レーザーの超短パルスにより光励起された半導体中には、温度の定義できない非平衡な電子の分布が生成される。このような分布はキャリア-キャリア散乱と同程度の速さで緩和する。また、その形状は散乱メカニズムによって決まる。このため、非平衡なキャリア分布の緩和過程を調べることにより、キャリアの散乱過程に関する知見を多く得る事ができる。また、エネルギー的に励起光に近いところ及び励起光のエネルギーより高いところ(反ストークス側)でのホットルミネッセンスを時間分解測定すれば、後述する発光分光法の有利さのため、非平衡分布の緩和過程及び熱いキャリアの冷却過程をつぶさに観察する事ができる。 このような緩和過程はサブピコ秒から数フェムト(10-15)秒程度までの領域の超高速な現象を含んでいるため、レーザーの超短パルスを用いた時間分解分光法による研究が必須である。キャリアの分布の時間変化を調べるためには、吸収あるいは発光(ルミネッセンス)の時間変化を調べなければならない。ところが、吸収を用いると半導体の価電子帯の複雑さのため得られたデータの解釈が明快ではない。一方、発光を用いればホールの緩和の速さを利用することにより電子の分布を直接観測する事ができる。そこで、超短パルス光のパルス幅程度の時間分解能で発光を観測できる方法として、現在最も優れていると考えられるアップコンバージョン法を採用し、そのための装置を作製した。 これまでのところ発光の時間分解分光法により研究されているのは主にGaAsとInPである。これらの物質のバンドギャップは用いられた光のエネルギーと同程度であるため、高エネルギーなキャリアが生成されない。このため、反ストークス側の発光の観測は困難であり、バンド端に近いところに分布した電子からの発光のみが得られている。これはモンテカルロ法による多くのパラメーターを用いたシミュレーションにより再現されているが、キャリアの緩和を反映する発光の時間変化は多くの過程の結果であるため、各パラメーターの正確さには疑問が残る。そこでわれわれはInAsを試料に採用した。この半導体はバンドギャップが比較的小さいため、光励起により非常にホットな電子を生成することができ、反ストークス側の発光も観測されることが期待される。このため、広いエネルギー範囲で発光を時間分解することができ、GaAsやInPよりも多くの情報を得る事ができるはずである。さらに励起レーザー光のエネルギーに近い発光をも時間分解できる。このため、従来吸収でのみ観測されていた非平衡分布を発光で観測できるはずである。また、緩和過程の速さはキャリアの状態密度でほぼ決まり、状態密度の大なるものほど速い緩和が見られるが、InAsの伝導電子の状態密度はGaAsやInPよりもかなり小さいため、緩和は遅くなると期待される。このため、GaAsやInPにおける吸収の観測では速すぎて不明瞭であった非平衡分布の緩和過程がInAsではより測定しやすい時間領域で観測されるはずである。このように、InAsを用いた実験は非平衡ホットキャリアの緩和現象の研究に非常に適していると考えられる。 アップコンバージョン法では次のようにして発光を時間分解する。レーザー光の超短パルスを2つに分け、一方を励起光として試料を励起し発光を発生させ、もう一方を時間遅延をつけたゲート光として非線型光学結晶中で発光との和周波を発生させる。これを遅延時間に対して観測することにより、強度変化する発光を時間的に切り出して観測する。実験には8WのArレーザーにより励起する自己モード同期Ti:sapphireレーザーの発生する光子エネルギー1.6eV、平均出力1W、繰り返し周波数90MHz、パルス幅80fs(フェムト秒)程度の超短光パルスを用いた。発光は2枚の軸外し放物面鏡を用いて非線型光学結晶(LiIO3)に集光される。ゲート光と発光との和周波は分光されたのち、単一光子計数装置により検出される。 光励起された直後のキャリアはバンド内で特定の波数周辺に偏って分布している。このときのキャリアのバンド内の分布関数はフェルミ分布から大きくかけ離れている。つまり温度と化学ポテンシャルだけでは記述することができない。このような分布はノンサーマルな分布といわれる。ノンサーマルなキャリアは様々な散乱過程を通じて緩和し、温度と化学ポテンシャルで記述できるサーマルな分布(フェルミ分布)になる。この過程を熱平衡化(サーマリゼーション)という。