近年、基板上に有機分子を自己集合化させた有機二次元結晶系における構造制御や、その構造体形成過程におけるナノメートル領域での分子の動的挙動などに注目が集まっている。また、この二次元結晶の構造は三次元結晶の場合とは異なり、分子間相互作用に加えて基板-分子相互作用によって支配されていることから、有機結晶とは異なった配向を実現しうる点でも興味深い。本論文では、この有機二次元結晶系を有機固相反応場のモデルケースとしてとらえ、最近開発された走査型トンネル顕微鏡(STM)を用いて、その集合形態の動的変化および集合体中での反応の協同現象を直接観察することを目標として掲げている。この系を実現するために、申請者は以下の2つの課題を提起し、それぞれに対して実験的なアプローチを行っている。 1) 化学反応性を有する分子をいかにして集合化させ、STMによる直接観察可能な二次元結晶系を構築するか。 2) この二次元結晶内において、化学反応も含めた分子のダイナミックスをどのように実現させるか。 第一章は緒論であり、測定手法としてのSTMの利点、その測定原理と装置について簡単に解説が行われている。その後に、本研究の観察対象としてトポケミカルな固相重合反応性を示すジアセチレン誘導体を取り上げることの意義について述べられている。 第二章においては、第一の課題を実現すべく、基板上に安定な有機二次元結晶を作成し、この結晶内でジアセチレン部位を重合反応に適した配向に配列させるにはどのような置換基をジアセチレン誘導体に導入すべきかの分子設計について論述されている。検討の結果、基板と強い相互作用を有するアルキル鎖をジアセチレン部位の両端に組み込んだDA-10/9が対象分子として選ばれ、合成が行われた。 さらに、高配向グラファイトを基板として用いることにより、DA-10/9の二次元結晶の原子分解能のSTM像を得ることに成功した。このように自らの分子設計指針をもとに対象化合物を探索し、最新の手法を用いて様々な測定条件をねばり強く検討し、現時点で世界的にも最高といえる分解能の像を得た点は高く評価される。次いで、このSTM像をもとに二次元結晶の構造評価が行われ、ジアセチレン部位が重合反応可能と考えられる配向に集合化していることが明らかにされた。また、この二次元結晶における分子配向が、現在までに報告されている脂肪酸誘導体の結晶内での分子配向性とは異なる点が指摘されている。 第三章においては、このジアセチレン誘導体の二次元結晶における配向性を支配する要因を明らかにすることの必要性が提起されている。この要因を検討すべく、DA-10/9のジアセチレン部位両端のそれぞれのアルキル鎖長を系統的に変えたDA-m/n(m=9,8,6,4;n=9,4)が合成され、それぞれに対して基板上の二次元結晶のSTM像が得られた。 これら一連の誘導体に対するSTM像の評価・検討より、この二次元結晶の配向性は、ジアセチレン部位の集積化、およびそれぞれのアルキル鎖長のバランスによって支配されていることが結論付けられた。 第二、三章を通じて第一の課題についてはほぼ満足できる結果が得られたことをふまえ、第四章では、第二の課題を実現すべく検討が行われた。まず、この二次元結晶中で重合反応を実現するためには、反応の前後でジアセチレン部位周辺に引き起こされる配向変化が、結晶内において吸収される必要がある。そこで、ジアセチレン部位が反応に適した配向を保ちつつも、その配向変化を可能にしうる置換基としてエステル基が選ばれた。即ち、ここで提案されたモデル化合物DADE-17においては、ジアセチレン部位に隣接してエステル基が導入されている。 このDADE-17に対して、基板上の二次元結晶のSTM像が得られ、その構造評価が行われた。二次元結晶内において、様々な大きさ・配向を有するドメインが観測されており、これらのドメイン内の構造はDADE-17の積層様式の違いによって大きく二つに分類しうることが明らかにされた。さらに、それらの存在比が時間変化する様子、即ち、一方のドメインが成長し、他方が消滅する過程を直接観測することに成功している。これは、集合体の配向の変化を実空間で直接捕らえうることを示しており、STMの有効性を雄弁に示した結果といえる。特に、DADE-17の分子集合体が集団的再配列する様子が連続したSTM像とともに解説されている箇所は迫力に富み、今後の分子集合体の動力学研究に対する一つの方向性を示すものとして、審査委員に感銘を与えた。 このDADE-17の二次元結晶の安定相においても、ジアセチレン部位は反応に適した配向を取っていることが、そのSTM像の評価から明らかにされている。この安定相を注意深く観測する過程において、未反応領域にあるジアセチレン分子とは異なったSTM像が得られた。そして、このSTM像が重合反応後のポリジアセチレンを観察している可能性があることが指摘されている。この点については、今後さらに慎重な検討を行う必要があると考えられるが、当初の目標に対し、十分な成果をおさめたといえよう。 本研究は、現在までにSTMを用いた有機分子の直接観察が可能な系として知られていた有機二次元結晶系の持つ固相反応場としての可能性に着目し、ジアセチレン誘導体を観察対象として、目的とする系の構築に挑んだ極めて独創性の高いものである。さらにSTMを用いて単に有機分子像を得るだけにとどまらず、化学反応も含んだ有機分子のダイナミックスやマクロな集合形態の動的平衡に関する知見をも得ている点は注目に値する。これらは、いずれも申請者の注意深い実験と洞察力に富んだ像の解釈による点が大であり、審査委員に高く評価された。本研究を通じて開拓された戦略・手法は、集合体中における有機分子の置かれた環境、ダイナミックス、反応性などの相関を明らかにするための研究における一つの方向性を切り拓いたものである。 以上の点から鑑み、審査委員会は本論文を博士(学術)の学位授与の対象として、十分なものであると判定した。 |