学位論文要旨



No 113182
著者(漢字) 楊,愛萍
著者(英字)
著者(カナ) ヤン,アイピン
標題(和) オリゴチォフェンの定常および時間分解スペクトル
標題(洋) Stationary and time-resolved spectroscopies of several -oligothiophenes
報告番号 113182
報告番号 甲13182
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3328号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 山本,智
 東京大学 助教授 常行,真司
 東京大学 助教授 末元,徹
 東京大学 教授 宮野,健次郎
 東京大学 助教授 岡本,裕巳
内容要旨

 近年、有機分子の一次元共役高分子で高効率発光現象が発見された。本研究では、有機分子の構造と発光機能の関係を解明するため、その原形としてオリゴチォフェンを取り上げ、定常およびフェムト秒時間分解発光分光の実験を行った。溶液状態と結晶薄膜状態の定常吸収・励起スペクトル・発光スペクトルを測定して、輻射結合過程の、分子サイズ・溶液粘性・温度依存性を調べて、オリゴチォフェン分子の発光ダイナミクスを解明した。

A.フェムト秒時間分解発光分光装置の開発

 発光寿命測定に用いたフェムト秒時間分解発光分光装置(up-conversion system)を開発した。励起光源には、フェムト秒モード同期チタンサファイアレーザーの基本波(繰り返し周波数100MHz、波長800-810nm)と、その第二高調波(400-410nm)を用いた。励起強度は3mW程度であり、装置の時間分解能は250fs程度である。

 測定に用いた試料は、オリゴチォフェンTn(nはチオフェン環の数で、3,4,5,6)のCH2Cl2溶液(濃度=1×10-4mol/dm3)と真空蒸着法で作成された結晶薄膜(膜厚0.1-0.6m)である。

B.溶液状態の定常スペクトルおよび時間分解発光分光

 1.T3,T4,T5,T6のCH2Cl2溶液の定常吸収・発光スペクトルから、主鎖が長くなるに従い、スペクトルのピークが低エネルギー側にシフトしていることが観測された。このことから、主鎖が長くなると、電子共役系が広がることが示唆された。発光スペクトルには、吸収スペクトルと異なり、二つ・三つのピークを示す特徴があった。吸収スペクトルと発光スペクトルの形が異なることから、励起状態の共役主鎖の幾何構造が変化すると考えられる。吸収スペクトルには、二次微分係数の負のピークが三つ・四つ見られ、分子主鎖振動構造を示唆していると考えられる。最低エネルギーピークはS1←S00-0電子遷移に対応すると考えられている(表1)。実験結果から、S1←S00-0遷移エネルギーは、オリゴチォフェンの二重結合の数DBを用いてEa0-0(eV)=6.81/DB+2.02と与えられる。polythiopheneとbithiopheneについて、この式から得られる遷移エネルギーはそれぞれ2.02,2.72eVであり、この結果はintensity ratio methodで得られる結果(2.722eV)と一致する。

 2.T3,T4,T5,T6の溶液状態での発光減衰を測定した(Fig.1)。結果には二つの減衰成分が見られ、いずれも主鎖が長い方が寿命が長いことが分かった。T3,T4,T5,T6の短い方の減衰時間定数はそれぞれ16ps,36ps,70ps,160ps程度で、長い方の減衰時間定数は170ps,390ps,610ps,880ps程度である(表1)。発光の高エネルギー側から低エネルギー側まで、数点について測定したところ、発光減衰成分の顕著な発光エネルギー依存性は見いだされなかった。遅い減衰成分は、S1→S0輻射減衰によるものと考えられる。また、この成分には、励起光偏光・溶液粘性依存性も見られなかった。

Fig.1.Fluorescence decay curves ofT3, T4, T5, and T6 in dichloromethane at 288 K.表1:Ea0-0はS1←S00-0遷移エネルギー。PLはS1→S0輻射過程の時定数。Orexp,Orslipは回転拡散時間定数の実験値とHydrodynamic Slip Modelによる理論値。

 3.ただし、速い減衰成分には、著しい励起光偏光・溶液粘性依存性が観測された。溶液粘度を高めると、この成分は見られなくなる。励起光偏光と発光偏光を直交させると、遅い立ち上がり成分が観測された。したがって、速い減衰成分は分子の回転拡散であることが分かった。T3,T4,T5のCH2Cl2溶液の常温での回転拡散時間定数は、それぞれ18ps,40ps,80ps程度である。この実験から得られる分子の回転拡散時間定数はhydrodynamic slip modelによる計算結果と一致している(表1)。一方、発光双極子モーメントの配向は、分子の長軸方向であることが分かった。さらに、発光異方性を測定したところ、吸収双極子モーメントの配向と発光双極子モーメントの配向が異なることを示唆した。

C.結晶薄膜の定常スペクトルおよび時間分解発光分光

 1.オリゴチォフェンT4,T5,T6結晶薄膜の定常吸収スペクトルの溶液との違いは、振動構造を示すこと、H-会合体のために吸収が高エネルギー側にシフトすること、低エネルギー側に裾が広がっていることがあげられる。また、低温(4.2K)における励起スペクトルから、低エネルギー側に新たな発光成分があることが明らかになった。それらの新たな発光成分に対応する吸収ピークは、微結晶境界付近の無秩序領域の分子による吸収ピークに対して、0.06-0.4eV程度低エネルギー側にシフトしている。

