨格を超分子構造体の構成要素とすべく,2つのTTF分子を直交するように4本のアルキル鎖(エチレンジチオ鎖,またはトリメチレンジチオ鎖)で架橋した二量体型ドナー(交差シクロファンツインドナー,-CPTD(II),(III))を合成の対象として取り上げ,その意義について述べている.なお,この分子においては,2つのTTF部位の最高被占分子軌道(HOMO)の相互作用は弱く,ほぼ縮退したHOMOを持つ点が特徴的である. 第一章では,交差シクロファンツインドナーの合理的な合成法を,逆合成経路の考え方に基づいて提案している.さらに,自ら提起した合成経路に基づき,歪みのかかった複雑な構造を持つ分子の合成に成功した.申請者がこのように困難を伴う合成をやり遂げたことは,絶賛に値するといえよう. さらに合成した分子の酸化還元過程について,サイクリック・ボルタンメトリーの測定に基づき考察している.エチレンジチオ鎖で架橋した-CPTD(II)は,歪みのためにドナー性が欠如しているが,トリメチレンジチオ鎖で架橋した-CPTD(III)は,BEDT-TTFと同程度の酸化還元電位を有することを明らかにした.さらに,一電子四段階の酸化還元波が観測されたことにより,2つのドナー部位間に電子的な相互作用が存在すると結論づけている.この点は,以下に述べるイオンラジカル塩の物性を分子レベルで解釈する上で重要な知見といえよう. 第二章では,交差シクロファンツインドナーの分子構造を,X線結晶構造解析に基づいて,論述している.さらに,このドナー分子を用いて電荷移動錯体・イオンラジカル塩を調製した旨が述べられている.ここで特筆すべきは,このシクロファンツインドナーが,相方となるアクセプターや対イオンの形状と性質をあたかも認識するかのように,異なるシート構造を形成することを明らかにした点である.特に,球状の対イオンを用いたイオンラジカル塩の場合(例えば,-CPTD(III)・Br(TCE)2,TCE=1,1,2-トリクロロエタン)では,捻れくさび形分子がブロック状に積み重なり,空孔を形成し,この空孔内に対イオンと溶媒分子を包接した超分子構造体の形成が認められた. 第三章では,イオンラジカル塩の構造相転移に伴う結晶構造変化と,それに連動した物性変調について述べている.-CPTD(III)・Br(TCE)2のイオンラジカル塩の導電性は半導体的で,各ドナー分子あたり1個の不対電子を持つ常磁性体であるが,低温部で強磁性的な相互作用を示すことを見出した.この点は,ほぼ縮重しなHOMOをもつこのドナー分子の電子構造上の特色として重要である. 一方,この塩の磁化率の温度依存性を測定している際に,申請者は偶然のきっかけから,160Kで磁化率の値が大きく減少し,室温の値の半分に減少することを見出した.さらに,この転移が高温相と低温相の2つの安定相を有する一次の構造相転移で可逆的なヒステリシスが観測されることを明らかにした. この構造相転移に伴い,結晶構造がどの様に変化するのかは堪だ興味深い.注意深い実験により申請者は,低温相の単結晶の作成に成功し,相転移前後でのドナーの配列様式の変化について知見を得た.そして上記の物性変調の原因を,結晶構造変化に基づき合理的に理由付けている.この辺りの研究の展開は迫力に富んでおり,偶然見つかった特異な現象を多角的に追求し,その本質を解明したことは,申請者が研究者としての十分な資質を有していることを物語っている. 申請者は本論文を最終的にまとめるに当たり,この相転移が何によって引き起こされるのかに興味をもち,その起因について考察を行っている.その際,チャンネル内に包接された溶媒分子の強誘電的配列に着目し,溶媒の再配向が引き金となって相転移がおこる可能性を指摘している.この点はまだ実験的根拠は不十分であるものの,「包接溶媒が単に空間を埋めているだけではなく,相転移に際し能動的役割を果たしている」との指摘は,物性のスイッチングの一つの方法として,今後検討に値するものといえよう. 以上本論文は,従来の有機分子性集合体の物性研究に超分子構造化や物性の動的変換などの概念を導入した点で,新しい局面を切り拓くものとして高い評価を受けた. 以上のことから,審査委員会は本論文を博士(学術)の学位授与の対象として十分なものであると判定した. |