走査トンネル顕微鏡(STM)は表面構造や表面電子状態を原子尺度の分解能で実空間において観察することを可能とした画期的な実験手法であり、表面科学の研究において多大な貢献をしてきた。近年その走査トンネル顕微鏡は、原子尺度の像を得るためのみではなく、表面を原子尺度で加工するための装置としても使用されるようになった。すなわち、STM探針により個々の原子を引き抜いたり、移動させたりする実験が行われるようになった。また、探針を表面に接触させた後に引き離すことによって探針・表面間に原子尺度の橋架け構造を作成し、数原子から構成される細線の電気伝導度の測定も行われている。 STMはトンネル電流を測定することにより像を構成しているために、像の解釈は自明ではなかった。そのためSTMの開発後、数多くの理論が構築されて現在に至っている。しかし、その多くは探針と表面は独立に扱い、摂動論的方法によりそれらをつなぐことによって電流を求めている。そのため、探針・表面間距離が小さい場合や電界電流が大きな場合はこれらの理論を用いることができなくなる。すなわち電界下の探針・表面間で原子が移動するような現象を取り扱うことができない。これらの探針によって誘導される原子的あるいは電子的素過程を電子状態計算から研究するためには、電界電流下の探針・表面間の電子状態を計算する必要がある。そこでこのような接合系の電子状態計算法として第一原理リカージョン・伝達行列法が開発された。この方法は探針と表面とに異なるフェルミ準位を与え、かつ探針と表面を一つの系と考えて有限の電界電流を取り扱うことができる。その結果、探針・表面近接時の現象、探針による原子の引き抜きなどを第一原理の立場から研究することが可能となった。しかし、その方法を用いた初期の研究においてはNa原子により構成されたモデルのみが扱われており、より現実的な系への適用が課題であった。本論文ではリカージョン・伝達行列法を初期の素朴な段階から一層大きく発展、拡張させ、より現実的な系の様々な興味ある問題への応用することを試みた。特に固有チャンネルの概念を導入し、原子コンタクトと原子細線の電子輸送を調べた。これらの方法論の新たな発展により、STM電流、探針による原子の引き抜き、探針・表面間に構成される原子細線のコンダクタンスの計算が実行可能となり、次のような結果が得られた。 図1:(左)トンネル電流及び電子密度。(右)トンネル障壁 はじめに、理想Si(111)表面Al探針系のSTMモデルによって電子状態計算を行いトンネル電流分布、トンネル障壁分布を求めるとともに探針・表面間距離の現象に伴うそれらの変化の詳細を明らかにして原子尺度のコンタクトの様子を明らかにした。図は探針・表面間距離15 bohr、表面バイアス2Vにおける、電流分布およびトンネル障壁の分布である。トンネル電流が探針・表面間にかなり局在して流れているようすがわかる。これはトンネル障壁が探針直下付近で小さくなり多くの電流がこの鞍点部付近を通るためである。 図2:探針・表面間距離に対するトンネル障壁の高さ(上)及び電流(下) 探針が著しく表面に近接するとトンネル障壁が破れ探針・表面間にナノスケールコンタクトが形成される。図2(上)には探針・表面間距離を変化させたときのトンネル障壁の高さの移り変わりを示してある。表面バイアスを0または2Vとし、障壁の高さを探針のフェルミレベルから探針・表面間のポテンシャルの鞍点部までの高さとして求めている。バイアスにともなう障壁の減少、および距離の減少にともなう障壁の減少が見られる。例えばバイアス2Vでは距離が10bohrのときに障壁の消失が確認される。図2(下)には対応する距離についての電流値が示されている。探針の接近により距離が10bohrまではトンネル電流の特徴である指数関数的な増加が見られるが、探針が表面に、それよりもっと近づくと電流値が飽和していく傾向がわかる。 実験的には、電流値の探針・表面間距離に対する対数微分から見かけの障壁の高さを見積もることが良く行われる。すなわち一次元のモデルにおいて幅x、入射波のエネルギーからの障壁の高さの矩形ポテンシャルを透過する波動関数を求めると、電流値はI∝expとなる。これから見かけの障壁高が得られる。第一原理リカージョン・伝達行列法により求められた電流値(図2)から、この関係式を使って障壁高を見積もると、探針・表面間距離が10bohr以上でおよそ4eVとなり、シリコンの仕事関数と近い値が得られる。