 2.T4,T5,T6について、温度を変えて発光スペクトルを測定した。温度を295Kから4.2Kに下げたとき、スペクトルの強度積分は、T5,T6については7-10倍になったのに対し、T4については1.4倍にしかならなかった。発光スペクトルの、それぞれのピークの位置で、発光強度の温度依存性を測定すると、依存性の類似性から、幾つかのグループに分けられる。各グループに属するピークのエネルギーは、分子振動エネルギーに相当するエネルギー差を持つことが分かった。T4については、発光スペクトルの励起光エネルギー依存性も測定した。励起光エネルギーが2.53eV以下の時、発光スペクトルは励起光エネルギー依存性を示すことが分かった。そのことから、分子は、場所によってエネルギー的に異なる幾つかの状態をとっていると考えられる。それら、幾つかの状態として考えられるのは、微結晶境界付近の無秩序領域の分子、会合体状態、格子欠損、そして会合体状態にまでは至らない小数個の会合(二量体、三量体など)である。

 3.T4,T5,T6の発光寿命の発光波長依存性を調べた。主発光バンドでの波長依存性は、T5,T6では見られないのに対し、T4では著しい(Fig.2)。T4について、発光波長による減衰の違いと、その由来を考察した。2.51eVでは指数関数では表されないような減衰があり、無秩序領域と小数個の会合によるものと考えられる。無秩序領域の分子からの発光は、高エネルギー側にあり、減衰時間定数は溶液状態に似ている。2.35eVでは、4.2Kで670psであるような長寿命の指数関数的な減衰があり、会合体状態からと考えられる。2.21eVでは、330-450psの指数関数的な減衰に先立って24psの立ち上がりが見られ、高いエネルギーを持った励起状態から、低エネルギーの格子欠損領域の励起状態への転移であると考えられる。

Fig.2. Fluorescence decay curves measured at various emission photon energies for the T4 film at 4.2K.

 4.主発光バンドは、T5,T6薄膜では小数個の会合に依るものであり、T4薄膜では会合体状態によるものと考えられる。これが、T5,T6とT4では発光の温度依存性・寿命などで異なった性質を示す原因と思われる。

 5.真空蒸着法で作成された結晶薄膜では、分子主鎖の平面性が保たれるので、分子間相互作用が強くなると考えられている。分子は微結晶中の場所によって、分子間相互作用の強さが異なる。そのため、単分子と比べて、準位のシフトと発光減衰特性に幅が生じた。さらに、無輻射減衰過程では、光励起子がH-会合体の低エネルギー準位であるL-バンドに転移すると考えられる。

審査要旨

 本論文はオリゴチオフェン(チオフェン環の数が3〜6個)のジクロロメタン溶液と結晶薄膜の定常およびフェムト秒時間分解発光スペクトルの測定を行い、オリゴチオフェン分子の励起状態の発光ダイナミックスを研究したものである。本論文は全体で5つの章からなっている。第1章のイントロダクションのあと、第2章では製作した装置の概要とオリゴチオフェン分子の基本的性質についてまとめている。第3章は溶液中でのオリゴチオフェン分子の研究、第4章はオリゴチオフェン結晶薄膜の研究についてそれぞれ述べられており、本論文の中心的部分である。第5章はまとめとなっている。

 オリゴチオフェン分子のフェムト秒時間分解発光スペクトルを測定するために、アップコンバージョン法を用いた装置を組み上げた。これは、励起光による試料からの発光とディレーラインを通した励起光をBBO結晶に導き、その和周波を検出することにより、励起光のパルス幅に近い時間分解能を得るものである。本システムの時間分解能は250fsであり、ストリークカメラよりも高い分解能が得られるようになった。

 オリゴチオフェンのジクロロメタン溶液での定常吸収、発光スペクトルでは、スペクトルの二次微分をとることで、微小なピークを検出できるようにした。その結果、主鎖が長くなるにつれS1-電子遷移の0-0バンドのエネルギーはオリゴチオフェンに含まれる二重結合の数DBと次のような関係があることを見い出した。

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 ポリチオフェン薄膜の対応する遷移のエネルギーは2.1eVであり、本研究の結果とよく対応している。また、時間分解発光スペクトルでは、遅い減衰時間を示すものと、速い減衰時間を示すものの2つの成分がみられた。遅い成分はS1-の輻射過程に対応している。速い成分は、本研究のフェムト秒時間分解測定ではじめて明らかになったものである。これには励起光偏光依存性や溶液粘性依存性がみられ、分子の回転拡散によるものであることが示された。回転拡散時間定数はhydrodynamic slip modelによる計算結果とよく一致した。

 一方、真空蒸着によって生成した結晶薄膜の定常発光スペクトルは、4Kから295Kの温度範囲で測定した。この温度変化で、チオフェン環が5個のもの(T5)と6個のもの(T6)はスペクトル強度が大きく変化したが、4個のもの(T4)はほとんど変化が見られないことがわかった。T5においては、発光バンドの温度依存性の違いから、それらが薄膜内の3つの異なる構造体に起因していることを示した。時間分解発光スペクトルでは、主発光バンドの減衰曲線は、T5およびT6ではstretched exponential関数でよく表わされるが、T4については、指数関数では表わせない成分が存在することがわかった。これらのことから、主発光バンドはT5,T6では少数個の会合体によるものであり、T4では会合体状態によるものであると推定される。このことは、T4だけ発光の温度依存性が異なることと矛盾しない。

 このように本論文はオリゴチオフェンの溶液および結晶薄膜における発光ダイナミックスについて、いくつかの重要な知見を得たものであり、博士論文として十分評価できる。本研究は論文提出者が指導教官および研究協力者の助言のもと、自ら着想し実行したものであり、論文提出者は博士(理学)の学位を授与できると認める。

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