学位論文要旨



No 113209
著者(漢字) 田口,宗孝
著者(英字)
著者(カナ) タグチ,ムネタカ
標題(和) 3d遷移金属化合物のK殻励起による共鳴X線発光スペクトルの理論
標題(洋)
報告番号 113209
報告番号 甲13209
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3355号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 藤森,淳
 東京大学 助教授 末元,徹
 東京大学 教授 小林,孝嘉
 東京大学 教授 上田,和夫
 東京大学 教授 塚田,捷
内容要旨

 第三世代の放射光の出現により高エネルギー分光、特にX線領域での二次光学過程の研究が今後ますます進展するものと思われる。二次の光学過程とは、物質に光が入射した際に光が放出される過程で、XASやXPSなどの一次の光学過程の情報を完全に含んでいるだけでなく中間状態の情報や発光過程における情報などさらに多くの情報を含んでいる。また入射光と放出光との間の偏光相関をとったり、偏光を利用した磁気円二色性などの実験,さらに共鳴発光スペクトルや励起スペクトルなど非常にバラエティーに富んだ測定を行なうことが可能となってきている。そこで本研究では、二次光学過程特有の実験に対する解析を特にMnを中心とした遷移金属の化合物に対して行ない、その機構を明らかにすることを目的としている。

 まずはじめに、1991年にHamalainen等が行なったスピンに依存した励起スペクトルの実験を取り上げる。一般に二次光学過程のスペクトル関数は入射光のエネルギーと発光のエネルギーの二変数関数であるが、発光のエネルギーを固定した時のスペクトルを励起スペクトルと呼ぶ。Hamalainen等はMn化合物のMn 1s電子が4pバンドに共鳴励起された後3p電子が1s準位に落ちることによる共鳴発光(K RXESと呼ぶ)において、を発光のメインピークとサテライトに固定した時の励起スペクトル(それぞれminorityスペクトル、majorityスペクトルと呼ぶ)を観測した。彼らのMnOに対する実験結果を図1に示す。点線が通常の吸収スペクトルで、実線と破線がその励起スペクトルである。彼らの実験の特徴は、(1)通常の吸収スペクトルでは終状態の寿命が大きいため得られない微細な構造を見ることができること、(2)MnK RXESのメインピークおよびサテライトは、励起された1s電子のスピン方向(それぞれ、3dスピンと反平行及び平行)に依存するため、スピンに依存した吸収スペクトルの情報を与えること、の2点である。この後、バンド計算や多重散乱計算によりこの励起スペクトルを説明する試みがなされたが、十分に実験を説明するにいたっていない。本研究では、まずこの実験スペクトルの解析を行ない、なぜバンド計算や多重散乱計算の結果が実験と合わないのか、またどのような効果が重要であるのかを明らかにした。解析は、多重項を含むクラスター模型を用いて3d5,3d6,3d72の3配置で行なっている。図2に計算結果を示す。この解析によって内殻1s正孔の4p電子に対する引力ポテンシャルが、スペクトル形状を決める上で非常に重要であることが明らかになった。

図1:MnOに対するHamalainen等による実験結果。点線は通常の吸収スペクトル、実線がminorityスペクトル、破線はmajorityスペクトルである。

 つまりこの効果により、吸収端近傍でのスペクトル強度がかなりの割合で増大する。また一般に励起スペクトルは終状態の寿命幅と中間状態の寿命幅の小さい方の値で決定されている。いま終状態の寿命は、スーパーコスタークロニッヒオージェ崩壊のために大きな多重項依存性を持っている。そのためスピンに依存した励起スペクトルの寿命幅は、majorityスペクトルとminorityスペクトルでは異なっており、前者の寿命幅は中間状態の寿命Kで決まり、後者の寿命幅は終状態での寿命幅Mで決まっていることも見出した。

図2:MnOに対する計算結果。実線がminorityスペクトル、破線はmajorityスペクトルである。

 励起スペクトルでは、を固定し、の関数としてスペクトルがあらわされるが、逆にを固定し、の関数としてスペクトルを見る場合には、系の多重項励起や電荷移動型励起が直接反映される点で、興味深い。この発光過程を共鳴X線発光スペクトル(RXES)と呼ぶことにする。このRXESはどの内殻準位電子を励起し、どの準位の電子が内殻正孔に落ちるかによって色々な実験が可能である。よって遷移過程の選択則の違いによって様々なスペクトルを観測することができる。この一つの例としてMnOに対する1s→4p→1s RXESと2p→3d→2p RXESの解析結果を図3(a),3(b)に示す。図3(b)の点線は実験結果である。計算結果は実線で示してある。

 ここで注目すべき事は、これらの2つの過程はどれも始状態と終状態は全く同じ物であるということである。異なっているのは中間状態のみである。図3(a)と(b)ではどちらも双極遷移であるにもかかわらず、3(a)では多重項構造はほとんど見られず電荷移動型のサテライトのみが見えているのに対して、3(b)では多重項構造がスペクトル形状を支配している。これは3d電子と1s及び4p電子との間の多重項相互作用が小さいため、始状態での基底状態と同じ多重項のみが選択されるためである。このように励起過程を変えることで全く異なるスペクトルが得られることを示した。

