我々は最近、ドイツ重イオン研究所(GSI)で、208Pb(d,3He)反応を用いて、中間子の深い束縛状態を生成することに世界で初めて成功した。観測されたのは、207Pb原子核を周回する2p軌道に-が束縛された状態である。論文中では、この実験に至る経緯、実験及び解析手法、結果について述べる。 -を物質中に止めると、-は原子核のクーロン場に束縛され、中間子原子というエキゾチック原子を生成することは古くから知られていた。そのX線の分光は、中間子と原子核の相互作用を調べる有力な手段である。ところが、中間子は原子核に触れると強い相互作用によって吸収される。鉛程の大きさを持つ原子核の場合、原子核表面を「こするように」周回する中間子原子の深い束縛状態(1s,2pなど)の準位巾は非常に大きく、スペクトル中にピークとして観測することはできないと考えられて来た。また、エキゾチック原子を生成する通常の方法を用いても、中間子原子の深い束縛状態はほとんど生成せず、観測は不可能である。これらの事情により中間子と原子核の相互作用を最も敏感に反映するはずの深い束縛状態の分光は、これまで全く手つかずであった。 近年の理論的計算によると、中間子原子の深い束縛状態は、「生成・測定手段さえあれば」分光可能であり、その分光に成功すれば、中間子-原子核の相互作用に関する知見は飛躍的に高まると期待される。その手段として考えられたのが、原子核反応による中間子原子の生成である。従来の方法が、中間子を「上から降らせる」手法であったのに対し、この手法は中間子を「下(原子核)からたたきあげる」。すなわち、原子核反応によって中間子を原子核の近傍に出現させて束縛状態を直接生成するのである。 最初に提案されたのは208Pb(n,p)反応による(208Pb原子核に中間子が束縛された状態)の生成である。(n,p)反応は、荷電交換反応と呼ばれ、通常の低エネルギー原子核反応では、208Tlの基底状態及び低い励起状態が生成される。一方、基底状態から約140MeV上には、中間子の自由生成のしきい値があり、そこから数MeV下に我々がめざす中間子の束縛状態がある。この領域で反応のQ値スペクトルを測定すると、中間子原子生成に対応したピークが観測可能であると予言された。直観的には、(n,p)反応による中間子原子生成は、入射中性子が中間子を原子核近傍に「置き去り」にし、エネルギーを失った陽子が飛び去る反応であると考えることができる。 中間子原子生成の断面積の見積もりは、当初PWIA(平面波インパルス近似)で行なわれていたが、その後の理論研究により、DWIA(歪波インパルス近似)の計算結果はPWIAの1/10ないし1/100しか無いとわかった。歪波の影響を小さくするには、衝突パラメターが大きく、(n,p)反応が核表面付近で起きる事が望ましい。一方、この反応における中性子と陽子のエネルギー移行は約140MeVもあるので、衝突パラメターが大きければ必然的に角運動量移行も大きい。このことは、スピン0の標的を用いて1sや2pなど、角運動量の小さな中間子原子を生成したいと言う要請とは相反する。 この問題を回避するものとして提案されたのが(n,d)や(d,3He)のような反応である。これらの反応では、上記の(n,p)や(d,2He)に加え、標的核から中性子が一個持ち去られる。その結果、207Pbに中間子が束縛された状態が出来る。その際、入射重陽子のエネルギーを核子あたり200-300MeV近辺に選ぶと、角運動量移行をほぼゼロに出来るため、深い束縛状態の生成断面積が大きいと予想された。 この提案を受けて探索実験が行なわれたが、いずれもビーム強度不足や、前方0度での測定の困難などから十分な統計精度が得られず、中間子原子の生成ピークを発見するには至らなかった。それらの実験を振り返ると、中間子原子探索実験で必要とされる条件は以下のようになる。まず、ビームは核子あたり300MeV近辺の重陽子で、反応は(d,3He)である事。重陽子ビームは高輝度で、運動量が揃っている事。