学位論文要旨



No 113190
著者(漢字) 板橋,健太
著者(英字)
著者(カナ) イタハシ,ケンタ
標題(和) 208Pb(d,3He)反応におけるパイ中間子の深い束縛状態の研究
標題(洋) Study of deeply bound pionic states in the 208Pb(d,3He)reactions
報告番号 113190
報告番号 甲13190
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3336号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 酒井,英行
 東京大学 教授 小牧,研一郎
 東京大学 教授 市村,宗武
 東京大学 助教授 相原,博昭
 東京大学 教授 石原,正泰
内容要旨

 我々は最近、ドイツ重イオン研究所(GSI)で、208Pb(d,3He)反応を用いて、中間子の深い束縛状態を生成することに世界で初めて成功した。観測されたのは、207Pb原子核を周回する2p軌道に-が束縛された状態である。論文中では、この実験に至る経緯、実験及び解析手法、結果について述べる。

 -を物質中に止めると、-は原子核のクーロン場に束縛され、中間子原子というエキゾチック原子を生成することは古くから知られていた。そのX線の分光は、中間子と原子核の相互作用を調べる有力な手段である。ところが、中間子は原子核に触れると強い相互作用によって吸収される。鉛程の大きさを持つ原子核の場合、原子核表面を「こするように」周回する中間子原子の深い束縛状態(1s,2pなど)の準位巾は非常に大きく、スペクトル中にピークとして観測することはできないと考えられて来た。また、エキゾチック原子を生成する通常の方法を用いても、中間子原子の深い束縛状態はほとんど生成せず、観測は不可能である。これらの事情により中間子と原子核の相互作用を最も敏感に反映するはずの深い束縛状態の分光は、これまで全く手つかずであった。

 近年の理論的計算によると、中間子原子の深い束縛状態は、「生成・測定手段さえあれば」分光可能であり、その分光に成功すれば、中間子-原子核の相互作用に関する知見は飛躍的に高まると期待される。その手段として考えられたのが、原子核反応による中間子原子の生成である。従来の方法が、中間子を「上から降らせる」手法であったのに対し、この手法は中間子を「下(原子核)からたたきあげる」。すなわち、原子核反応によって中間子を原子核の近傍に出現させて束縛状態を直接生成するのである。

 最初に提案されたのは208Pb(n,p)反応による(208Pb原子核に中間子が束縛された状態)の生成である。(n,p)反応は、荷電交換反応と呼ばれ、通常の低エネルギー原子核反応では、208Tlの基底状態及び低い励起状態が生成される。一方、基底状態から約140MeV上には、中間子の自由生成のしきい値があり、そこから数MeV下に我々がめざす中間子の束縛状態がある。この領域で反応のQ値スペクトルを測定すると、中間子原子生成に対応したピークが観測可能であると予言された。直観的には、(n,p)反応による中間子原子生成は、入射中性子が中間子を原子核近傍に「置き去り」にし、エネルギーを失った陽子が飛び去る反応であると考えることができる。

 中間子原子生成の断面積の見積もりは、当初PWIA(平面波インパルス近似)で行なわれていたが、その後の理論研究により、DWIA(歪波インパルス近似)の計算結果はPWIAの1/10ないし1/100しか無いとわかった。歪波の影響を小さくするには、衝突パラメターが大きく、(n,p)反応が核表面付近で起きる事が望ましい。一方、この反応における中性子と陽子のエネルギー移行は約140MeVもあるので、衝突パラメターが大きければ必然的に角運動量移行も大きい。このことは、スピン0の標的を用いて1sや2pなど、角運動量の小さな中間子原子を生成したいと言う要請とは相反する。

 この問題を回避するものとして提案されたのが(n,d)や(d,3He)のような反応である。これらの反応では、上記の(n,p)や(d,2He)に加え、標的核から中性子が一個持ち去られる。その結果、207Pbに中間子が束縛された状態が出来る。その際、入射重陽子のエネルギーを核子あたり200-300MeV近辺に選ぶと、角運動量移行をほぼゼロに出来るため、深い束縛状態の生成断面積が大きいと予想された。

 この提案を受けて探索実験が行なわれたが、いずれもビーム強度不足や、前方0度での測定の困難などから十分な統計精度が得られず、中間子原子の生成ピークを発見するには至らなかった。それらの実験を振り返ると、中間子原子探索実験で必要とされる条件は以下のようになる。まず、ビームは核子あたり300MeV近辺の重陽子で、反応は(d,3He)である事。重陽子ビームは高輝度で、運動量が揃っている事。(d,3He)反応は前方に鋭いピークを持つので、スペクトロメータは0度方向で3Heを測定可能な事。また、スペクロトメータは高輝度の重陽子ビームを用いてもバックグラウンドが大きくならない設計である事。

