学位論文要旨



No 113178
著者(漢字) 山口,明
著者(英字)
著者(カナ) ヤマグチ,アキラ
標題(和) ニトロニルニトロキシド結晶における磁気的相互作用
標題(洋) Magnetic Interactions in Nitronyl Nitroxide Crystals
報告番号 113178
報告番号 甲13178
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第176号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 阿波賀,邦夫
 東京大学 教授 菅原,正
 東京大学 教授 小島,憲道
 東京大学 助教授 錦織,紳一
 東京大学 助教授 和田,信雄
内容要旨 1.序論

 有機ラジカルや遷移金属錯体をスピン源とする「分子性磁性体」は、従来の金属や金属酸化物の磁性体とは異なる特異な特性の発現を目指して研究されてきた。なかでも、世界初の純有機強磁性体p-NPNNに代表されるニトロニルニトロキシドラジカルは、強磁性的分子間相互作用に有利な電子状態を有することから、有機強磁性体研究の中心的役割を果たしてきた。様々の誘導体が存在するが、位をアルキルピリジニウムで置換したm-or p-R-PYNN+は陽イオン分子であり、様々の陰イオンと組み合わせることで、多彩な構造と磁性を与える。筆者らは既に、p-R-PYNN+・I-でN-アルキル鎖炭素数1から4のもの(R=Methyl,Ethyl,n-Propyl,n-Butyl)を作り、アルキル鎖の延長とともに結晶内の分子間相互作用が反強磁性的から強磁性的に反転するという報告をし、反強磁性的な分子間配置(TypeI)と強磁性的な分子間配置(TypeII)をそれぞれ抽出することに成功している(図1)。

図1

 本研究は、カチオンラジカルm-or p-R-PYNN+および配位部位を有する中性ニトロニルニトロキシドラジカルを用いて、特異な物性を有する磁性体の探索およびその物性解明を目的として行なった。ニトロニルニトロキシド結晶内に働く磁気的相互作用を検証したのち、低次元系のスピンフラストレーション、d-電子系における相互作用、原子価平衡(Valence Tautomerism)を示す錯体をニトロキシドスピンによってプローブする研究に展開した。

2.p-R-PYNN+・X-における反強磁性および強磁性的分子間相互作用の研究

 p-MPYNN+・I-は、非常に強い反強磁性的相互作用を示す。対イオンをヨウ化物イオンから、臭化物、塩化物イオンへと変化させ、強い相互作用の原因を調べた。

 結晶構造を調べたところ、ヨウ化物塩、臭化物塩は、同型で、NO基どうしに非常に大きな重なりをもつTypeIの配置の2量体が見られるのに対して、塩化物イオンは、TypeIの配置はもつものの、NO基間の重なりは小さく、ネットワークは2次元的にひろがっていた。磁化率の温度変化測定(図2)を行なったところ、ヨウ化物塩、臭化物塩の磁化率は2量体モデルで説明される。臭化物塩での相互作用の増加は、2量体内の最近接距離が臭化物塩で縮んだことで説明された。これに対し、塩化物塩では、その相互作用ははるかに弱まり、その温度依存性も構造に対応して、2次元の正方格子モデルで説明された。強い反強磁性相互作用は2量体構造に由来していることが結論された。

図2 p-MPYNN+・X-の磁化率

 p-BPYNN+・I-では、3Kまで強磁性的挙動を示すことが知られ、TypeII配置の一次元鎖に基づく解析からJ/kB=0.6Kを報告している。低温の磁気挙動に興味を持ち。極低温領域の物性測定を行なったところ、0.19Kに極大をもつ磁化率の急激な増大がみられた(図3)。比熱測定での型のピーク(図4)および転移エントルピーの計算から強磁性転移が結論された。エントロピーの温度変化などから、3次元的な強磁性相互作用が示唆された。結晶構造を再検討したところ、一次元鎖間にラジカル部位(NO基)とニトロキシドのメチル基の間に接触が見られた。この接触を通した強磁性的相互作用により3次元的な強磁性ネットワークが実現すると考えられる。

図3 p-BPYNN+・I-の交流磁化率図4 p-BPYNN+・I-の比熱
3.有機カゴメ反強磁性体、m-R-PYNN+・X-の研究:化学修飾による手法

 m-MPYNN+・X-・1/3(acetone)(X-=I-,BF4-,ClO4-)は2次元の三角格子構造を持ち(図5)、その磁気構造は、m-MPYNN+が作る二量体内の10K程度の強磁性的相互作用J1と二量体が作る三角格子中で働く反強磁性的相互作用J2で表せる。そして低温ではS=1のスピンフラストレーションをもつ反強磁性カゴメ格子と見なすことができる。2次元スピンフラストレーション系は、特異な基底状態が予想され、物性物理の分野のトピックスである。

