学位論文要旨



No 113173
著者(漢字) 田邉,順
著者(英字)
著者(カナ) タナベ,ジュン
標題(和) 交差シクロファン型ドナーを用いた導電性錯体の構造と物性
標題(洋) Structure and Physical Property of Lon-Radical Salts of cross-Cyclophane Type Donor
報告番号 113173
報告番号 甲13173
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第171号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 菅原,正
 東京大学 教授 鹿児島,誠一
 東京大学 教授 小林,啓二
 東京大学 助教授 阿波賀,邦夫
 東京大学 助教授 松下,信之
内容要旨 1.

 21世紀は分子集合体の化学の時代と言われている。その中にあって、有機分子の分子認識や自己集合化に基づく、超分子構造の形成は、最近のマテリアルサイエンスの最重要課題の一つとして位置づけられている。この間、多くの美しい超分子構造体が登場してきた。

 一方、有機化合物は、通常絶縁体・非磁性体であると見なされてきたが、ペリレン・臭素錯体で導電性が、p-ニトロフェニルニトロニルニトロキシドで強磁性体がそれぞれ発見された.それ以来、それぞれの物性的見地から研究が進められてきた。また、それぞれの物性を制御する指針も明らかにされつつある。

 この両者を結びつけるような研究は始まったばかりである。そのため、多成分分子が種々の分子間相互作用により構造体を構築した場合、その構造ならではの機能、物性を示す例は、まだ少ないのが現状である。本論文では、ドナー分子を用いて電荷移動錯体・イオンラジカル塩を調整する際に、種々のアクセプター・対イオンを認識して集合化することを見出し、特に、イオンラジカル塩において物性変調が観測されたことについて述べる。

2.交差シクロファン型ドナーの設計

 BEDT-TTFのイオンラジカル塩の良導体の組成は、通常2:1塩であり、その結晶構造は、ドナーが対となった構造を取っている。そのため、2つのドナー間の相互作用により混合原子化状態を取っていると考えられる。そこで、2つのドナーをアルキル鎖で架橋することにより、2つのドナー部位間の相互作用をアルキル鎖の長さにより制御することを考えた。ただし、BEDT-TTFの二量体には、2つの異性体を考えることが可能である。1つは、BEDT-TTFのイオンラジカル塩で見られた2つのドナーが互いに平行になった-型構造のモデル化合物(-CPTD(II))であり、もう一つの異性体は、2つのドナーが互いに交差した配向をもつ交差型のモデル化合物(-CPTD(II))である。

 著者は、特に後者の化合物に注目した。この型の配向を有するCT錯体・イオンラジカル塩が、これまでにあまり観測されていないことから、この様な配向にドナー分子を制御することは、構造上ばかりでなく物性的にも興味がある。そこで、2つのTTFが互いに直交する配向を取るように、4本のエチレンジチオ鎖あるいはトリメチレンジチオ鎖で固定した交差シクロファン型ドナー(-CPTD(II),-CPTD(III))を設計した。

 

2.交差シクロファン型ドナーの合成および性質

 交差シクロファン型ドナーの合成には、2つある異性体から、選択的に目的の交差シクロファン型ドナーのみを得る必要がある。そのため、以下に示す合成経路によって、合成した。この場合、-型構造のモデル化合物(-CPTD)が生成することなく、目的の交差型のモデル化合物、交差シクロファン型ドナー(-CPTD)のみを得ることが可能である。

 亜鉛錯体(Et4N)2[Zn(dmit)2](dmit=1,3-dithiole-2-thione-4,5-dithiolate)を出発原科に、2つある反応点の内、片方を保護した非対称dmit(4)を合成し、これにdmitを反応させ鎖状dmit三量体(5)を得た。脱保護の後、臭素化、チオカルボニル基をカルボニル基への変換を行い、鍵化合物である環状dmit四量体(3)を得た。最後に対角に位置するチオカルボニルもしくはカルボニルを、それぞれ分子内でカップリングすることにより、目的の交差シクロファン型ドナー(-CPTD)を得ることができた。

図表

 さらに、これらのドナーの中性結晶を得ることにも成功し、X線構造解析により、それぞれの分子構造を確認した。X線構造解析の結果から、エチレンジチオ鎖で架橋した-CPTD(II)は歪みのためにドナー部位が大きく湾曲し、ドナー性が乏しく減少していることがわかった。一方、中性の-CPTD(III)の形状は、四面体の直交する2つの稜を削ぎ落とした捻れくさび形の六面体で、各頂点に硫黄原子が張り出したところに特徴がある。