(d,3He)反応は前方に鋭いピークを持つので、スペクトロメータは0度方向で3Heを測定可能な事。また、スペクロトメータは高輝度の重陽子ビームを用いてもバックグラウンドが大きくならない設計である事。 以上の点を踏まえると、条件に適合する施設は、世界中にただ一つ、ドイツGSI研究所のFRS(Fragment Separator)スペクトロメータしかない。そこで、我々はGSI研究所に実験を提案し、1996年4月に約10日間実験を行なった。 重陽子はGSI研究所のSISという重イオンシンクロトロンによって核子あたり300MeVに加速された。SISから取り出される重陽子ビームは1011particles/spill以上の強度を持ち、その運動量はp/p<5×10-4の精度で揃っている。また、標的は厚さ50mg/cm2の208Pbを用いた。 FRSはもともと、原子核反応で生じる不安定核ビームの分離を目的としたものなので、前方0度方向で粒子を測定可能である。図1のように、FRSは二つの偏向磁石からなる前半部、その直後の中央焦点面(S2)、S2を対称面として前半部と同様の配置を持つ後半部とからなる。 我々は、S2にドリフトチェンバー2基(DC1,DC2)を配置し、FRSの前半部を用いて反応のQ値を求めた。また、FRSの後半部を用いて3Heの同定を行なった。具体的には、ドリフトチェンバーの直後にトリガ用のシンチレーション・カウンター1基(SC1)、最終焦点面(S4)にはシンチレーション・カウンター2基(SC2,SC3)を配置し、S2とS4の間で粒子飛行時間を、それぞれのシンチレーション・カウンター中ではエネルギー損失を測定した。その結果、3Heは陽子や重陽子から完全に分離でき、バックグラウンドの無いスペクトルを得る事が出来た。 実験結果を、図2の上図に示す。横軸は、反応のQ値であるが、同時に207Pbの基底状態に対する中間子の束縛エネルギーと207Tlの基底状態からの励起エネルギーも示した。縦軸は微分散乱断面積となっている。図2の下図は、Hirenzakiらによって実験以前に計算された理論予想スベクトルである。これと、実験結果とを比較する事により、Q=-135MeV近辺に見えるピークは、中間子が2p状態に束縛された事を示すものであると同定される。このピークは右側に肩がある構造をしているが、これは208Pbから中性子を抜き取る際、(p3/2)空孔と(p1/2)空孔(エネルギー差は0.88MeV)が強度比2:1で出来ることに対応している。実験結果はこの肩の構造も含め、中間子-原子核の相互作用の光学ポテンシャルから予言される予想と良く一致している。 このスペクトルから、中間子の束縛エネルギー(B)と幅()は以下のように決定された。 今回の実験によって、従来のX線分光では到達できない、中間子原子の深い束縛状態が発見され、新しい分光法が確立された。原子核反応という観点からは、原子核の基底状態から140MeVあまりも高い所に、非常に巾の狭い、新種の共鳴準位が見出された、と言うこともできる。 今後、深い束縛状態のエネルギーや巾を系統的かつ精密に測定し、理論値と比較することにより、-原子核相互作用の理解が深まり、いずれは「原子核物質中における中間子の質量は真空中の値と異なるか」等の興味深い問題についても知見が得られるであろう。 図1:GSI研究所FRSスペクトロメータ。左から重陽子ビームが入射する。標的、偏向方向の異なる偏向磁石二台(D1,D2)に続いて,中央焦点面(S2)がある。中央焦点面にはドリフトチェンバー2基、シンチレーション・カウンター1基を、最終焦点面(S4)にはシンチレーション・カウンター2基を配置した。図2:Q値スペクトル。上図が今回の実験で得たスペクトル。縦軸は微分散乱断面積。横軸はQ値であるが、207Pbの基底状態に対する中間子の束縛エネルギー、207Tlの基底状態からの励起エネルギーも示した。下図が実験以前にHirenzaki等によって計算された予想スペクトル。上図、今回発見した2p状態のピーク(-136MeV付近)と1s状態。 |