学位論文要旨



No 113215
著者(漢字) 鳥居,寛之
著者(英字)
著者(カナ) トリイ,ヒロユキ
標題(和) 反陽子ヘリウム原子のレーザー分光 : 衝突による共鳴線のシフトと幅の広がり
標題(洋) Laser Spectroscopy of Antiprotonic Helium Atomcules : Collisional Shift and Broadening of Resonance Lines
報告番号 113215
報告番号 甲13215
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3361号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 久我,隆弘
 東京大学 教授 市川,行和
 東京大学 教授 小林,孝嘉
 東京大学 教授 兵頭,俊夫
 東京大学 教授 山崎,泰夫
内容要旨

 負電荷ハドロン粒子である反陽子をヘリウム媒質中に静止させるとピコ秒以内の短い時間に消滅する、というのが従来の常識であったが、これに反して、3%のものが驚くべきことに3〜4マイクロ秒もの長寿命を示すことが1991年にKEKで確認された。これにより、以前CondoやRussellによって提唱されていたような、高励起状態にある準安定な"反陽子ヘリウム"原子(He+)の生成が示唆され、長寿命に関する実験が実施されたが、反陽子の消滅時間を測定するだけの実験では確定的な結果は得られなかった。そこで我々はレーザーを用いてこの(存在するであろう)エキゾチック原子を分光し、共鳴脱励起に引き続いて起こる反陽子の消滅を観測するという手法によって共鳴を捉える実験を考案し、1993年にCERN研究所のLEAR(低速反陽子蓄積リング)施設で研究を開始した。

 この結果、(n,l)=(39,35)⇒(38,34)及び(37,34)⇒(36,33)なる二つの共鳴線を各々597.259nm,470.724nmに観測することに成功した。得られた波長が、-He++-e-なる三体系に適用された複数の理論計算に近い値であったことから、長寿命の原因が準安定な反陽子原子の生成にあるという事実を確証するものとなった。共鳴の発見により、反陽子ヘリウム原子の特定準位の寿命と占有数を直接観測することが可能となり、いまだ確立されていないエキゾチック原子の形成過程の理論を検証することにもなった。

 一方で原子のエネルギー計算については、6桁の精度で値を示した実験結果に触発され、内外から多くの理論家が計算を行った。中でも1995年にロシアのKorobovは断熱近似の枠を越えてより踏み込んだ精密計算を発表し、既に見つかっていた反陽子ヘリウムの二本の共鳴遷移に対して実験値との相対差異が50ppmという驚くべき一致を見せた(従来の計算は1%〜0.1%の開きがあった)。この結果、掃引すべき波長範囲が断然狭まって、共鳴探索に要する時間が飛躍的に短縮されたのである。実際、その後次々に新たな共鳴遷移が発見され、これまでに反陽子ヘリウム3同位体のものも含めて確認した遷移は13本にのぼり、以てHe+原子の構造を確立するに至った(図1参照)。

図1:反陽子ヘリウム原子(4He+並びに3He+)のレベルダイアグラム。これまでに発見した13本の共鳴遷移が太線で示してある。実直線は1-2sの準安定準位、一方波線の準位はオージェ遷移が速く短寿命であり、共鳴は主にこの2種類の準位の間で脱励起にともなう反陽子の消滅ピークとして観測される。矢印に付した数字は太字が観測された真空波長、未観測遷移については細字でKorobovによる理論計算値を添えた。

 その後更にKorobovは相対論的効果を取り入れて計算を改良し、その結果実験値との差異は4〜10ppmにまで縮まった。ところが、この精度になると、実験の側からひとつ問題が出てくる。

 我々の実験では1粒子ずつ飛んで来る反陽子ビームを6K,0.2〜8barのヘリウム標的内に止めることで準安定原子を生成し、そのたった1個の原子に対して数mJもの大強度レーザーパルスを照射して分光している。このときのヘリウムの密度が非常に高いため、できた反陽子ヘリウム中性原子は周囲の(通常の)ヘリウム原子と頻繁に衝突を繰り返し、その影響のひとつとして準位の寿命が短くなるクエンチング効果が確認されている。もう一つの効果は共鳴の周波数シフトと幅の広がりである。この現象自体は一般の原子・分子でもよく知られており、原子物理、また化学反応の観点から興味深いが、それとは別に、理論計算が孤立三体系を仮定して解いているので、遷移エネルギーを実験値と比較する際には密度シフトを体系的に調べることが重要になってくる。すなわち、測定した周波数を外挿してゼロ密度での極限値を慎重に求める必要があるのである。

