学位論文要旨



No 113187
著者(漢字) 相澤,秀昭
著者(英字) Aizawa,Hideaki
著者(カナ) アイザワ,ヒデアキ
標題(和) 表面化学結合とエッチングの第一原理的研究
標題(洋) First-principles studies of chemical bonds and etching processes at surfaces
報告番号 113187
報告番号 甲13187
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3333号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 塚田,捷
 東京大学 助教授 小森,文夫
 東京大学 助教授 福谷,克之
 東京大学 教授 田中,虔一
 東京大学 助教授 長谷川,修司
内容要旨

 表面における化学結合の理解は様々な表面過程に関する研究の土台となるものであり、非常に重要である。例えば、吸着子と表面の間に形成される化学結合の形成機構の解明は、吸着や脱離といった表面化学反応の重要な素過程のより深い理解をもたらすと期待されるし、また基板表面の原子間の結合の性質が吸着子等の存在下でどのように変化するかといった考察を押し進めていけば、半導体素子の作成に際して重要な役割を果たすエッチング過程のより良い制御が可能になると思われる。

 本論文では、金属および半導体の表面吸着系の代表的なものの中から、特にCO/Pt(111)系およびX/Si(100)系(X=H,Cl,BrまたはI)に着目し、表面における化学結合のより深い理解を得ることを目的として第一原理的計算による研究を行なった。これらの系は典型的な化学吸着系として基礎的な興味が持たれているばかりでなく、応用上も非常に重要である。遷移金属表面上にCOが吸着した系は触媒活性を示すことがあるし、一方ハロゲンを含むプラズマはシリコン表面のエッチングの際にしばしば用いられる。

 計算は密度汎関数法(DFT)および局所密度近似(LDA)に基づく方法を用いた。これらの方法は擬ポテンシャルおよび平面波基底と組み合わせることによって、表面構造などを非常に高い精度で予測することを可能にするため、現在広く用いられている。ところで、従来は波動関数の展開に原子軌道的な基底関数が用いられてきたが、この場合にはマリケンのポピュレーション解析などの確立された方法が容易に適用でき、計算結果を化学的な描像に基づいて解釈することができる。一方、近年一般に用いられる平面波基底の場合には平面波が空間的に非局所的であるという性質を反映して、化学結合という局所的な概念による議論は困難である。そこで我々は、平面波基底を用いた計算に適用可能なポピュレーション解析法を開発した。

 以下ではCO/Pt(111)を例にとって新しい解析法の概要を述べるが、他の一般の系に対しても全く同様に適用可能である。COとPt表面との間の結合について調べたいとしよう。そのためにはまず、全系をCOだけからなる部分系AとPt原子だけからなる部分系Bに分割し、各部分系に対する一電子固有状態を計算する。そしてこれらの波動関数を基底関数として(もとは平面波で展開されている)全系の波動関数{}を以下のように再展開する。

 

 基底セットには固有値の小さいNAおよびNB個の固有状態のみを含める。ここで重要なことはおよびを計算する際に、ユニットセルの大きさおよび平面波基底のカットオフエネルギーを{}の計算に用いたものと同じにすることである。そうすれば、{}、およびが全く同じ平面波のセットで表されることになるので、(1)式中の展開係数{}および{}を求める際に重なり積分を数値的に計算する必要がなくなる。NAおよびNBは原子軌道様の基底関数による計算(LCAO計算)において最小基底を用いた場合の基底関数の数と同じになるようにとった。これは、一般にポピュレーション解析において大きな基底関数を用いることは化学結合の解釈を不明確にするため好ましくないからである。この方法では電子状態の計算の精度を決めるファクター(平面波基底のカットオフエネルギー)とポピュレーション解析の妥当性に影響を与えるファクター(NAおよびNB)が分離されているという点でも、従来のLCAO計算に適用されてきた方法より有利である。得られた展開係数を用いてgross populationやoverlap populationといった様々な量が計算できる。