図5 m-MPYNN+・X-・1/3(acetone)の結晶構造

 N-アルキル鎖の炭素数を1から4まで変化させたもの(m-R-PYNN+・I-,R=Methyl,Ethyl,n-Propyl,n-Butyl)を作成し、磁性、構造に及ぶ効果について調べた。結晶構造解析により、m-MPYNN+・I-,m-EPYNN+・I-,m-PPYNN+・I-ではカゴメ格子型の構造をとることがわかった。ただし、m-EPYNN+・I-,m-PPYNN+・I-は単斜晶系であり、結晶学的には、歪んだカゴメ格子というべきものである。これに対しm-BPYNN+・I-は全く違う構造をとる。格子の歪みがフラストレーションに与える影響は大きいと考えられる。そこで、極低温領域における比熱、磁性を比較した。図6に、磁気比熱の温度依存性を示す。カゴメ状格子をとる誘導体では、10K程度付近にショットキー型のピークが見られた。これは、ラジカル分子が作るダイマー内の強磁性的相互作用J1に起因するものと考えられる。また、それぞれ、1.8K、1.5K、0.61Kに極大をもつ2番目のピークが見られるが、これは、ダイマー間の相互作用J2による短距離秩序形成によるものと考えられる。3K以上の静磁化率をJ1-J2モデルで解析したところ、J2の値は、-1.6K、-1.7K、-1.0Kと得られ、比熱の極大の位置とほぼ一致した。カゴメ格子(m-MPYNN+・I-)と、歪んだカゴメ格子(m-EPYNN+・I-,m-PPYNN+・I-)の違いは、J2によるショットキー型のピークのより低温部分で観測された。m-EPYNN-・I-,m-PPYNN+・I-では極大を持った後、比熱は緩やかに減少するのに対し、m-MPYNN+・I-においてのみ、0.06Kから0.4Kの間になだらかな肩を持つことがわかった。極低温領域での比熱の残留は、スピンギャップ状態を持つ系としてすでに報告しているm-MPYNN+・BF4-でも見られている。交流磁化率の測定では、m-MPYNN+・I-でのみ、磁化率の増加がおさえられ、スピンギャップ状態と格子欠陥を仮定したモデルで説明された。これに対し、歪んだカゴメ格子をとるm-EPYNN+・I-,m-PPYNN+・I-では、スピンギャップ状態は、完全に解消された。これらのことから、極低温で観測されたスピンギャップ状態は、スピンフラストレーションに由来するものであり、格子のわずかな歪みによって劇的に影響を受けるということが結論された。

図6 m-R-PYNN+・I-の磁気比熱

 また、m-MPYNN+・(A-)y・(A’-)1-y・1/3(acetone)の固溶体の系では、アニオンの割合yを変化させることで、J1J2の比を連続的に制御できることを示した。

4.金属アニオンを含むm-or p-R-PYNN+塩の磁性

 対陰イオンに遷移金属を含む磁性イオンを導入し、有機ラジカルと遷移金属錯体間の相互作用を研究した。四面体型のMCl42-を用いて、(p-or m-MPYNN+)2・MCl42-(M=Co,Mn)を作成し、磁性と構造を検討した。その結果、p-誘導体では、CoとMn塩は全く同型の構造であるにもかかわらず、p-MPYNN+との相互作用は、それぞれ強磁性的、反強磁性的であることがわかった(図7)。これは、p-MPYNN+とMCl42-の間の電荷移動励起状態を考えた場合、Co塩では安定な高スピン状態が考えられるのに、Mn塩では低スピン状態しか許されないためだと説明できた。遷移金属イオンとの磁気的相互作用を考える場合には、分子間配置とともに、金属イオンの電子状態も重要な因子であることを示した(図8)。

 また、平面型アニオン[Fe(tdas)2]-との塩、m-or p-R-PYNN+・[Fe(tdas)2]-(R=Methyl,Ethyl)を作成した。磁化率の温度依存性は、m-R-PYNN+・[Fe(tdas)2]-でm-MPYNN+がニトロニルニトロキシドに直接配位した構造、m-R-PYNN+・[Fe(tdas)2]-では[Fe(tdas)2]-が強く2量化した構造を仮定すると説明できる。

図7(p-MPYNN+)2・MCl42-の磁化率図8(p-MPYNN+)2・MCl42-での電荷移動励起状態
5.ニトロニルニトロキシドでプローブしたコバルトーキノン錯体のValence Tautomerism

 金属錯体の電子状態がニトロニルニトロキシドとの磁気的相互作用に強く影響することにヒントを得て、2価と3価の間で原子価平衡を示すコバルト・キノン錯体にニトロニルニトロキシドをプローブとして配位させた錯体Co(nnbpy)(3,5-DTBSQ)2(図9)を作成した。磁化率測定により、330K付近でコバルトの原子価平衡(VT)が存在すること、ニトロニルニトロキシドに働く交換相互作用は小さいことがわかった。ESRスペクトルの温度変化を測定したところ、錯体中に存在するセミキノンラジカルとニトロキシドラジカルで、線幅の温度依存性が異なることがわかった。この違いは、両者の環境の違いに由来し、コバルトイオンに直接配位したセミキノンラジカルには強い交換相互作用によって線幅が決まっているのに対し、ビピリジン部位を介してコバルトイオンと相互作用しているニトロニルニトロキシドは、主にdipole相互作用によって線幅のプロードニングが起こることがほぼ定量的に理解できた。

