学位論文要旨



No 113218
著者(漢字) 南晴,宏之
著者(英字)
著者(カナ) ナンセイ,ヒロユキ
標題(和) InAsにおける光励起非平衡キャリアの超高速ダイナミクス
標題(洋) Ultrafast dynamics of photoexcited nonequilibrium carriers in InAs
報告番号 113218
報告番号 甲13218
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3364号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 長澤,信方
 東京大学 教授 十倉,好紀
 東京大学 助教授 秋山,英文
 東京大学 助教授 久我,隆弘
 東京大学 助教授 勝本,信吾
内容要旨

 レーザーの超短パルスにより光励起された半導体中には、温度の定義できない非平衡な電子の分布が生成される。このような分布はキャリア-キャリア散乱と同程度の速さで緩和する。また、その形状は散乱メカニズムによって決まる。このため、非平衡なキャリア分布の緩和過程を調べることにより、キャリアの散乱過程に関する知見を多く得る事ができる。また、エネルギー的に励起光に近いところ及び励起光のエネルギーより高いところ(反ストークス側)でのホットルミネッセンスを時間分解測定すれば、後述する発光分光法の有利さのため、非平衡分布の緩和過程及び熱いキャリアの冷却過程をつぶさに観察する事ができる。

 このような緩和過程はサブピコ秒から数フェムト(10-15)秒程度までの領域の超高速な現象を含んでいるため、レーザーの超短パルスを用いた時間分解分光法による研究が必須である。キャリアの分布の時間変化を調べるためには、吸収あるいは発光(ルミネッセンス)の時間変化を調べなければならない。ところが、吸収を用いると半導体の価電子帯の複雑さのため得られたデータの解釈が明快ではない。一方、発光を用いればホールの緩和の速さを利用することにより電子の分布を直接観測する事ができる。そこで、超短パルス光のパルス幅程度の時間分解能で発光を観測できる方法として、現在最も優れていると考えられるアップコンバージョン法を採用し、そのための装置を作製した。

 これまでのところ発光の時間分解分光法により研究されているのは主にGaAsとInPである。これらの物質のバンドギャップは用いられた光のエネルギーと同程度であるため、高エネルギーなキャリアが生成されない。このため、反ストークス側の発光の観測は困難であり、バンド端に近いところに分布した電子からの発光のみが得られている。これはモンテカルロ法による多くのパラメーターを用いたシミュレーションにより再現されているが、キャリアの緩和を反映する発光の時間変化は多くの過程の結果であるため、各パラメーターの正確さには疑問が残る。そこでわれわれはInAsを試料に採用した。この半導体はバンドギャップが比較的小さいため、光励起により非常にホットな電子を生成することができ、反ストークス側の発光も観測されることが期待される。このため、広いエネルギー範囲で発光を時間分解することができ、GaAsやInPよりも多くの情報を得る事ができるはずである。さらに励起レーザー光のエネルギーに近い発光をも時間分解できる。このため、従来吸収でのみ観測されていた非平衡分布を発光で観測できるはずである。また、緩和過程の速さはキャリアの状態密度でほぼ決まり、状態密度の大なるものほど速い緩和が見られるが、InAsの伝導電子の状態密度はGaAsやInPよりもかなり小さいため、緩和は遅くなると期待される。このため、GaAsやInPにおける吸収の観測では速すぎて不明瞭であった非平衡分布の緩和過程がInAsではより測定しやすい時間領域で観測されるはずである。このように、InAsを用いた実験は非平衡ホットキャリアの緩和現象の研究に非常に適していると考えられる。

 アップコンバージョン法では次のようにして発光を時間分解する。レーザー光の超短パルスを2つに分け、一方を励起光として試料を励起し発光を発生させ、もう一方を時間遅延をつけたゲート光として非線型光学結晶中で発光との和周波を発生させる。これを遅延時間に対して観測することにより、強度変化する発光を時間的に切り出して観測する。実験には8WのArレーザーにより励起する自己モード同期Ti:sapphireレーザーの発生する光子エネルギー1.6eV、平均出力1W、繰り返し周波数90MHz、パルス幅80fs(フェムト秒)程度の超短光パルスを用いた。発光は2枚の軸外し放物面鏡を用いて非線型光学結晶(LiIO3)に集光される。ゲート光と発光との和周波は分光されたのち、単一光子計数装置により検出される。