 この方法を用いてCO/Pt(111)系における化学吸着結合の性質を調べた。CO分子の遷移金属表面への吸着機構はしばしばブライホルダーモデルをもとに議論される。このモデルではCOのHOMOとLUMOである5軌道と2軌道のみが結合に関与していると考える。気相では電子が完全に詰まっている5は金属のバンドと相互作用した結果、若干のホールを持つようになり(5供与)、一方気相では空の2は若干の電子を持つようになる(2逆供与)。しかしこのモデルに最近疑問が投げかけられている。例えば、拡張ヒュッケル計算によって4軌道も結合に関与していることが示唆された。また、X線放出分光法(XES)によってCOの分子軌道よりもむしろCやOの原子軌道で良く表現できるような一電子状態の存在が明らかになり、ブライホルダーモデルのような分子軌道をもとにしたモデルはそもそも不適当であるという主張もなされている。我々の行なったポピュレーション解析の結果を表1に示す。表中のgross populationは各分子軌道の占有数を表す。5が2より小さくなっている分、および2が0より大きくなっている分は5供与および2逆供与に対応し、これらの軌道が結合に関与していることを示唆する。一方1や4などは電子で完全に詰まっており、結合とは無関係であると考えられる。これらのことはoverlap populationに着目することによってより直接に示すことができる。この量は結合への寄与の程度を表し、正ならば結合性の、負ならば反結合性の寄与を意味する。完全に詰まっている軌道は非結合的かあるいは若干の反結合的な寄与しか与えず、部分的に詰まっている5および2軌道が吸着結合を担っていることがわかる。また、XESで観測されたような原子軌道様の状態の存在が計算でも確認されたが、このような状態は1と2の線形結合として解釈することができる。上で示したポピュレーション解析の結果は原子軌道ではなくCOの分子軌道による吸着結合の記述、すなわちブライホルダーモデルが簡潔でなおかつ本質をついた描像であることをはっきりと示している。というのもこのような記述では二つの分子軌道からの寄与のみで吸着結合の形成を説明できるからである。

Table1:CO/Pt(111)に対するポピュレーション解析の結果。

 次にX/Si(100)系(X=H,Cl,BrまたはI)におけるエッチング過程について調べた。H/Si(100)やI/Si(100)の熱脱離スペクトルを測定するとそれぞれH2分子とI原子が主に脱離してくるが、Cl/Si(100)やBr/Si(100)の場合にはエッチングが起こり、SiCl2およびSiBr2の脱離が観測される。(ただしBr/Si(100)の場合にはBr原子の脱離も見られる。)このように吸着子によって異なる振舞いがなぜ起こるのかを明らかにするために、SiX2ユニットを含んだ2種類の表面構造に対して電子状態計算を行なった。1つはSiX2モノマーとSiXダイマーが交互に並んだ被覆度4/3MLの3×1表面で、もう一つは被覆度1MLの2×1表面である。これらの表面におけるSiX2の脱離エネルギーを計算し、いくつかの考察を行なうことによって、SiX2を表面に結び付けているSi-Siバックボンドが各吸着原子種に固有な量だけ弱められることがわかった。SiX2の脱離エネルギーはこの効果に加えて、例えばBr/Si(100)3×1表面のように原子サイズの大きい吸着子が高被覆度で吸着している表面で特に顕著になる吸着子間の原子間反発による効果によって主に決まっていると考えられる。原子間反発の効果が無視できる2×1表面におけるSiX2の脱離エネルギーE(SiX2)をX原子とX2分子の脱離エネルギー(E(X)およびE(X2))、元素Xの電気陰性度、およびX/Si(100)表面に対する熱脱離実験で観測された主生成物とともに示す。これらの脱離エネルギーの比較から予想される主生成物は実験結果と一致する。X=Brの場合には被覆度が大きくなるにつれて原子間反発の効果によってE(SiBr2)がE(Br)に比べて相対的に小さくなり、SiBr2の脱離が起こるようになる。これはSiBr2のBrに対する収量比が被覆度が高くなるにつれて大きくなるという実験結果を良く説明する。表2からわかるようにバックボンドの弱まり方が電気陰性度の高い吸着子ほど大きくなることから、バックボンドの結合電荷が電気的に陰性の原子の存在によって引き抜かれているという描像が考えられる。そこで、上述のポピュレーション解析の方法を適用したところ、ハロゲン吸着の場合には水素吸着の場合と比べて確かに結合電荷が少なくなっていることが示された。また、SiX2と表面との間の結合に関するtotal overlap populationは脱離エネルギーと非常に強い相関があることがわかった。このことは、全エネルギー計算から得られる脱離エネルギーを解釈する手段としてのこの解析法の有用性を示唆する。というのも、total overlap populationは各一電子軌道からの寄与に分解できるため、脱離エネルギーにどの軌道が大きな寄与をしているかという議論が可能になるからである。

Table2:X/Si(100)におけるX,X2,SiX2の脱離エネルギー(単位:eV),Xの電気陰性度n,およびX/Si(100)に対する熱脱離実験で観測された主生成物(exp.)。
審査要旨

 本論文は5章からなるが導入章と結語章をべつとして、第一原理計算の方法論とくにポピュレーション解析法を述べた第2章、Pt(111)表面上のCO吸着を述べた第3章、Si(100)表面上のハロゲンおよび水素吸着系のエッチング過程を論じた第4章が、その主要部を構成する。