 以上の点を踏まえると、条件に適合する施設は、世界中にただ一つ、ドイツGSI研究所のFRS(Fragment Separator)スペクトロメータしかない。そこで、我々はGSI研究所に実験を提案し、1996年4月に約10日間実験を行なった。

 重陽子はGSI研究所のSISという重イオンシンクロトロンによって核子あたり300MeVに加速された。SISから取り出される重陽子ビームは1011particles/spill以上の強度を持ち、その運動量はp/p<5×10-4の精度で揃っている。また、標的は厚さ50mg/cm2208Pbを用いた。

 FRSはもともと、原子核反応で生じる不安定核ビームの分離を目的としたものなので、前方0度方向で粒子を測定可能である。図1のように、FRSは二つの偏向磁石からなる前半部、その直後の中央焦点面(S2)、S2を対称面として前半部と同様の配置を持つ後半部とからなる。

 我々は、S2にドリフトチェンバー2基(DC1,DC2)を配置し、FRSの前半部を用いて反応のQ値を求めた。また、FRSの後半部を用いて3Heの同定を行なった。具体的には、ドリフトチェンバーの直後にトリガ用のシンチレーション・カウンター1基(SC1)、最終焦点面(S4)にはシンチレーション・カウンター2基(SC2,SC3)を配置し、S2とS4の間で粒子飛行時間を、それぞれのシンチレーション・カウンター中ではエネルギー損失を測定した。その結果、3Heは陽子や重陽子から完全に分離でき、バックグラウンドの無いスペクトルを得る事が出来た。

 実験結果を、図2の上図に示す。横軸は、反応のQ値であるが、同時に207Pbの基底状態に対する中間子の束縛エネルギーと207Tlの基底状態からの励起エネルギーも示した。縦軸は微分散乱断面積となっている。図2の下図は、Hirenzakiらによって実験以前に計算された理論予想スベクトルである。これと、実験結果とを比較する事により、Q=-135MeV近辺に見えるピークは、中間子が2p状態に束縛された事を示すものであると同定される。このピークは右側に肩がある構造をしているが、これは208Pbから中性子を抜き取る際、(p3/2)空孔と(p1/2)空孔(エネルギー差は0.88MeV)が強度比2:1で出来ることに対応している。実験結果はこの肩の構造も含め、中間子-原子核の相互作用の光学ポテンシャルから予言される予想と良く一致している。

 このスペクトルから、中間子の束縛エネルギー(B)と幅()は以下のように決定された。

 

 今回の実験によって、従来のX線分光では到達できない、中間子原子の深い束縛状態が発見され、新しい分光法が確立された。原子核反応という観点からは、原子核の基底状態から140MeVあまりも高い所に、非常に巾の狭い、新種の共鳴準位が見出された、と言うこともできる。

 今後、深い束縛状態のエネルギーや巾を系統的かつ精密に測定し、理論値と比較することにより、-原子核相互作用の理解が深まり、いずれは「原子核物質中における中間子の質量は真空中の値と異なるか」等の興味深い問題についても知見が得られるであろう。

図1:GSI研究所FRSスペクトロメータ。左から重陽子ビームが入射する。標的、偏向方向の異なる偏向磁石二台(D1,D2)に続いて,中央焦点面(S2)がある。中央焦点面にはドリフトチェンバー2基、シンチレーション・カウンター1基を、最終焦点面(S4)にはシンチレーション・カウンター2基を配置した。図2:Q値スペクトル。上図が今回の実験で得たスペクトル。縦軸は微分散乱断面積。横軸はQ値であるが、207Pbの基底状態に対する中間子の束縛エネルギー、207Tlの基底状態からの励起エネルギーも示した。下図が実験以前にHirenzaki等によって計算された予想スペクトル。上図、今回発見した2p状態のピーク(-136MeV付近)と1s状態。
審査要旨

 本論文は、208Pb(d,3He)反応を用いた中間子の原子核による深い束縛状態(中間子原子)の実験的研究に関するものであり、6章からなる。第1章「イントロダクション」においては、本研究の意義が従来の中間子原子研究における問題点と、本研究の独創的な点という観点から述べられている。第2章「実験原理」においては入射ビームエネルギーや標的等の実験の基本的な条件と、理論的な研究から期待される実験結果についてが記述されている。第3章「実験装置」においては、実験に用いた施設の特長と設置した検出器がまとめられている。第4章「解析」においては、測定データの解析から得られる反応のQ値スペクトルを求めるまでの過程が詳述されている。第5章においては、得られたQ値スペクトルから中間子の束縛エネルギーと準位の巾を導出している。第6章は結論である。

