学位論文要旨



No 113203
著者(漢字) 黒木,経秀
著者(英字)
著者(カナ) クロキ,ツネヒデ
標題(和) ファジー球面上のマスター場
標題(洋) Master Fields on Fuzzy Sphere
報告番号 113203
報告番号 甲13203
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3349号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 江口,徹
 東京大学 教授 藤川,和男
 東京大学 教授 横谷,馨
 東京大学 助教授 相原,博昭
 東京大学 講師 和田,純夫
内容要旨

 近年の弦理論の非摂動論的定式化の研究においては、D-braneが本質的な役割を果たしている。とくに、D-particleと呼ばれる点状のソリトンの存在は、弦理論には弦より基本的な自由度の存在、およびそれが担う弦の長さより小さいスケールの存在を示唆している。一方、D-braneのもつ特徴的な性質として、N個のD-braneが存在する時は、D-braneの時空座標は一般には非可換なN×N行列として表され、その低エネルギーのダイナミクスは10次元のU(N)supersymmetric Yang-Mills(SYM)理論のdimensional reductionによって記述されることがあげられる。D-particleの時空座標が非可換な行列として記述されることは、前述のスケール以下での時空の非可換性の反映であり、そこでは通常の可換な多様体による時空構造の記述が意味をなさないと考えることができる。そこで、弦理論の非摂動論的定式化には、非可換幾何学的な記述がふさわしいと考えられる。

 一方、最近の弦理論の非摂動論的定義において、large-N limitは時空の非可換性とならんで本質的な役割を果たしている。実際、前述の10次元のU(N)SYM理論を0+1次元にdimcnsional reductionした理論のlarge-N limitが、弦理論の背後に存在すると考えられているM-theoryのinfinite momentum frameでの定式化を与えるという指摘や、同じく10次元のU(N)SYM理論を1点にlarge-N reductionした理論はtype IIB superstring理論の構成論的定義を与えるという指摘がなされている。

 場の理論の観点では、large-N limitを記述するアイディアとして、マスター場という概念が知られている。すなわち、いくつかの場の理論においては、large-N limitでのダイナミクスを支配するような一つの古典的な場が存在するというアイディアである。マスター場は、次の3つの顕著な性質を持つ:

 1.マスター場は、時空によらない、1点上の場として定義できる。

 2.マスター場においては、Nに関連するinternalな対称性と時空の対称性が連結している。

 3.物理的にはマスター場はinternalな集団運動を記述していると考えられる。

 第1の性質は、第2の性質からくるものである。最近の弦理論の研究との関連で言えば、type IIB superstringの構成論的定義として提唱されているreduced modelは、large-N limitによって10次元の理論が1点上の理論と等価になるという仮定に基づいており、これはまさにマスター場を考えていることに他ならない。また、高い次元のD-braneは低い次元のD-braneの束縛状態であり、そのfluctuationは低い次元のD-braneの集団運動によって引き起こされるという議論もあり、これは第3の性質と関係することが予想される。

 以上のことから、非可換幾何学的にlarge-N SYMを定義し、そのマスター場を考えることは、弦理論の非摂動論的定義に重要な知見を与えることが予想される。その第一歩として、よく知られている非可換幾何上で簡単な場の理論のlarge-N limitを考え、マスター場の存在およびその性質を議論することは意味がある。そこで、非可換幾何の例として、球面上の関数空間を有限次元の行列の空間に制限して得られるファジー球面をとり、その上で、O(N)symmetric vector modelを考え、そのマスター場の性質を調べることを本論文の主な目的とする。

 また、純粋に場の理論の観点からも、ファジー球面は格子正則化では明白に保つのが困難な回転対称性を、明白に保つ正則化として注目されている。ところが、これまで非可換幾何はおろか、ファジー球面上でも、場の理論はほとんど考えられてこなかった。そこで、我々の模型は非可換幾何上の場の理論に対する理解だけでなく、正則化としてのファジー球面の役割についての理解を深めるのに役立つと思われる。