図3:MnOに対する1s→4p→1s,2p→3d→2p RXESの解析結果。(a)は1s→4p→1s RXESであり、(b)は2p→3d→2p RXESの解析結果である。どちらも一番下のスペクトルが吸収スペクトルであり、そこで矢印で示した位置に入射光を共鳴させた時のスペクトルが、その上に示してある。

 またMnO,MnF2に対しK RXESや,発光過程で3p電子ではなく2p電子が落ち込むK RXES等の解析も行ない、Mn以外の遷移金属の化合物に対しても、様々な共鳴X線発光の系統的な計算を行なった。

審査要旨

 本論文は、近年発展の著しい放射光を用いたX線発光分光による固体の電子状態の研究に関して、多電子理論に基づいた解析により、実験的研究に理論的裏付けを与えることと、電子状態および発光過程についてより多くの情報を得ることを目的としている。本論文ではとくに、マンガン化合物を中心とした遷移金属化合物を対象物質とし、スピンに依存した励起スペクトルの解析と共鳴発光スペクトルの解析および予言をおこなっている。本論文は次の7章からなる。

 第1章では研究の背景として、2次光学過程である共鳴発光分光の特徴を、従来からより広く行われてきた1次光学過程である光電子分光、X線吸収分光などと対比して述べ、共鳴X線発光分光による希土類化合物、遷移金属化合物の最近の研究を概観している。とくに、本論文が中心として取り上げるHamalainenらによるスピンに依存したMnF2とMnOの励起スペクトルの実験が詳しく紹介され、本研究の目的と動機が明らかにされている。

 本論文で用いた計算方法が、第2章に述べられている。遷移金属d電子間の多重項相互作用と、遷移金属d電子と配位子p電子の間の混成相互作用を正確に取り入れたクラスター・モデルを用い、2次光学過程として励起スペクトル、発光スペクトルを計算する。これらの計算に用いたパラメータの導出と正当化は、第3章に詳しく述べられられているように、内殻光電子スペクトル、X線吸収スペクトル、(非共鳴)発光スペクトルを同様のクラスター・モデルで解析することによってなされている。第3章では、正確な解析に必要な内殻正孔の寿命幅の多重項依存性についても述べられ、計算されている。

 MnF2、MnOの共鳴発光の励起スペクトルの計算とHamalainenらによる実験結果との詳細な比較は第4章でなされている。これらの物質が反強磁性体にも拘わらずスピンに依存した励起スペクトルの測定が可能となったのは、終状態で大きく交換分裂するK(Mn3p→1s)発光の励起スペクトルに注目した巧妙な方法によっている。定性的な考察によれば、測定された励起スペクトルは、スピン成分に分解した非占有準位の局所状態密度(主にMn4p成分)を見ていることになる。しかし、これらの励起スペクトルの形状は、バンド計算や多重散乱計算により求めた非占有状態密度とは必ずしもよい一致を示さず、発光過程における多電子効果を正しく取り入れた解析の必要性が指摘されていた。本論文では、上記の方法およびパラメータを用いて励起スペクトルの計算を行い、バンド計算や多重散乱計算の結果から出発して、実験とのよい一致を得ることに成功した。よい一致を得るには、内殻正孔によるポテンシャルの効果、内殻正孔の寿命幅の多重項依存性、四重極遷移を正しく取り入れることが重要であることがわかり、今後、共鳴X線発光分光法を用いた磁性体の電子状態の研究に重要な指針を与えた。同様の方法でK(Mn2p→1s)発光の励起スペクトルも計算されたが、こちらの方は大きなスピン依存性を示さないことが予言されている。

 第5章では、MnO,MnF2のさまざまな共鳴発光スペクトル(K、K、2p→3d→2p、1s→4p→1s、1s→3d→1s)の計算がされ、一部は実験と比較されている。1s→4p→1s、1s→3d→1s共鳴発光スペクトルでは電荷移動型励起が、2p→3d→2p共鳴発光スペクトルでは多重項間の励起が支配的であることが明らかにされている。第6章では、第5章と同様の計算を、NiOを始めとする多くの遷移金属酸化物に系統的に行い、NiOについての実験との比較と、他の酸化物についての実験結果の予測を行っている。第5章、第6章で行われた計算と実験との比較では一部に本質的と思われる不一致が見られたが、その原因としてクラスター・モデル自体の限界が挙げられ、今後の課題とされている。本論文のまとめと将来の展望は最後の第7章で述べられている。

 以上のように本論文では、X線発光分光、とくに磁性体のスピンに依存した励起スペクトルと共鳴発光スペクトルの解析について系統的な研究を行い、X線発光分光が固体の電子状態研究にユニークかつ重要な情報を与えることを具体的かつ定量的に示した。この点で本論文は審査委員会で高く評価された。なお、本論文は小谷章雄氏および魚住孝行氏との共同研究であるが、主要プログラムの開発、数値計算、および計算結果の検討等すべてにわたって論文提出者が主体的に行なったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断される。よって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54617