図9Co(nnbpy)(3,5-DTBSQ)2
6.結論

 カチオンラジカルm-or p-R-PYNN+が有する化学修飾の多様性(N-アルキル鎖置換、アニオン交換)を利用して、周辺物質開拓を行ない、多彩な構造、磁性現象を研究することができた。カゴメ反強磁性体の系では、極低温領域におけるスピンギャップ状態の観測、および、そのギャップ状態が格子のわずかな歪みに強く影響されるという興味深い現象を見いだした。2次元スピン系のスピンギャップ状態は、一次元系に比べて報告例も少なく、理論面、実験面からの展開が期待される。d電子を含む系では、相互作用が電子状態に強く依存するという結果が得られ、電子状態制御による磁気的相互作用のスイッチという概念を得た。VT錯体をニトロニルニトロキシドでプローブした錯体では、ESR測定により、固体中の遷移金属錯体の電子状態をニトロキシドを通して、感知できた。

審査要旨

 有機ラジカル、ニトロニルニトロキシドは、強磁性的分子間相互作用に有利な電子状態を有することから、有機強磁性体研究の中心的役割を果たしてきた。論文提出者は、ニトロニルニトロキシドの位をN-アルキルピリジニウムで置換した陽イオンラジカルR-PYNN+や、ビピリジル配位部位を有する中性ニトロニルニトロキシドnnbpyに着目し、これらが多彩な分子間化合物や錯体をつくることを利用して、この系のラジカルの分子間相互作用に対して基本的な理解を深めるとともに、いくつかの新規スピン系の構築に成功した。以下に具体的な評価項目を示す。

(1)ニトロニルニトロキサイド結晶中における構造と磁気特性の相関。

 R-PYNN+(R=methyl,ethyl,propyl,butyl)のパラ誘導体のヨウ化物イオン塩を合成し、構造と磁性の相関を調べた。その結果、強磁性的相互作用を与える分子間配置と反強磁性的相互作用を与える分子間配置をそれぞれ特定することに成功した。現在では、有機ラジカルの磁気特性が分子間配置に由来することは誰も疑わないが、その決定的な証拠を与えた研究と認知されている。さらに極低温における磁気測定を行い、有機ラジカルも磁気的秩序状態を形成することを明らかにしている。

(2)有機カゴメ反強磁性体の研究。

 R-PYNN+のメターメチル誘導体であるm-MPYNN+がつくるカゴメ格子反強磁性体について、物理化学的な研究を行なった。メチル基を伸長した化合物を合成し、その結晶中に歪んだカゴメ格子の存在を明らかにした。スピンフラストレーションの研究において、僅かに歪んだ格子上の研究が可能になったのはこれが初めての例である。さらに極低温域の磁気測定と熱測定を行い、それまで基底状態と考えられていたスピンギャップ状態が、その格子のわずかな歪みによって簡単に消失してしまうことを見いだした。2次元スピン系のスピンギャップ状態の研究例は、1次元系に比べて極端に少ないこともあり、理論と実験の両面からの関心を集めている。分子修飾を通じてフラストレートしたスピン格子に微妙な変調を与えるという手法はまったくユニークなものであり、高く評価された。

(3)R-PYNN+塩中の磁気的d-相互作用の研究。

 R-PYNN+の対陰イオンにハロゲン化遷移金属イオン、MCl42-(M=Co,Mn)を導入し、有機ラジカルと遷移金属錯体間の磁気的相互作用を研究した。全く同形の結晶構造でありながら、中心金属イオンの違いによりこの磁気的相互作用が正反対となることを見いだし、電荷移動理論により的確な解釈を与えている。この実験事実をもとに、金属イオンの電子状態制御による磁気的相互作用のスイッチというアイデアを提出した。有機物と無機物との間のd-相互作用の研究の重要性が盛んに提唱されている中にあり、局在スピン間の相互作用とはいえ、具体的な実例を示した点が特に評価された。

(4)ニトロニルニトロキシドでプローブした原子価平衡の研究。

 ニトロニルニトロキシドにジピリジル配位部位を導入した化合物nnbpyを合成し、2価と3価の間で原子価平衡を示すコバルト・キノン錯体にスピンブローブとして配位させた。得られた錯体のESR測定を行い、遷移金属錯体の電子状態をニトロキシドによりモニターすることにより、コバルト・キノン間の強い交換相互作用を結論した。生体内反応として関心を集めている系に対して知見を与えたことに加え、ニトロニルニトロキシドのスピンプローブとしての活用に道を開いた点が評価された。

 ニトロニルニトロキサイドの研究は多方面で行われているが、この系の分子間化合物の作成を出発点として、物質の多様性のなかから、有機ラジカルの分子間相互作用に対して基本的な理解を深める知見を得たとともに、いくつかの新規スピン系、そしてそれに附随する新しい物性の構築に成功した。よって本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク