学位論文要旨



No 113216
著者(漢字) 永井,康介
著者(英字)
著者(カナ) ナガイ,ヤスヨシ
標題(和) 陽電子消滅2光子角相関法による絶縁性結晶中のポジトロニウムの研究
標題(洋)
報告番号 113216
報告番号 甲13216
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3362号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小牧,研一郎
 東京大学 教授 山崎,泰規
 東京大学 教授 長澤,信方
 東京大学 教授 早野,龍五
 東京大学 助教授 高田,康民
 高エネルギー加速器研究機構 教授 永嶺,謙忠
内容要旨

 絶縁性結晶中に陽電子を入射すると、多くの場合、電子と陽電子の束縛状態であるポジトロニウム(Ps)が生成する。本研究では、陽電子消滅2光子角相関法を用いて、運動量分布の側面から、そのPs状態を詳しく研究する。論文は、以下の3つの部分からなる。

(1)新方式の2光子2次元角相関装置の開発

 陽電子消滅2光子角相関(ACAR)法は、電子・陽電子対の2光子消滅で生じる2本の線の角度相関を測定することによって、電子・陽電子対の運動量分布を測定する方法である。特に、2次元(2D-)ACAR法は、運動量分布の構造や異方性を詳細に調べるうえで、非常に有用である。しかし、従来の装置では、中核部分である位置敏感線検出器が複雑で高価であるため、広く普及していない。そこで、本研究では、簡便、安価で高性能の位置敏感線検出器を開発し、それを用いた2D-ACAR装置を実用化した。

 本研究で開発した位置敏感線検出器は、近年、比較的安価で入手可能となった高性能の位置敏感光電子増倍管(PS-PMT:浜松ホトニクス製R3941)に、細い柱状の高密度シンチレータBGOのアレイ(サイズ2.2×2.2×15mm3の柱を525本束ねたもの)を取り付けたものである(図1参照)。非常にコンパクトで、高検出効率(511keVの線で約30〜40%)、高位置分解能(2.7mm)が特徴である。

図1:検出器の構成図

 2D-ACAR装置全体の構成を図2に示す。試料から5mの距離で正反対方向に向かい合った検出器のどこに線が入ったかを判定して、2本の線のなす角度を測定する。検出器からは、位置情報を持ったanode信号だけでなく、タイミング用の速いdynode信号も取り出す。また、十分な角度範囲をカバーして測定するために、検出器は可動台に装着してある(一方は水平可動、他方は垂直可動)。試料室には、電磁石で最高16kGの磁場がかけられる。陽電子線源は試料室の真空系の外に装着する。

図2:2D-ACAR装置全体の構成

 計測回路はきわめて単純で、discriminator, fast coincidence,delay & gate generator,ADC,パソコンからなる。dynode信号を用いて2本の線のcoincidenceを取り、それをgateにして、anode信号をAD変換し、パソコンにイベントモードで取り込む。30mCiの陽電子線源で、毎秒70〜80コインシデンスイベントを検出可能である。

 2D-ACARとしての検出効率(運動量に依存する)を評価して、最終的に図3のような2D-ACARスペクトルを得た(14KにおけるKI)。中心のピーク(詳細は(2)参照)の幅から、装置全体の運動量分解能(1.1×10-3mc)を評価した。

 以下の(2)と(3)の測定は、ここで開発した2D-ACAR装置を用いて行った。

(2)アルカリハライド中の非局在ポジトロニウムの波動関数

 低温のアルカリハライド中のポジトロニウム(Ps)は非局在状態(Bloch-state)にある。2光子角相関法は消滅する電子・陽電子対の運動量分布を測定するので、励起子の場合のようなエネルギーバンドの情報とは異なり、Psの波動関数の情報を得ることができる。2光子角相関における非局在Psの自己消滅成分は、p=0付近の鋭いピーク(センターピーク)と、結晶の逆格子点に対応した位置のサテライトピークからなる。センターおよびサテライトピークの強度比を測定することによって、Ps波動関数のoverlap amplitudeのフーリエ変換を直接得ることができる。

 Kasai等は、KIとNaIの1次元(1D-)ACAR測定を行い、奇数指数の逆格子に対応するサテライトピークが見えないことを指摘した。これは、X線回折強度の場合と異なり、最外殻軌道が異なる場合も、Psが陽イオンと陰イオンを区別しないことを示唆し、大変興味深い。最近Zhang等は、F’中心の計算に用いられているextended-ion法を用いて、KCl,NaCl,NaFに対するピーク強度を計算し、このCrystallographic effectを説明した。

