学位論文要旨



No 113175
著者(漢字) 溝口,麻雄
著者(英字) Mizoguchi,Asao
著者(カナ) ミゾグチ,アサオ
標題(和) Nacl分子を含む分子錯体のマイクロ波分光
標題(洋) Microwave Spectroscopy of the Complexes containing the Nacl Molecule
報告番号 113175
報告番号 甲13175
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第173号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 遠藤,泰樹
 東京大学 教授 山内,薫
 東京大学 教授 小島,憲道
 東京大学 助教授 永田,敬
 東京大学 助教授 染田,清彦
内容要旨

 多くの自然現象を理解するために必要となる基礎知識として分子自身の固有の性質と分子間相互作用が非常に重要である。分子自身の性質についてはこれまでに行われてきた分光学的研究により、多くの分子について詳細な情報が蓄積されてきた。一方、超音速自由噴流を用いた様々な高分解能分光法の発展に伴い、近年、分子錯体についての研究が飛躍的に進歩し、分子間相互作用や反応ダイナミクスについての詳細な議論がなされるようになってきた。しかし、イオン結合性の分子を含む分子錯体に関する分光学的な研究は未だに行われていない。そのような系であるNaCl-(H2O)nは、NaClの水への溶解過程ダイナミクスを知る上で非常に重要である。本研究は、NaClの水への溶解過程について分子レベルでの知見を得ることを目的として、次のようなNaClを含む2種類の分子錯体[1]Rg-NaCl(Rg=Ar,Kr)、および[2]NaCl-(H2O)n(n=1,2,3)のマイクロ波分光を行った。

 超音速ジェット中でレーザー蒸発により生成したNaClとキャリアガス内の気体試料(Ar,Kr,H2O)との衝突によりNaCl分子を含む分子錯体、[1]および[2]を得た。錯体の検出にはフーリエ変換マイクロ波分光器を用いた。

[1]Rg-NaCl(Rg=Ar,Kr)のマイクロ波分光

 この錯体はNaClに希ガスが配位したもので、極めて大きな双極子モーメントを持つ分子であるNaClが作る静電場の影響を見る上で最適の系であるといえる。

 Ar-NaCl錯体に対して5-22GHzの領域で測定を行った結果、直線分子のスペクトルパターンを示す回転線が観測された。帰属の確認は同位体種の測定によって行った。観測されたスペクトルは、NaおよびCl核の核四重極子相互作用による超微細分裂のため、非常に複雑な分裂を示した。これらの回転線に対して超微細分裂を考慮したハミルトニアンを用いて解析を行い、各同位体種について分子定数を精度良く決定した。

 同様に、Kr-NaClについて理論計算の予測に基づき、実験を行ったところ、4種の同位体種のスペクトルを観測する事ができた。この錯体も直線の最安定構造を持つことが明らかになった。得られたスペクトルの解析により、正確な分子定数を決定した。

 得られた回転定数を用いて、図1のようにRg-NaClのro構造及びKr-NaClのrs構造を決定した。また、Kr-NaCl錯体のro構造とs構造の比較から、これらの系では分子内振動の影響が小さいことが分かった。

 NaとClの核四重極子結合定数は錯体内でのNaClの変角振動による効果で平均化されるため、単体の値よりも同じ割合で小さくならなければならない。しかし、錯体形成に伴う結合定数の変化率はNaとClでは異なっていた。この原因を説明するために、簡単な電荷-誘起双極子相互作用モデルを用いた解析を行った結果、Naの結合定数にはNaClの双極子モーメントによって誘起されるRgの誘起双極子モーメントによる影響が存在することが明らかになった。しかし、定量的な説明をするためには、さらに電荷移動などの寄与を考慮する必要性が示唆された。

図1 Rg-NaClの分子構造NaClにはイオン半径、希ガスにはvdW半径を示す
[2]NaCl-(H2O)n(n=1,2,3)

