負電荷ハドロン粒子である反陽子をヘリウム媒質中に静止させるとピコ秒以内の短い時間で消滅するというのが従来の常識であったが、入射反陽子の約3%が3〜4マイクロ秒もの長寿命をもつことが1991年にKEKで確認された。これは高励起状態にある準安定な「反陽子ヘリウム」原子が生成されていることを示唆し、その存在を証明するにはレーザーによる分光測定が直接的である。 1993年からCERN研究所の低速反陽子蓄積リング(LEAR)施設で始まったこのエキゾチック原子の分光は、597.259nmと470.724nmに2本の共鳴線を観測した。この波長は、反陽子・ヘリウム原子核・電子の三体系から理論計算される遷移波長に近い値であったことから、反陽子の長寿命の原因が準安定な反陽子原子の生成にあるという事実を確証するものとなった。 その後、実験事実をもとにして理論計算の精度は改善され、実験値との相対差異が50ppmというよい一致が得られるようになった。計算精度の向上は、他の共鳴線の現れる波長を正確に予測することを可能とし,反陽子ヘリウム3同位体を含めて、13本の光学遷移が確認された。このように計算精度が向上し、それによりより多くの共鳴線が精度よく観測され再び計算精度の向上に寄与するという、好循環の結果、理論と実験との差異は10ppm以下にまで縮まった。 このように実験と理論とを厳密に比較することが可能となると、理論では理想化していた点が現実には実現できない場合が生じてくる。すなわち、理論では反陽子ヘリウム原子を反陽子・ヘリウム原子核・電子の孤立した三体系と扱いエネルギー準位を求めているが、現実の実験では高密度のヘリウム原子中に反陽子ヘリウムが生成される。したがい、反陽子ヘリウム原子は周囲のヘリウム原子と頻繁に衝突を繰り返し、その影響として準位の寿命が短くなるクエンチングや光学共鳴の周波数シフト及び線幅の広がりなどの現象が現れてくる。実験と理論とを精密に比較するにはこれらの効果をきちんと見積もる必要がある。 本論文では、共鳴線の密度による遷移周波数シフト量・線幅の広がりを系統的に調べ、外挿によりゼロ密度における共鳴遷移周波数、すなわち理論と厳密に比較可能な孤立系での遷移周波数を求め、それが理論と6桁の精度で一致することを確かめた。 以下に具体的に審査要旨を記述する。 本論文は、6章からなる。また、論文内では詳しく議論されていない理論的な背景などは6個の補遺にまとめられている。 第1章は序論として長寿命の負電荷ハドロン原子研究及びそのレーザー分光の歴史を概観している。 第2章では、理論的に得られた反陽子ヘリウム原子のエネルギー準位構造及び準位の寿命が述べられ、レーザー分光を行うための指針が議論されている。 第3章では、CERN研究所に設置された反陽子ヘリウム原子生成のための実験装置(ハードウェア)及び分光用のレーザー装置の詳しい説明、さらに長寿命の反陽子ヘリウム原子が生成されたことに同期してレーザーをトリガーする方法が述べられている。また、多くの背景雑音に埋もれた信号を取り出すためのデータ処理方法などのソフトウェアも議論されている。 第4章は、レーザー分光で確認された共鳴遷移のことが記述されている。理論的に予測された光学遷移周波数の精度に比べ、レーザーの線幅は3桁ほど狭く、また、統計的な精度を出すには一つのレーザー周波数で20〜30分の測定時間が必要なため、最初は広い大海原で小舟を捜すような作業であった。しかし、1993年には(n,l)=(39,35)→(38,34)共鳴線を597.259nmに観測し、94年には(n,l)=(37,34)→(36,33)共鳴線を470.724nmに観測できた。これらの実験結果をうけて、理論計算の精度が向上し、95年以降は年に数本ずつの共鳴遷移を観測することが可能となり、現在まで反陽子ヘリウム3同位体を含めて、13本の光学遷移が確認されている。 第5章は、反陽子ヘリウム原子の597.259nmの(n,l)=(39,35)→(38,34)共鳴線と、470.724nmの(n,l)=(37,34)→(36,33)共鳴線を対象にして、周囲のヘリウム原子との衝突による共鳴周波数の変移ならびに線幅の広がりを系統的に測定した結果が述べられている。理論計算では反陽子ヘリウム原子は孤立三体系として扱われるが、現実の実験では周囲に多数存在するヘリウム原子により様々な擾乱を反陽子ヘリウム原子はうける。したがい、実験と理論とを精密に比較するには、ヘリウムの密度を段階的に変化させ、実験結果のヘリウム密度依存性を明らかにした上で、ゼロ密度の極限を外挿法により求めなければならない。ここでは、上述の二本の吸収遷移周波数はヘリウム原子の密度に比例して赤方変移することを確認し、実験的に得られたゼロ密度極限の遷移周波数が相対論的効果と量子電磁気学的効果(Lamb shift)を含めた理論計算と6桁の精度で一致することが判明した。この結果、反陽子のリュードベリー定数の精度を一桁向上させることができた。また、衝突による線幅の広がりも系統的に測定し、現在の理論計算とは多少異なる結果を得た。これは理論計算のさらなる発展・改善に一つの情報を提供している。 第6章では全体のまとめと今後の方針が議論されている。 以上のように本研究は、反陽子ヘリウム原子のレーザー分光という魅力的で新しい研究分野を開拓した。この研究では実験と理論とが車の両輪となり、互いが互いを刺激しながら発展し、6桁の精度で両者を比較することが可能となった。この研究の成果は、反物質を用いた新しい物理現象を探求していくための礎を築いたものと考えられる。 なお本研究は国際的に多くの研究者が協力して行われたものであるが、第3章の実験ハードウェア及びソフトウェアの開発、第5章の共鳴遷移周波数シフト及び線幅の広がりに関する系統的な実験及び解析は、論文提出者を中心として行われたもので、論文提出者の寄与が大部分であると判断する。 以上の理由により、本論文は、博士(理学)論文として十分に評価できると審査委員全員が認め、合格と判断した。 |