 光励起された直後のキャリアはバンド内で特定の波数周辺に偏って分布している。このときのキャリアのバンド内の分布関数はフェルミ分布から大きくかけ離れている。つまり温度と化学ポテンシャルだけでは記述することができない。このような分布はノンサーマルな分布といわれる。ノンサーマルなキャリアは様々な散乱過程を通じて緩和し、温度と化学ポテンシャルで記述できるサーマルな分布(フェルミ分布)になる。この過程を熱平衡化(サーマリゼーション)という。化合物半導体中では電子よりホールの方が大なる状態密度を持つ。このため、GaAsやInPやInAsではホールの方が速く熱平衡化すると考えられている。サーマルに分布したキャリアは電子とホールとのそれぞれが別々の温度をもち、それぞれの温度は格子系の温度、最終的には室温まで冷却する。この過程においても状態密度やキャリア-フォノン相互作用の選択則によりホールの方が速く冷却すると考えられている。

 図1にルミネッセンスの各エネルギーにおける時間変化の測定結果を遅延時間に対する単位時間当たりに計測された光子数としてプロットした(点)。0.9eVから2.15eVまでの全エネルギーに対して、発光はまず最初に急激に立ち上がり、数ピコ秒で減衰する。減衰の仕方はエネルギーが高いほど速く、エネルギーが低いほど遅い。また、1.2eVや1.1eVでは始めにプラトーが見られる。さらに、0.9eVにおいては始めに緩やかに増大した後減衰する。これら、ピコ秒程度の時定数で変化するルミネッセンスの成分をピコ秒成分と呼ぶことにする。励起光のエネルギー1.6eVから0.3eV程度以内では、急激な立ち上がりの後急激に減衰する成分が見られる。これをフェムト秒成分と呼ぶことにする。

 ピコ秒成分は、単純な電子冷却モデルで説明することができる。この時間領域ではホールの熱平衡化と冷却が完了していると考えられるので、ホールの温度は一定と仮定する。また、価電子帯にはヘビーホールとライトホール、スプリットオフホールの3つのバンドがあるが、室温まで冷却したホールはほとんどヘビーホールバンドに存在すると考えられる。この時球対称かつ波数に対して単調増加のバンド構造を仮定するとルミネッセンスのエネルギーと電子のエネルギーは一対一に対応する。つまりあるエネルギーのルミネッセンスの時間変化はそれに該当するバンド内エネルギーを持つ電子の分布の時間変化を表すことになる。そこで電子の温度が初期温度から指数関数的に室温まで近づくとし、分布関数の時間変化を計算した。その結果をルミネッセンスの時間変化に変換したものが図1の実線である。これはピコ秒成分をよく再現している。つまり、ルミネッセンスのピコ秒領域での振る舞いは電子の冷却過程で説明できる。この計算で得られた電子の分布関数の時間変化を図2に示した。

 フェムト秒成分は時定数約200fsと励起光より緩やかに減衰するのでルミネッセンスである。そのためバンド内に偏って分布した電子またはホール、あるいはその両方の存在を反映していると考えられる。過去のGaAsに関する研究から、GaAs中と同様にInAs中でも光励起されたホールは時間分解能に比べかなり短い時間で熱平衡化すると考えられる。このため、フェムト秒成分は、ホールの分布ではなく、電子の分布が偏っていることを反映していると考えられる。熱平衡化はキャリア-キャリア散乱によるので、フェムト秒成分の緩和時間は電子-キャリア散乱時間とほぼ同程度と考えられる。励起光の強度を変えて実験したところフェムト秒成分は励起光の強度つまり励起密度を高めると速く減衰するようになることがわかった。このことは、フェムト秒成分が非平衡な電子分布から生じているので、密度が高まるとキャリア-キャリア散乱レートが上がることにより電子の非平衡分布が速く緩和することから説明できる。緩和したホールと非平衡に分布した電子からフェムト秒成分が生じているとすると、励起強度依存性の実験結果が理解できる。そこで、フェムト秒成分と励起直後のピコ秒成分との強度比をとり、計算から得られた時間原点での電子の分布に乗ずることにより、励起直後の電子分布を推定すると図2白丸のようになる。この幅はヘビーホールとライトホールのエネルギー分裂の大きさ(200meV)に対応すると考えられる。

 本研究では、主に研究されてきたGaAsとInPに比べバンドギャップの小さいInAsを試料に用い、現在最も優れていると考えられるアップコンバージョン法により約120fsの時間分解能で励起エネルギー周辺を含み反ストークス側まで幅広くルミネッセンスを時間分解することに成功した。これにより電子分布の時間変化を直接的に明瞭に観測することに成功した。このピコ秒成分は電子の冷却過程で説明できる。また励起エネルギー周辺にルミネッセンスのフェムト秒成分を発見し、それが非平衡に分布した電子から生じていることを明らかにした。