図3:14KにおけるKIの2D-ACAR

 本研究では、Ps波動関数の、この特異な振る舞いをさらに定量的に理解するため、運動量分布の微妙な構造に敏感な2D-ACARを行って、KI,KClのピーク強度の測定を行った。図3にKIの2D-ACAR、表1にピーク強度を示す。その結果、1D-ACARでは観測されなかったKIの奇数指数のピークを初めて観測した。また、1D-ACARでは測定不可能であった(220)に対応するピークが、(200)ピークと分離して測定できたが、KI,KCl共に非常に弱く、サテライトピークは実質(200)だけであることがわかった。表2にはZhang等の計算と比較するために、KClの1次元のピーク強度を示す。彼らの計算は奇数指数のピークがないことは説明しているが、(200)に対応するピークが実験より2倍ほど強いことがわかる。

表1:ピーク強度比。理論(*),理論(**)は、それぞれ直交化による計算、クーロン相互作用による摂動計算を示す。表2:KClの1次元のピーク強度比。理論はZhang,Songによる計算を示す。

 このようなPs波動関数の特徴が何に由来するかを探るため、簡単な計算を2種類行った。一方は、Hodges等がSiO2,H2Oに対するピーク強度の計算に用いたのと同様の方法で、Psの電子と結晶の電子の波動関数を直交化することによりPs波動関数を求めた。この計算は、定性的だがSiO2,H2Oの場合は実験をよく説明している。もう一方は、逆に交換相互作用を無視しクーロン相互作用のみを入れたハミルトニアンを考え、摂動論で波動関数を計算した。この方法は、Boev等がアルカリハライド中のPsの有効質量等を計算するのに用いられた。これらの結果(表1を参照)から、奇数指数が弱いことは直交化によってほぼ説明できるが、強い(200)ピークを説明するにはクーロン相互作用が必要なこと、しかし、定量的にピーク強度を求めるには、Zhang等の計算以上のことをする必要があることがわかった。

(3)スピンクロスオーバー錯塩[Fe(ptz)6](BF4)2および[Zn(ptz)6](BF4)2の構造変化とポジトロニウム

 Ps状態は物質の局所的な構造変化に非常に敏感に影響を受けることが知られている。この性質を利用して、スピンクロスオーバー錯塩[Fe(ptz)6](BF4)2および[Zn(ptz)6](BF4)2の、これまで他の測定法では観測されていない構造変化を、2D-ACARによって検出することを目的とする。

 [Fe(ptz)6](BF4)2(ptz=1-propyltetrazole)はスピンクロスオーバー転移を起こす錯塩として有名である。スピンクロスオーバー転移とは、温度、圧力等の外的条件を変えることにより、スピン状態が低スピン(LS)状態から高スピン(HS)状態に(あるいはその逆に)変化する転移のことである。[Fe(ptz)6](BF4)2はスピン転移(Tc〜130K)の際に、空間群の変化を伴う構造相転移(R⇔P)を起こす。一方、[Zn(ptz)6](BF4)2はHS状態の[Fe(ptz)6](BF4)2と同じ構造を持つが、スピン転移も構造相転移も起こさない。

 以前のVertes等の陽電子寿命測定で、これら(Zn,Fe)の錯塩で共に、ortho-Ps(o-Ps)の寿命がスピン転移とは異なる120K〜170Kの温度領域で大きく変化していることが見いだされた。このような変化は、その他の測定法では現れていない。そこで、この原因を調べるため、2D-ACARにより運動量分布の測定を行った。その結果、対応する運動量分布の温度変化が検出された。図4に[Zn(ptz)6](BF4)2の30Kと290Kにおける2D-ACARの異方性を示す。この変化は、2D-ACARの磁場依存性の測定によって、図5に示すようなPsの運動量分布の変化によるものであることがわかった。これにより、Ps波動関数の空間分布について知ることができるが、それは低温ではc軸に垂直な方向に狭く分布しているが、室温では広く分布するようになることがわかった。また、PsはZn,Fe両錯塩中で同じサイトにいて、同様の変化をすることもわかった。

 この変化は、今まで観測されていない、新しい局所的な構造変化を反映したものと考えられる。スピン転移に伴う[Fe(ptz)6](BF4)2のR⇔Pの相転移は、急冷実験によって、スピン転移のトリガーではないことがわかっている。今回発見した構造変化がそのトリガーである可能性がある。