図表図表

 ドナーの分子内に2つある電子系間に電子的相互作用が存在するか否かは、ドナーの集合体の物性を議論する上で大きな意味を持つ。著者は、この点に関し、溶液中での酸化電位を、サイクリックボルタモグラムを用いて検討した。-CPTD(III)の酸化還元波は一電子四段階の酸化還元波を示し、2つのドナー部位間に相互作用があることが明らかになった。また-CPTD(III)はBEDT-TTF程度のドナー性を有することも分かった。

3.交差シクロファンツインドナーを用いた構造体形成

 この斬新な構造をもつドナー分子を、機能性を有する超分子構造体のビルディングブロックの一つとして位置付け、CT錯体やイオンラジカル塩を調整したところ、アクセプター・対イオンの形状と性質をあたかも認識しているかのように、ドナー分子がそれぞれ異なるシート構造を形成することを明らかにした。a)平板状のアクセプター分子とのCT錯体の場合は(例えば、-CPTD(III)・TCNQ)、ドナー分子が互いに反転し、side-by-sideに整列し、密に詰まったこの分子の形状ならではの特徴的な2次元シート構造を形成した。b)これに対して、球状の対イオンを用いたイオンラジカル塩の場合(例えば、-CPTD(III):Br:TCE=1:1:2,TCE=1,1,2-トリクロロエタン)、捻れたくさび形分子がブロック状に積み重なり、空孔を内包した三次元的構造体を構築し、この空孔内に対イオンと溶媒分子を包接する。

 さらに、このイオンラジカル塩は、以下のような特徴を持つことを明らかにした。

 1)直交するドナーの各頂点に位置する硫黄原子の分子間接触により、従来のET系ドナーでは実現不可能な互いに直交する導電パスを形成する。

 2)対イオンさらには溶媒分子を、上述の空孔チャンネルに包接しうるため、対イオン層に妨げられることなく、ドナー同士が三次元的相互作用を持つ。

図a)CT錯体中の-CPTD(III)の自己集合化構造と平らな形状のアクセプターにより形成された超分子構造体 b)イオンラジカル塩中の-CPTD(III)の自己集合化構造と空孔に包接した球状対イオンを含む超分子構造体
4.交差シクロファンツインドナーのイオンラジカル塩の構造変化とその物性変調

 -CPTD(III)・Br(TCE)2のイオンラジカル塩は、160Kで結晶構造が変化し、低温相では、磁化率の値が約半分になると共に、高温相の約10倍の伝導度を示す。

図表

 この構造相転移は可逆的であり、低温でのX線結晶構造解析を行い詳しく検討したところ、チャンネル中に包接された溶媒の配向が一斉に変化することが引き金となり、ドナー分子の位置がずれることにより引き起こされることが明かとなった。

5.まとめ

 結晶構造の変化による物性の大きな切り替えは、結晶中に組み込んだ内部スイッチにより、物性を切り替えたと見なすことができ、今後機能変換しうる超分子を考える上での重要なヒントになると思われる。

 本研究では、1)2つのドナー部位の配向が交差して固定された交差シクロファン型ドナーを合成し、このドナー分子が異方性の少ない分子であること。2)このドナー分子を用いた場合、アクセプター・対イオンの形状と性質を認識して集合化すること。3)対イオン・溶媒分子を包接した包接体結晶において、溶媒分子のダイナミックスにより、構造相転移が引き起こされ、物性に変調を与えることを見出した。

審査要旨

 有機化合物は,通常絶縁体・非磁性体であると見なされてきたが,有機合成金属,有機強磁性体がそれぞれ発見され,有機分子集合体の物性研究は大きく進展した.それを受けて現在,複合的な物性をいかに制御するかの指針が求められている.その中にあって,多成分分子を種々の分子間相互作用により階層的に集合化させ,超分子構造体へ構築する上での方法論の確立に,期待が集まっている.

 申請者は,本論文においてこの様な状況を踏まえ,導電性を示す電荷移動錯体を研究対象として取り上げ,その構成要素となるドナー分子に,三次元的造形を持たせることにより,「新しい超分子的集合様式をもつ電荷移動錯体やイオンラジカル塩を創出すること」を目標として掲げている.さらにそのイオンラジカル塩の示す物性において,「多成分系ならではの物性の動的制御の可能性」を追求している.以下にその概略を紹介する.