 Weinsteinによって電解質の溶解過程における中間種として接触イオン対(Contact ion pair:CIP)、及び溶媒分離型イオン対(Solvent-separated ion pair)が重要な役割を果たすことが示唆された。それらの中間種の働きを明らかにするために、これまでに様々な計算手法を用いた研究が行われている。DangとSmithは分子動力学的な方法を用いてCIPにおけるNaCl間距離が2.7〜2.8Åであると見積もった。WoonとDunningは、非経験的分子軌道計算により、初期溶解モデルと考えられるNaCl-(H2O)n(n=1,2)錯体の最安定構造を決定した。彼らの結果は、共に配位する水分子の数の増加と共に、NaCl結合長が長くなることを示している。

 本研究では、実験的にNaCl-(H2O)nの最安定構造及び電荷分布の変化を知り、これからNaClの溶解現象の詳細を理解に寄与すること、およびWinsteinらの提唱した2つの中間種の実験的な検証を行うことを目的とした。

 6〜27GHzの領域に対してマイクロ波の周波数を掃引したところ、多数の回転線を観測することができた。観測された全てのスペクトルをNaCl-(H2O)n(n=1,2,3)の純回転遷移として帰属でき、それぞれ配位する水の数が1つのときは非対称コマ分子、2つのときはNaCl軸をC2軸とする非対称コマ分子、3つのときはNaCl軸をC3軸とする対称コマ分子であることを明らかにした。さらに、各錯体に対してその同位体種の測定を行い、帰属の確認をおこなった。観測されたスペクトルに対して適当なハミルトニアンを用いた解析を行い、分子定数を決定した。

 得られた回転定数を用いて、NaCl-(H2O)n(n=1,2,3)錯体の最安定構造をそれぞれ図2のように決定した。図2中に、NaClに対してそのイオン半径、及びH2Oに対してvdW半径を示した。図2から明らかなように、H2Oの配位数の増加と共に、NaCl間の距離が徐々に長くなることが明確に確認できた。この傾向はWoonらの分子軌道計算の結果とも一致するものであった。さらに、NaCl-(H2O)3錯体においては、Na及びClの電子雲の重なりがなくなり、Na、Clそれぞれの原子がH2Oと大きく相互作用していることが明らかになった。この結果は、MP2/6-311G**を用いて行った我々の理論計算とも良く一致している。また、NaCl-(H2O)3錯体におけるNaCl結合長は、Dangらによって予測されたCIPのNaCl間距離に近い値であった。

 決定されたNaおよびClの核四重極子結合定数の水の配位数に対する依存性は、NaおよびClの電荷分布が単体においてはNaClの結合軸方向に広がりを持ってるが、水との錯体形成に伴いNaCl軸とは垂直な方向へ、つまりH2Oの方へ電荷分布の広がりが変化することを示した。

図2 NaCl-(H2O)nの分子構造NaCl-(H2O)n(n=2,3)については、錯体内にある1つのH2O分子を含む部分のみを示した。数字は結合長、結合角を表わす。カッコ内の数字は1である。NaClにはイオン半径、希ガスにはvdW半径を描いた。
審査要旨

 NaClの様なイオン結合した物質が水に溶解し、Na+とCl-にイオン解離していく過程を分子レベルで理解することは、化学の基本的な問題の一つである。この問題に対して、古くから様々なモデルが提案されてきている。特に近年は、電子計算機の発達に伴い、様々なモデルのもとでのシミュレーションや、NaClと水分子の分子間相互作用の非経験的分子軌道計算などが行われている。しかしながら、このような理論的なアプローチを検証する実験的データは限られていた。本研究において、論文提出者は超音速分子線の方法に着目し、NaCl-(H2O)nクラスターの高分解能分光を行い、この問題を解明しようと試みた。