図4:[Zn(ptz)6](BF4)2の2D-ACARの異方性図5:[Zn(ptz)6](BF4)2中のPsの運動量分布
審査要旨

 本論文は4章より成り、第1章は序論であり、第2章では開発した実験装置について述べられ、第3・4章では、それを用いた絶縁体中のポジトロニウムの運動量分布に関する実験結果を述べており、第5章は結論である。

 陽電子消滅2光子角相関法(ACAR)は電子・陽電子対の消滅で生じた2つの線の放出角(〜±z軸)の180°からのわずかなずれの分布を測定することにより、電子・陽電子対の全運動量の分布関数の2次元投影f(px,py)を得る方法である。従来広く行われている1次元角相関法(1D-ACAR)では、分布関数の1次元投影g(px)が得られるだけであった。

 論文提出者は新方式の2次元角相関(2D-ACAR)計測系を開発し、絶縁体中におけるポジトロニウム(Ps)の運動量分布を測定し、その存在状態に関する新しい知見を得た。

 線の到達位置を検出する2次元位置検出器(2D-PSD)は、2.2×2.2×15mm3の細長いBGOシンチレータをピッチ2.5mmで25×21=525本束ねたものと、市販の位置敏感光電子増倍管で構成され、高い検出効率30〜40%と高い位置分解能2.7mmを実現した。2台の2D-PSDを正対させ、その中央に陽電子線源と試料を置き、広い運動量領域をカバーするため、一方の2D-PSDを水平面内で、他方を鉛直方向に移動可能になっている。試料は小型冷凍機により室温から15Kまで冷却でき、Psの消滅機構を人為的に制御するため1.6Tまでの磁場を加えることができる。計測はパーソナルコンピュータで制御され、2D-PSDの走査の仕方、測定時間、磁場強度(複数)を設定すると、これらのパラメータを自動的に変えながら測定を繰り返すようにプログラムされ、データはリストモードで蓄積される。

 次に論文提出者は、この装置を用いて、アルカリハライド中のPsの存在状態を調べた。低温のアルカリハライド中ではPsがブロッホ波状態で存在する(非局在)ことが知られており、その運動量分布は、p=0に鋭いピーク(センターピーク)をもつとともに、単位胞内のPs波動関数の形に応じて、逆格子点にサテライトピークをもつ。アルカリハライドの構造から、逆格子点の指数h,k,lがすべて偶数あるいはすべて奇数である格子点にはピークが現れ得るが、KIとNaIの1D-ACARにより、h,k,lがすべて奇数のサテライトが現れないことが指摘されていた。

 今回の2D-ACAR測定により、KIにおいて奇指数の(1,1,n)、(3,1,n)サテライトが初めて観測された。また、1D-ACARでは(2,m,n)と重なって識別できなかった(2,2,n)サテライトも観測することができた。これらの結果は、アルカリハライド中のPsの波動関数に強い制限を与えることになり、その理論計算の精密化を促すこととなった。

 さらに、論文提出者は、スピンクロスオーバ錯塩中のPsの存在状態を調べた。[Fe(ptz)6](BF4)2では、2価Feの6個の3d電子は、配位子場で分裂した準位の下準位を占める低スピン(LS)状態とHund則に従って占める高スピン(HS)状態の間を温度、圧力などの外的要因に応じて遷移する(スピンクロスオーバ(SCO)転移)。これと同型の構造をもつ[Zn(ptz)6](BF4)2では10個の電子が全ての3d準位を占めるため、この転移は見られない。

 Fe錯塩は、130K以下でLS状態、以上でHSとなる。これに応じて、Fe錯塩中のPsの寿命が急激に変化することが知られている。このSCO転移による変化とは別に、Fe錯塩とSCO転移しないZn錯塩とに共通に、120〜200KにかけてPs寿命の緩やかなステップ状の変化が見られるが、1D-ACARで観測したc軸に投影された運動量分布には対応した変化は見られない。

 論文提出者は、2D-ACARにより、a軸に垂直な面に投影されたPsの運動量分布を測定し、c軸方向の運動量の広がりは変化しないが、a*軸(a,c両軸に垂直)方向の運動量の広がりが、低温で大きく、高温で小さくなることを見いだした。この変化は、Psが局在する空間の形・大きさの微少な変化を反映しており、それによる配位子場の変化がSCO転移のトリガーとなっていることの可能性を指摘した。

 以上述べたように、本論文は、新方式の2次元角相関計測システムを開発するとともに、絶縁体中のポジトロニウムの存在状態について新たな知見をもたらした。なお、本論文の内容は、指導教官らとの共同研究であるが、装置の製作、実験・解析における論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54001