 高分解能測定のためには色素レーザーのバンド幅を1GHzまで狭くし、波長をヨウ素およびテルル分子標準吸収線で較正して、様々な密度条件下で中心共鳴周波数を精確に測定した。注意深い解析によってバンド幅よりも狭い精度でそれぞれの値を決定し、外挿によって孤立条件下での値を求めた結果、初めに発見された共鳴遷移線に対しての真空波長は597.2570±0.0003nmと修正された。

 その間に理論計算はラムシフトを加味するなど更に精度を増し、ごく最近になって独立した3グループが発表した理論計算は上の実験値と遂に2〜3ppmの精度で一致をみるに至った。(図2参照)。このことから反陽子のリュードベリ定数を決定することが出来るが、これは現在知られている反陽子の質量、または電荷の測定精度である2×10-5を既に凌駕しており(但し比電荷は10-9の精度で陽子の場合と同じであることが分かっている)、理論計算を信じる限りに於いては、今回の研究によって反陽子の基本定数を最高記録の精度で決定できたことになる。あるいは陽子と反陽子の間のCPT不変性を仮定すれば、クーロン三体系の理論計算が6桁の精度で実験と比較されたことになるが、この様な例は嘗て他になく、反陽子ヘリウム原子が理論、実験両面から高精度分光に適した研究材料を与える系であると言える。

図2:(39,35)⇒(38,34)なる遷移に同定された共鳴線について、ゼロ密度の極限に外挿して求めた真空波長の実験値を、He+原子のクーロン三体系について計算された最新の理論結果と比較した。相対論的補正およびラムシフトを加味すれば理論と実験は2〜3ppmの高精度で一致し、これまで知られている反陽子のリュードベリ定数の値を1桁更新することができる。図3: 精密測定した共鳴の中心波長を標的ヘリウムの密度に対してプロットした。(n,l)=(39,35)⇒(38,34)なる597nmの共鳴線(十字)と(37,34)⇒(36,33)なる470nmの遷移(丸印)について6K,0.2〜8barでのデータを示してあり、それぞれ1g/lあたり0.61±0.01GHz,0.22±0.02GHzの赤方シフトを観測した。なお、470nmについては、高密度条件では共鳴の親準位である準安定準位自体が衝突によるクエンチング効果で短寿命化してしまい、測定ができなかった。

 さて、密度効果自体に関しては、共鳴周波数が密度に対して(圧力に対してではない)線形的な赤方シフトを示すという結果が得られた。これは原子の相互作用が二体衝突であることと、瞬時の衝突によって位相が変わる衝撃近似で記述できることを意味しており、測定した条件が非常に高密度である超臨界相にまで及んでいることを考えると寧ろ驚くべき結果だといえる。また、測定した2本の共鳴線についてシフトの大きさが異なっており、597nmの遷移の方が470nmのものに比して弾性散乱の影響に敏感であることが分かるが、これは準位のクエンチング効果(短寿命化)とは逆の傾向を示していて興味深い(図3を参照)。理論的にはKorenmanが簡単なモデル計算を行っており、その大きさが大雑把に一致することから、今後反陽子原子と周辺原子との衝突についての分子動力学的理解の礎になるものと期待されている。ただし、幅の広がりについては、シフトに比べて圧倒的に小さい値が得られ、通常の原子・分子の場合と大きく異なるこの特徴は簡単なモデルでは十分には説明できないため、今後の理論的進展が待たれるところである。

審査要旨

 負電荷ハドロン粒子である反陽子をヘリウム媒質中に静止させるとピコ秒以内の短い時間で消滅するというのが従来の常識であったが、入射反陽子の約3%が3〜4マイクロ秒もの長寿命をもつことが1991年にKEKで確認された。これは高励起状態にある準安定な「反陽子ヘリウム」原子が生成されていることを示唆し、その存在を証明するにはレーザーによる分光測定が直接的である。

 1993年からCERN研究所の低速反陽子蓄積リング(LEAR)施設で始まったこのエキゾチック原子の分光は、597.259nmと470.724nmに2本の共鳴線を観測した。この波長は、反陽子・ヘリウム原子核・電子の三体系から理論計算される遷移波長に近い値であったことから、反陽子の長寿命の原因が準安定な反陽子原子の生成にあるという事実を確証するものとなった。

 その後、実験事実をもとにして理論計算の精度は改善され、実験値との相対差異が50ppmというよい一致が得られるようになった。計算精度の向上は、他の共鳴線の現れる波長を正確に予測することを可能とし,反陽子ヘリウム3同位体を含めて、13本の光学遷移が確認された。このように計算精度が向上し、それによりより多くの共鳴線が精度よく観測され再び計算精度の向上に寄与するという、好循環の結果、理論と実験との差異は10ppm以下にまで縮まった。