 中間子原子は負電荷の-中間子が電子一個の代わりとなるような形で原子核に束縛された状態である。中間子原子を研究する事により、中間子と原子核の相互作用に関する情報を得る事が出来る。従来は、加速器で生成した中間子を標的中に止め標的に捕獲させ、脱励起の過程において放出されるX線を計測すると言う手法を用いて、その研究が行われて来た。しかし、この中間子捕獲法は、中間子と原子核の距離が小さくなると、X線遷移よりも原子核による吸収確率が大きくなるため、ある程度より重い原子核では、小さな主量子数を持つ準位(深い束縛状態)を研究することはできなかった。しかしながら、鉛の様な重い原子核においても1sや2p状態が離散的に存在するという理論的な予測もあった。

 約10年前に新たな中間子原子生成法が提案された。それは原子核反応を使うもので、核反応により標的原子核近傍に-中間子を生成し、束縛状態を形成させるものである。この提案に基づき、(n,p)、(n,d)、(d,2He)、(p,2p)などの反応を使い、中間子の深い束縛状態の探索実験が行われたが、理論の予想よりも断面積が小さかったり、バックグラウンドが大きかったりし、発見には至らなかった。

 論文提出者等は、これまでの失敗の原因を探り、運動量移行が小さくできる、113190f03.gif反応を使い中間子原子の生成に成功した。実験はドイツ国の重イオン研究所(GSI)のフラグメント・セパレータ(FRS)施設において、600MeVの重陽子ビームを使い行なわれた。

 この実験の特長は、i)(d,3He)反応は他の原子核反応に比べて中間子を生成する断面積がはるかに大きい、ii)FRSスペクトロメータを利用することで、非常に強い重陽子ビーム(〜1011/sec)を用いても、バックグラウンドが小さな測定ができる、などである。

 収集されたデータは次の手順で解析された。i)粒子識別を行い、(d,3He)反応のイベントを選別する。ii)焦点面付近のワイヤーチェンバーのデータから粒子の軌跡を求め、焦点面上の位置スペクトルを得る。iii)位置スペクトルをQ値スペクトルに変換する。これによりバックグラウンドがほとんど無いスペクトルを得た。そして約0.5MeVという非常に高いQ値分解能を実現させた。また注意深い較正を行い、Q値の絶対値を求めた。

 この様にして得られたQ値スペクトルの中で、-140MeV(--中間子の質量)よりも少し(5MeV程度)大きい領域に共鳴ピークが観測され中間子原子の生成が確認された。そしてそのQ値スペクトルは、理論計算による予想スペクトルと比較された。その結果、ピーク位置だけでなく、ピークの形状も良く一致する事がわかった。この事から、Q値スペクトル中-135.5MeV付近にあるピークは113190f04.gifと同定され、-134.5MeV付近にあるそのピークの肩は、と同定された。また、-134MeV付近にある構造は,,等からなるとわかった。そして中間子原子の束縛エネルギー(B)と幅()は

 113190f05.gif

 であった。

 実験値は、1s状態の幅を除いて、理論値と良く一致し、理論計算に使われた相互作用は少なくとも2p状態までは信頼できることが明らかになった。1s状態の幅の一致は良くないが、1s状態はピークとして観測されているわけではないので、直ちに理論が間違っていると結論することは出来なかった。この点は、将来の課題として残った。

 この様に論文提出者は、i)原子核反応を用いて中間子原子を生成する方法を確立し、ii)過去10年にわたって実験的に探索されてきた中間子の深い束縛状態を発見し、iii)それを精密分光する事に成功した。本研究は、重い原子核を対象にした中間子原子の深い束縛状態の研究の第一歩となるものであり、新たな研究手法を開拓したものである。

 なお、実験は実験課題番号S160による共同研究であるが、論文提出者はこの実験の実験申請承認直後から参加し、実験の準備および遂行に於いて常に中心的役割を果たした。特にスペクトロメータの設定、実験データの解析は、ほぼ全てを論文提出者一人で行った。最終的に分解能の良いQ値スペクトルを得られたが、それは提出者の実験ならびに解析上の工夫による所が多い。

 以上のことから、審査委員全員が、博士(理学)の学位を授与できると認めた。

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