 具体的な内容であるが、まず2章でマスター場のアイディアを定式化し、マスター場が満たすべき方程式を一般のlarge-N場の理論において導いた。例として、平坦な時空上で定義されたO(N)symmetric vector modelのlarge-N limitを考察し、実際にマスター場を導いた。その表式から、上に述べた特徴の一例として、internalな対称性と時空の並進対称性がマスター場を通じて関係していることを確認した。次に、3章では後の準備のため、ファジー球面の定義を与えた。この際、ファジー球面は通常の球面上の関数を制限して、有限次元の行列の空間に置き換えて得られること、およびそのために紫外正則化を与えることを強調した。その後、ファジー球面上の場の理論のさまざまな定義を与え、通常の場の理論の定義とどの程度異なるかを確認した。とくに、伝播関数が行列の直積の空間の元として与えられることに注意した。4章では、後の比較のため、2章で導いたマスター場が満たすべき方程式に基づき、通常の球面上でO(N)symmetric vector modelを考え、そのマスター場を具体的に構成した。その形から、上に述べた、internalな対称性と球面上の回転対称性がマスター場を通して関係していること、および紫外正則化とlarge-N limitの間に微妙な問題があることを指摘した。5章では、ファジー球面上で4章で考えたものと同じ模型を考え、この場合もやはりマスター場が存在することを示し、その具体的な表式を与えた。この場合、internalな対称性は単なる行列のラベルの空間と関係しているにすぎないが、この空間は可換な極限で球面上の軌道角運動量の空間に一致することを示した。また、ファジー球面上で理論を考えることによって、4章で触れた、紫外正則化とlarge-N limitの間の問題が解決されることを指摘した。最後にファジー球面上のYang-Mills理論のマスター場の存在についても議論した。

審査要旨

 弦理論の非摂動的力学の研究の最近の進展においてDirichlet-brane(D-brane)が果たす基本的な役割が明らかになってきた。D-braneはDirichlet境界条件を持つ開いた弦の端点が掃く時空10次元の中の超平面で,RRチャージを持ち弦理論のソリトンであると解釈される。D-brane上にはそこに端点を持つ開いた弦が存在するため超対称U(1)ゲージ理論が励起される。空間p次元に拡がったDirichlet p-brane上に誘導されるゲージ理論はゲージ場の他に9-p個のスカラー場を含み,その作用は10次元超対称ゲージ理論のp+1次元への次元還元によって与えられる。スカラー場はその真空期待値がD-braneに直行方向の座標の値を表わすと解釈される。

 平行なD-braneがN枚存在する時には,別々のD-braneに端点を持つ開いた弦が現われるため,ゲージ場やスカラー場はN×Nの行列になる。N枚のbraneが重なる極限では新たにN2-N個のゲージ粒子が現われゲージ対称性が可換な群U(1)Nから非可換な群U(N)へ持ち上がる。理論の基底状態では9-p個のスカラー場の行列は互いに交換しその個有値がD-braneの座標を与える。このようにD-braneの力学においては行列の個有値が時空の座標を表わすため,時空は非可換性を持ち一種の非可換幾何学で記述される可能性がある。

 10次元TypeIIA弦理論のD0-braneは11次元のM理論で11次元方向に運動量を持って運動している粒子と考えられる。11次元運動量の大きさがD0-braneの持つRRチャージに等しい。11次元方向に無限にブーストされた系(光円錐座標系)でM理論を調べると,11次元の運動量が非常に大きな値Nを持つ状態のみが有限の質量に留まる。このため光円錐座標のM理論はN個のD0-braneのN無限大極限で再現される可能性があり,行列模型の予想と呼ばれている。

 この様な研究の発展の状況から,非可換な時空における場の理論の模型で内部対称性が無限に大きくなる極限の振る舞いの分析に関心が持たれている。N無限大のSU(N)ゲージ理論やO(N)ベクター模型は以前から多くの研究が行われてきたが,一つの重要な考え方としてマスター場の概念が知られている。即ち,N無限大極限の理論の力学を完全に支配する一つの古典的な場の配位が存在すると言う仮説である。マスター場は次のような性質を持つ:1.マスター場は時空の座標に対する依存性と内部自由度に関する依存性が互いに関連しており,この性質を用いて時空1点で定義された場として表わすことが出来る。2.マスター場は内部空間における理論の集団運動を記述していると考えられる。通常の時空の場合には空間を一点に還元したreduced模型と呼ばれるものが知られており,マスター場のアイディアを具体化したものと考えられている。

 論文提出者は非可換時空の例として行列を用いて定義されるファジー球面を考えその上で定義されたO(N)ベクター模型を調べN無限大極限におけるマスター場を構成した。まず論文の第2章ではマスター場の基本的な性質を議論し,第3章でファジー球面の定義を与えた。ファジー球面は通常の球面上の関数を制限して有限次元の行列の空間に置き換える事によって得られる。このため角運動量の値に上限が生じ一種の紫外正則化を与える。第4章では通常の球面上におけるO(N)ベクター模型を調べ,ギャップ方程式を用いてそのマスター場を導いた。第5章ではファジー球面上のO(N)ベクター模型を解き,そのマスター場を決定した。また,求められたマスター場において予想されたように球面上の回転と内部空間での回転が密接に絡み合っている事を確認した。

 論文提出者の研究はファジー球面上のベクター模型模型と言う限られた例であるが,この場合に初めて理論を解いてマスター場の存在を示しその配位を具体的に決定した。この仕事は非可換幾何学やN無限大力学の研究に新しい知見を付け加えたものとして十分評価できると考えられる。このため審査委員一同で博士(理学)の学位を授与するにふさわしいものと認めた。

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