 このように実験と理論とを厳密に比較することが可能となると、理論では理想化していた点が現実には実現できない場合が生じてくる。すなわち、理論では反陽子ヘリウム原子を反陽子・ヘリウム原子核・電子の孤立した三体系と扱いエネルギー準位を求めているが、現実の実験では高密度のヘリウム原子中に反陽子ヘリウムが生成される。したがい、反陽子ヘリウム原子は周囲のヘリウム原子と頻繁に衝突を繰り返し、その影響として準位の寿命が短くなるクエンチングや光学共鳴の周波数シフト及び線幅の広がりなどの現象が現れてくる。実験と理論とを精密に比較するにはこれらの効果をきちんと見積もる必要がある。

 本論文では、共鳴線の密度による遷移周波数シフト量・線幅の広がりを系統的に調べ、外挿によりゼロ密度における共鳴遷移周波数、すなわち理論と厳密に比較可能な孤立系での遷移周波数を求め、それが理論と6桁の精度で一致することを確かめた。

 以下に具体的に審査要旨を記述する。

 本論文は、6章からなる。また、論文内では詳しく議論されていない理論的な背景などは6個の補遺にまとめられている。

 第1章は序論として長寿命の負電荷ハドロン原子研究及びそのレーザー分光の歴史を概観している。

 第2章では、理論的に得られた反陽子ヘリウム原子のエネルギー準位構造及び準位の寿命が述べられ、レーザー分光を行うための指針が議論されている。

 第3章では、CERN研究所に設置された反陽子ヘリウム原子生成のための実験装置(ハードウェア)及び分光用のレーザー装置の詳しい説明、さらに長寿命の反陽子ヘリウム原子が生成されたことに同期してレーザーをトリガーする方法が述べられている。また、多くの背景雑音に埋もれた信号を取り出すためのデータ処理方法などのソフトウェアも議論されている。

 第4章は、レーザー分光で確認された共鳴遷移のことが記述されている。理論的に予測された光学遷移周波数の精度に比べ、レーザーの線幅は3桁ほど狭く、また、統計的な精度を出すには一つのレーザー周波数で20〜30分の測定時間が必要なため、最初は広い大海原で小舟を捜すような作業であった。しかし、1993年には(n,l)=(39,35)→(38,34)共鳴線を597.259nmに観測し、94年には(n,l)=(37,34)→(36,33)共鳴線を470.724nmに観測できた。これらの実験結果をうけて、理論計算の精度が向上し、95年以降は年に数本ずつの共鳴遷移を観測することが可能となり、現在まで反陽子ヘリウム3同位体を含めて、13本の光学遷移が確認されている。

 第5章は、反陽子ヘリウム原子の597.259nmの(n,l)=(39,35)→(38,34)共鳴線と、470.724nmの(n,l)=(37,34)→(36,33)共鳴線を対象にして、周囲のヘリウム原子との衝突による共鳴周波数の変移ならびに線幅の広がりを系統的に測定した結果が述べられている。理論計算では反陽子ヘリウム原子は孤立三体系として扱われるが、現実の実験では周囲に多数存在するヘリウム原子により様々な擾乱を反陽子ヘリウム原子はうける。したがい、実験と理論とを精密に比較するには、ヘリウムの密度を段階的に変化させ、実験結果のヘリウム密度依存性を明らかにした上で、ゼロ密度の極限を外挿法により求めなければならない。ここでは、上述の二本の吸収遷移周波数はヘリウム原子の密度に比例して赤方変移することを確認し、実験的に得られたゼロ密度極限の遷移周波数が相対論的効果と量子電磁気学的効果(Lamb shift)を含めた理論計算と6桁の精度で一致することが判明した。この結果、反陽子のリュードベリー定数の精度を一桁向上させることができた。また、衝突による線幅の広がりも系統的に測定し、現在の理論計算とは多少異なる結果を得た。これは理論計算のさらなる発展・改善に一つの情報を提供している。

 第6章では全体のまとめと今後の方針が議論されている。

 以上のように本研究は、反陽子ヘリウム原子のレーザー分光という魅力的で新しい研究分野を開拓した。この研究では実験と理論とが車の両輪となり、互いが互いを刺激しながら発展し、6桁の精度で両者を比較することが可能となった。この研究の成果は、反物質を用いた新しい物理現象を探求していくための礎を築いたものと考えられる。

 なお本研究は国際的に多くの研究者が協力して行われたものであるが、第3章の実験ハードウェア及びソフトウェアの開発、第5章の共鳴遷移周波数シフト及び線幅の広がりに関する系統的な実験及び解析は、論文提出者を中心として行われたもので、論文提出者の寄与が大部分であると判断する。

 以上の理由により、本論文は、博士(理学)論文として十分に評価できると審査委員全員が認め、合格と判断した。

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