一方直接求められた実際の障壁の高さ(図2上)は探針・表面間距離が20bohr以下ですでに減少し始めて10bohrでは消失している。上述の見かけの障壁は一次元の矩形モデルを用いて高さが一定と近似されているため実際の障壁とは異なるものであるが、ここで興味深いのはその消失する距離まで見かけの障壁高が仕事関数に近い値を示し続けていることである。 図3:アドアトムの断熱ポテンシャル面。探針・表面間距離11(左)、8(右)bohr。横軸は探針方向への移動距離。 次にSi(111)7×7表面上のアドアトムの引き抜きについて調べるため、Si(111)7×7構造を2×2に切り出したモデルを用いて、アドアトムが探針へ移動する際の電子状態の変化および断熱ポテンシャル面の計算を行った。探針・表面間距離は11または8bohrとし、バイアス電圧は0、±4、±8Vの場合の計算をおこなった。図3(左)は探針・表面間距離が11bohrのときの、移動原子の断熱ポテンシャル面である。横軸は移動原子の安定点から探針方向への距離であり、極大値が引き抜きの活性障壁に対応する。上段と下段はそれぞれ表面バイアスが正及び負の場合であり、実線が0V、破線と点線がそれぞれ±4V、±8Vである。探針・表面間距離が11bohrの場合、バイアスが0Vでの引き抜きの活性エネルギーは3.6eVであり、バルクの凝集エネルギーよりやや低い値を示している。活性エネルギーはこの値からバイアスがかかることによって、正でも負でも減少している。距離が8bohrの場合の断熱ポテンシャル面が図3(右)に示してある。活性エネルギーは0Vでも1.3eVとなり11bohrのときと比べて減少している。これは探針表面間で波動関数の混成が起こり、近接効果が顕著に現れているためである。バイアスの効果を見ると、負バイアスでは単調な変化は見られないが、正の場合は活性障壁が著しく減少して熱的な効果で十分飛び越えられる程度の小さな障壁になることがわかる。 最後に数個のAl原子からなる細線のコンダクタンスの計算をして、透過チャンネルの性質を調べた。図4は各々の原子配置でのコンダクタンスである。これらは量子化されていると言えるのだろうか。また、このような原子細線の透過チャンネルとはどのようなものであろうか。その解析のために固有チャンネルを導入する。リカージョン・伝達行列法では電子状態を平面に平行方向にフーリエ展開された散乱波で記述し、多チャンネルの散乱問題を数値的に解いているため、もともとのチャンネルは各々の平面波である。しかしこのチャンネルは電子の流れる経路を反映していないためにほとんどのチャンネルがコンダクタンスに寄与し、かつその寄与は量子化コンダクタンス2e2/hよりかなり小さい値である。固有チャンネルに変換することによって、形状を反映したチャンネルを構成することができ、ほとんどのチャンネルを完全または不完全に透過するものに分離することができる。完全に透過するチャンネルのコンダクタンスの寄与は2e2/hになる。これにより量子化の度合いを明瞭に示すことができる。また、このチャンネルに射影される状態密度を計算して伝導に寄与する割合を求めることもできる。その結果一列に並んだ三個のAl原子のコンダクタンスはおよそ2であるが、それぞれsとpz、px、pyに対応するチャンネルに分解すると各々のコンダクタンスの寄与は1,0.5,0.5であった。このAlの細線はフェルミ面にpx、pyの成分が多いが、これらの結果はそれらの半分が透過に寄与していないことを意味している。 図4:Al細線のコンダクタンス。 このように本論文ではリカージョン・伝達行列法を発展、拡張させ、Si表面Al探針のSTMモデルに適用した。これによりSTM電流およびトンネル障壁の空間分布や探針・表面間距離に対する電流値を第一原理計算の立場から明らかにした。また、Si原子が探針へ移動する際の電子状態の変化や断熱ポテンシャル面を計算し、Si原子の引き抜きの際の探針の近接効果やバイアスの効果を明らかにした。さらに、固有チャンネルをリカージョン・伝達行列法に導入することにより各伝導チャンネルの(局所)状態密度、コンダクタンスへの寄与を求める式を与え、Al原子細線の電気伝導において伝導チャンネルの性質をミクロスコピックな立場から明らかにした。 |