図1 時間分解ルミネッセンス図2 電子分布の時間変化
審査要旨

 本論文は、アルゴンイオンレーザー励起の自己モード同期Ti:Sapphireレーザーからの時間幅約80フェムト秒の光パルスを光源とした超高速レーザー分光法によって、半導体InAsにおける光で励起されたキャリア(主として伝導電子)の高速緩和機構に関する実験的研究を5章からなる英文でまとめたものである。

 この種の研究はこれまでGaAsなどに関して過渡吸収スペクトルの測定によって試みられたことがある。しかし、入射光の光子エネルギーがバンドギャップエネルギーに近く、十分に高いエネルギーをもつ熱いキャリアを作ることはできず、また、状態密度が高い領域を励起するためにキャリアの緩和速度も速い関係で、可能な時間分解能の範囲で熱平衡に達する前のキャリアの動的過程を詳しく論じるに足る実験結果は得られなかった。

 本研究ではこの問題をより詳しく探究するために、試料としてInAsを選んだ。この物質はバンドギャップが小さく、光で高いエネルギーをもったキャリアを作るのに適している。また、そのエネルギー領域での状態密度が小さく、従って、緩和時間も長く、光励起後のキャリアの動的挙動を時間的に追える可能性がある。また、本研究では、励起されたキャリアの再結合発光と入射光の一部(ゲート光と呼ばれている)を非線形結晶に導き、そこで新たに発生するそれらの和周波に相当する波長をもつ非線形光学信号の観測から、その発光を起こしているキャリアの挙動を観測する方法を採用している(アップコンバージョン法)。一般に正孔の有効質量は重く、状態密度が高いため、電子に比べると速く緩和し、重い正孔が主に電子との再結合に寄与することが期待できる。このため発光のアップコンバージョン法による測定が過渡吸収より利点が多いと考えられる。第1章の序論では、以上の様な視点から、本研究で採用した方法と関連する過去の研究に関する解説がなされている。

 第2章は、アップコンバージョン法の原理と実験法の解説がなされている。特に本研究では発光を効率良くゲート光とあわせ非線形信号を得るために、微妙な調整を要する2枚の軸はずし放物面鏡光学システムを使用している。これは本研究で開発された技術ではないが、本研究の遂行には不可欠なものとなっている。実験はすべて室温の試料について行われた。

 第3章は本研究に必要な理論的背景が解説されている。特に光で瞬間的に作られたキャリアが、ある準熱平衡状態に達する過程において、どのような微視的な散乱過程が寄与しうるかという観点から、InAsに関する考察が延べられている。

 第4章では実験結果の記述とそれに関する考察がなされている。得られた結果の要点を次に列挙する。

 1)励起光の光子エネルギー1.60eVに対して、励起電子の再結合発光の2.15eVから0.9eVの領域相当する非線形素子からの混合光の強度の時間変化を、0から6ピコ秒の時間範囲で精度良く測定することに成功した。特に本研究では、入射光子のエネルギーより高いエネルギーに励起される(反ストークス側)電子による信号を得るのに初めて成功している。

 2)得られた信号の時間変化には、二つの大きな特徴がみられた。最も顕著なものは、入射レーザーのエネルギーに近い波長領域にフェムト秒領域でしかしレーザー光より遅く減衰する鋭い構造が時間変化にみられることである。本論文では正孔の緩和時間が十分速いという状況を仮定したうえで、これは光で励起された電子が電子系として熱平衡に達する前の分布を反映したものであるとの解釈をしている。この状況の持続する寿命として、たとえば1.35eVの発光をもたらす電子に対して約200フェムト秒を得ている。

 一方、得られる信号には広い発光のエネルギー領域でピコ秒領域で変化するものがみられることがわかった。本研究ではこの成分の時間変化は正孔がいちはやく熱平衡に達した後、電子の温度も次第に指数関数的に冷えていくことによると考えた。この考えに立って電子の分布を適当な仮定のもとで計算し、実験結果を定性的に再現することに成功している。実験との比較から電子系の温度の減衰時間として2.3ピコ秒を得ている。

 以上のように本研究は、適当な試料を選択することによって、これまで十分に実現できなかった熱い電子系の緩和の機構を時間を追って精度良く観測する方法を実践したものであり、特に精度のよい測定結果を提供したことは大いに評価できる。

 なお、本研究は指導教官を含めた共同研究の形で行われているが、実験の遂行、結果の解析、など本人の寄与が本質的であることが認められた。よって、本論文をもって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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