化合物半導体中では電子よりホールの方が大なる状態密度を持つ。このため、GaAsやInPやInAsではホールの方が速く熱平衡化すると考えられている。サーマルに分布したキャリアは電子とホールとのそれぞれが別々の温度をもち、それぞれの温度は格子系の温度、最終的には室温まで冷却する。この過程においても状態密度やキャリア-フォノン相互作用の選択則によりホールの方が速く冷却すると考えられている。 図1にルミネッセンスの各エネルギーにおける時間変化の測定結果を遅延時間に対する単位時間当たりに計測された光子数としてプロットした(点)。0.9eVから2.15eVまでの全エネルギーに対して、発光はまず最初に急激に立ち上がり、数ピコ秒で減衰する。減衰の仕方はエネルギーが高いほど速く、エネルギーが低いほど遅い。また、1.2eVや1.1eVでは始めにプラトーが見られる。さらに、0.9eVにおいては始めに緩やかに増大した後減衰する。これら、ピコ秒程度の時定数で変化するルミネッセンスの成分をピコ秒成分と呼ぶことにする。励起光のエネルギー1.6eVから0.3eV程度以内では、急激な立ち上がりの後急激に減衰する成分が見られる。これをフェムト秒成分と呼ぶことにする。 ピコ秒成分は、単純な電子冷却モデルで説明することができる。この時間領域ではホールの熱平衡化と冷却が完了していると考えられるので、ホールの温度は一定と仮定する。また、価電子帯にはヘビーホールとライトホール、スプリットオフホールの3つのバンドがあるが、室温まで冷却したホールはほとんどヘビーホールバンドに存在すると考えられる。この時球対称かつ波数に対して単調増加のバンド構造を仮定するとルミネッセンスのエネルギーと電子のエネルギーは一対一に対応する。つまりあるエネルギーのルミネッセンスの時間変化はそれに該当するバンド内エネルギーを持つ電子の分布の時間変化を表すことになる。そこで電子の温度が初期温度から指数関数的に室温まで近づくとし、分布関数の時間変化を計算した。その結果をルミネッセンスの時間変化に変換したものが図1の実線である。これはピコ秒成分をよく再現している。つまり、ルミネッセンスのピコ秒領域での振る舞いは電子の冷却過程で説明できる。この計算で得られた電子の分布関数の時間変化を図2に示した。 フェムト秒成分は時定数約200fsと励起光より緩やかに減衰するのでルミネッセンスである。そのためバンド内に偏って分布した電子またはホール、あるいはその両方の存在を反映していると考えられる。過去のGaAsに関する研究から、GaAs中と同様にInAs中でも光励起されたホールは時間分解能に比べかなり短い時間で熱平衡化すると考えられる。このため、フェムト秒成分は、ホールの分布ではなく、電子の分布が偏っていることを反映していると考えられる。熱平衡化はキャリア-キャリア散乱によるので、フェムト秒成分の緩和時間は電子-キャリア散乱時間とほぼ同程度と考えられる。励起光の強度を変えて実験したところフェムト秒成分は励起光の強度つまり励起密度を高めると速く減衰するようになることがわかった。このことは、フェムト秒成分が非平衡な電子分布から生じているので、密度が高まるとキャリア-キャリア散乱レートが上がることにより電子の非平衡分布が速く緩和することから説明できる。緩和したホールと非平衡に分布した電子からフェムト秒成分が生じているとすると、励起強度依存性の実験結果が理解できる。そこで、フェムト秒成分と励起直後のピコ秒成分との強度比をとり、計算から得られた時間原点での電子の分布に乗ずることにより、励起直後の電子分布を推定すると図2白丸のようになる。この幅はヘビーホールとライトホールのエネルギー分裂の大きさ(200meV)に対応すると考えられる。 本研究では、主に研究されてきたGaAsとInPに比べバンドギャップの小さいInAsを試料に用い、現在最も優れていると考えられるアップコンバージョン法により約120fsの時間分解能で励起エネルギー周辺を含み反ストークス側まで幅広くルミネッセンスを時間分解することに成功した。これにより電子分布の時間変化を直接的に明瞭に観測することに成功した。このピコ秒成分は電子の冷却過程で説明できる。また励起エネルギー周辺にルミネッセンスのフェムト秒成分を発見し、それが非平衡に分布した電子から生じていることを明らかにした。 図1 時間分解ルミネッセンス図2 電子分布の時間変化 |