 局所密度汎関数法による電子状態計算から、系内の原子間ポテンシアルや原子配置構造まで決定する第一原理的な方法は、電子計算機の進歩とあいまって今や実験とならび表面研究の重要な手段となっている。そして固体表面でおこる複雑で多様な原子素過程を精密な理論計算に基づきながら直観的に理解する描像の必要性は、ますます高くなりつつある。しかし、計算が膨大になればなるほど、得られた結果の物理的な内容を読み取ることは単純ではなくなる。本論文の主要なテーマは、標準的な第一原理計算法である平面波基底展開に適用するためのポピュレーション解析法を導入し、Pt(111)表面上のCO吸着やSi(100)表面上のハロゲン吸着系に応用し化学吸着機構やエッチング機構の物理を明らかにすることである。

 マリケンによって導入されたポピュレーション解析法は、原子基底で展開された波動関数により原子間の重なり電子数(overlap population)を定義し、これを共有結合性の指標とするものである。しかし平面波基底の場合にはこれを応用することは不可能であった。本論文で提案された方法においては、全系をこれと同じ超格子をもつ部分系に分割し、各部分系の波動関数を全系と同じカットオフ波数の平面波系で展開しておく。次に全系の波動関数を先にもとめた部分系の波動関数の線形結合として与える係数を決定し、この係数から原子基底展開の場合と類似の方法で重なり電子数を求めるものである。

 論文提出者はこの方法の有効性を、CO/Pt(111)系における化学吸着の性質を明らかにすることによって確認した。すなわち第一原理擬ポテンシアルと平面波展開による吸着系の計算結果をこの方法で解析すると、吸着系の局所状態密度に現れる種々のピーク構造がCO分子の各分子軌道からどのように形成されているか、それらの分子軌道がどのように化学吸着に関与しているかを詳細に決定できることを示した。重要な結論としては、Blyholderによる素朴な描像が最新のLDA計算によっても、きわめて良好に成立することが再確認されたことである。すなわちCO分子の5軌道と2軌道のみがPt軌道と大きな重なり電子をもち、化学吸着に主要な寄与をしている。一方、1や4などの軌道では重なりの電子は殆どなく、結合とは無関係であることが示された。そしてXES(X線放出分光法)で示唆されるCやOの原子軌道様状態の存在は、化学吸着によって分子の1と2軌道が再混成されることで理解できることを明らかにした。

 本論文の後半ではX/Si(100)吸着系(X=H,Cl,BrまたはI)の構造と吸着エネルギーの計算、特にこれと関連したエッチング過程の研究を行った。すなわちこれらの吸着系は互いに類似した構造をとるものと思われるのに、エッチングが有効におこるのはClとBr吸着系のみであり、この場合にはSiCl2,SiBr2の脱離が観察される。一方、H/Si(100)系とI/Si(100)系ではH2、Iの脱離が観察される。これの機構を明らかにするために、モノハライドのみからできる(1×1)表面、モノハライドとダイハライド列が交互に並ぶ(3×1)表面、モノハライドとダングリングボンド列が交互に並ぶ(2×1)表面などについて、安定構造と吸着エネルギーの決定、SiX2ユニットの脱離エネルギーの計算、バックボンドの結合性に関するポピュレーション解析などを行った。得られた主要な結論は、以下のようなものである。

 すなわちSiX2ユニットのバックボンドはバルクのボンドに比べて弱くなるが、これにはXの電気陰性度によって支配されるような要因と、隣接するSiX2ユニットとのX間反発エネルギーに由来するものがある。この両者は種々の表面構造についてのポピュレーション解析によって分離され、重なり電子のエネルギー密度からその要因についての物理的な描像が明らかになる。また様々な吸着原子種の異なる吸着面構造についての計算結果から、SiX2ユニットの脱離エネルギーと全重なり電子数との明瞭な直線関係が見いだされた。これをもとに、上記の4種の吸着種において塩素と臭素のみでエッチングがおこる機構について、明瞭な理解が得られた。

 以上述べたように、本論文は平面波基底による第一原理計算についての新しいポピュレーション解析法を提案し、CO/Pt(111)吸着系およびハロゲン/Si(100)吸着系における電子状態と化学吸着、およびエッチング機構の明瞭な物理的描像を与えることに成功した。これらは表面物理の分野における重要な成果であり、博士(理学)の学位を与えるのに十分な成果であると審査員全員が判断した。なお第3章は常行真司氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって計算および解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54615