 論文は全部で3章から成っており、第1章でこのようなイオン解離がどのように理解されてきているか、特に最近の理論計算でどのようなことが予測されているかを概観している。更にこのような理論的なアプローチに対して、分光学的手法でどのような貢献が可能であるかを論じ、適用する実験的手法を説明している。本研究で用いられた手法の要点は、孤立したNaCl分子を超音速ビーム中に効率的に生成するために用いたレーザー蒸発法と、生成したNaCl-(H2O)nクラスターの検出に用いたフーリエ変換マイクロ波分光法である。

 第2章は、レーザー蒸発法によりNaCl分子の超音速ビームを効率的に生成することができ、NaClを含む分子錯体の生成と分光が可能であることを検証するための予備実験として行った、希ガス-NaCl錯体の分光結果について論じている。これらの錯体の結果は、単に予備実験としての意味だけではなく、孤立したNaCl分子が非常に大きな双極子モーメントを持つ特異な分子であるために、錯体形成による大きな誘起効果が存在することが見出され、それ自身重要な研究成果である。これまでに様々な分子錯体の分光が行われ、錯体の安定構造や、分子間ポテンシャルの決定が行われているが、錯体形成により、分子自体に検出可能な誘起効果が見出された例は極めて限られている。本研究では、Na核とCl核の核四重極子相互作用定数に大きな誘起効果を見出し、更にこれを説明すべく、NaClの大きな双極子モーメントが希ガス分子に誘起双極子を生じ、それがNaClの電子軌道に摂動を与えるというモデルをたて、観測された誘起効果の説明を行った。

 第3章では、第2章で述べた実験の結果を受け、NaCl-(H2O)nクラスターの分光について述べている。本研究では、配位した水分子の数nとして最終的に1から3までの錯体について結果を得た。特に、水分子が1個配位する場合、どのような構造が最も安定であるかに関しては、これまで様々な説が出されていたが、本研究ではNaに水分子の酸素原子が配位すると共に、Clに水素原子の一つが配位した、ブリッジ型の構造をとることが明らかにされた。これは、最近の高精度の非経験的分子軌道計算の結果とも一致している。更に、1配位の錯体に関しては、様々な同位体置換種の分光も行い、精密な構造を導き出し、既報の理論計算と比較すると共に自らも高精度の理論計算を行い、実験結果と比較した。この結果、水分子が配位することにより、NaClの結合距離が実験誤差を超えて伸びていることが確認された。

 更に、水分子が2個、3個と配位したクラスターの分光では、それぞれ2番目、3番目の水分子は、同様のブリッジ構造を維持したままNsClを中心に2、3回対称の位置に配位していることを確認した。1配位の錯体の構造をもとに、分子軌道計算の結果などを参照することにより、これらの錯体の構造決定を行った。特に重要な結論は、配位する水分子の数が増すことにより、NaCl結合距離が顕著に伸びており、3配位の錯体ではNaClの溶解のモデル計算で予測されていた、接触イオン対のNaCl結合長にまでに至っていることが確認されたことである。実際の水溶液中にははるかに多くの水分子が存在しているが、3個程度の水分子が配位するだけで、これだけの効果が存在することを実験的に確認できたことは、今後の溶解過程の理解に大きな寄与をするものである。

 また、これらの系においても希ガスとの錯体同様、Na核とCl核の超微細定数にに大きな誘起効果が見出されており、モデル計算、非経験的分子軌道計算により説明を行っている。特にCl核に水の水素原子が配位することによる効果が大きく、これらの間の分子間相互作用が、NaClの溶解の鍵を握っていることが示唆されている。

 以上、本論文はNaCl分子に希ガスおよび水分子の配位した錯体の高分解能分光を行い、イオン結合性の分子の溶解過程に迫る研究を行ったもので、その意義は大きい。本論文中の研究はすべて論文提出者が中心となって行ったもので、2、3章の内容はそれぞれ論文提出者本人を筆頭著者として学術誌に公表準備中である。よって審査員全員は、論文提出者が博士(学術)の学位を授与されるにふさわしいと認定した。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54613