 序章において申請者は,導電性錯体構築上で基本となるテトラチアフルバレン(TTF)骨格を超分子構造体の構成要素とすべく,2つのTTF分子を直交するように4本のアルキル鎖(エチレンジチオ鎖,またはトリメチレンジチオ鎖)で架橋した二量体型ドナー(交差シクロファンツインドナー,-CPTD(II),(III))を合成の対象として取り上げ,その意義について述べている.なお,この分子においては,2つのTTF部位の最高被占分子軌道(HOMO)の相互作用は弱く,ほぼ縮退したHOMOを持つ点が特徴的である.

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 第一章では,交差シクロファンツインドナーの合理的な合成法を,逆合成経路の考え方に基づいて提案している.さらに,自ら提起した合成経路に基づき,歪みのかかった複雑な構造を持つ分子の合成に成功した.申請者がこのように困難を伴う合成をやり遂げたことは,絶賛に値するといえよう.

 さらに合成した分子の酸化還元過程について,サイクリック・ボルタンメトリーの測定に基づき考察している.エチレンジチオ鎖で架橋した-CPTD(II)は,歪みのためにドナー性が欠如しているが,トリメチレンジチオ鎖で架橋した-CPTD(III)は,BEDT-TTFと同程度の酸化還元電位を有することを明らかにした.さらに,一電子四段階の酸化還元波が観測されたことにより,2つのドナー部位間に電子的な相互作用が存在すると結論づけている.この点は,以下に述べるイオンラジカル塩の物性を分子レベルで解釈する上で重要な知見といえよう.

 第二章では,交差シクロファンツインドナーの分子構造を,X線結晶構造解析に基づいて,論述している.さらに,このドナー分子を用いて電荷移動錯体・イオンラジカル塩を調製した旨が述べられている.ここで特筆すべきは,このシクロファンツインドナーが,相方となるアクセプターや対イオンの形状と性質をあたかも認識するかのように,異なるシート構造を形成することを明らかにした点である.特に,球状の対イオンを用いたイオンラジカル塩の場合(例えば,-CPTD(III)・Br(TCE)2,TCE=1,1,2-トリクロロエタン)では,捻れくさび形分子がブロック状に積み重なり,空孔を形成し,この空孔内に対イオンと溶媒分子を包接した超分子構造体の形成が認められた.

 第三章では,イオンラジカル塩の構造相転移に伴う結晶構造変化と,それに連動した物性変調について述べている.-CPTD(III)・Br(TCE)2のイオンラジカル塩の導電性は半導体的で,各ドナー分子あたり1個の不対電子を持つ常磁性体であるが,低温部で強磁性的な相互作用を示すことを見出した.この点は,ほぼ縮重しなHOMOをもつこのドナー分子の電子構造上の特色として重要である.

 一方,この塩の磁化率の温度依存性を測定している際に,申請者は偶然のきっかけから,160Kで磁化率の値が大きく減少し,室温の値の半分に減少することを見出した.さらに,この転移が高温相と低温相の2つの安定相を有する一次の構造相転移で可逆的なヒステリシスが観測されることを明らかにした.

 この構造相転移に伴い,結晶構造がどの様に変化するのかは堪だ興味深い.注意深い実験により申請者は,低温相の単結晶の作成に成功し,相転移前後でのドナーの配列様式の変化について知見を得た.そして上記の物性変調の原因を,結晶構造変化に基づき合理的に理由付けている.この辺りの研究の展開は迫力に富んでおり,偶然見つかった特異な現象を多角的に追求し,その本質を解明したことは,申請者が研究者としての十分な資質を有していることを物語っている.

 申請者は本論文を最終的にまとめるに当たり,この相転移が何によって引き起こされるのかに興味をもち,その起因について考察を行っている.その際,チャンネル内に包接された溶媒分子の強誘電的配列に着目し,溶媒の再配向が引き金となって相転移がおこる可能性を指摘している.この点はまだ実験的根拠は不十分であるものの,「包接溶媒が単に空間を埋めているだけではなく,相転移に際し能動的役割を果たしている」との指摘は,物性のスイッチングの一つの方法として,今後検討に値するものといえよう.

 以上本論文は,従来の有機分子性集合体の物性研究に超分子構造化や物性の動的変換などの概念を導入した点で,新しい局面を切り拓くものとして高い評価を受けた.

 以上のことから,審査委員会は本論文を博士(学術)の学位授与の対象として十分なものであると判定した.

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