弦理論の非摂動的力学の研究の最近の進展においてDirichlet-brane(D-brane)が果たす基本的な役割が明らかになってきた。D-braneはDirichlet境界条件を持つ開いた弦の端点が掃く時空10次元の中の超平面で,RRチャージを持ち弦理論のソリトンであると解釈される。D-brane上にはそこに端点を持つ開いた弦が存在するため超対称U(1)ゲージ理論が励起される。空間p次元に拡がったDirichlet p-brane上に誘導されるゲージ理論はゲージ場の他に9-p個のスカラー場を含み,その作用は10次元超対称ゲージ理論のp+1次元への次元還元によって与えられる。スカラー場はその真空期待値がD-braneに直行方向の座標の値を表わすと解釈される。 平行なD-braneがN枚存在する時には,別々のD-braneに端点を持つ開いた弦が現われるため,ゲージ場やスカラー場はN×Nの行列になる。N枚のbraneが重なる極限では新たにN2-N個のゲージ粒子が現われゲージ対称性が可換な群U(1)Nから非可換な群U(N)へ持ち上がる。理論の基底状態では9-p個のスカラー場の行列は互いに交換しその個有値がD-braneの座標を与える。このようにD-braneの力学においては行列の個有値が時空の座標を表わすため,時空は非可換性を持ち一種の非可換幾何学で記述される可能性がある。 10次元TypeIIA弦理論のD0-braneは11次元のM理論で11次元方向に運動量を持って運動している粒子と考えられる。11次元運動量の大きさがD0-braneの持つRRチャージに等しい。11次元方向に無限にブーストされた系(光円錐座標系)でM理論を調べると,11次元の運動量が非常に大きな値Nを持つ状態のみが有限の質量に留まる。このため光円錐座標のM理論はN個のD0-braneのN無限大極限で再現される可能性があり,行列模型の予想と呼ばれている。 この様な研究の発展の状況から,非可換な時空における場の理論の模型で内部対称性が無限に大きくなる極限の振る舞いの分析に関心が持たれている。N無限大のSU(N)ゲージ理論やO(N)ベクター模型は以前から多くの研究が行われてきたが,一つの重要な考え方としてマスター場の概念が知られている。即ち,N無限大極限の理論の力学を完全に支配する一つの古典的な場の配位が存在すると言う仮説である。マスター場は次のような性質を持つ:1.マスター場は時空の座標に対する依存性と内部自由度に関する依存性が互いに関連しており,この性質を用いて時空1点で定義された場として表わすことが出来る。2.マスター場は内部空間における理論の集団運動を記述していると考えられる。通常の時空の場合には空間を一点に還元したreduced模型と呼ばれるものが知られており,マスター場のアイディアを具体化したものと考えられている。 論文提出者は非可換時空の例として行列を用いて定義されるファジー球面を考えその上で定義されたO(N)ベクター模型を調べN無限大極限におけるマスター場を構成した。まず論文の第2章ではマスター場の基本的な性質を議論し,第3章でファジー球面の定義を与えた。ファジー球面は通常の球面上の関数を制限して有限次元の行列の空間に置き換える事によって得られる。このため角運動量の値に上限が生じ一種の紫外正則化を与える。第4章では通常の球面上におけるO(N)ベクター模型を調べ,ギャップ方程式を用いてそのマスター場を導いた。第5章ではファジー球面上のO(N)ベクター模型を解き,そのマスター場を決定した。また,求められたマスター場において予想されたように球面上の回転と内部空間での回転が密接に絡み合っている事を確認した。 論文提出者の研究はファジー球面上のベクター模型模型と言う限られた例であるが,この場合に初めて理論を解いてマスター場の存在を示しその配位を具体的に決定した。この仕事は非可換幾何学やN無限大力学の研究に新しい知見を付け加えたものとして十分評価できると考えられる。このため審査委員一同で博士(理学)の学位を授与するにふさわしいものと認めた。 |