学位論文要旨



No 113219
著者(漢字) 三宅,隆
著者(英字)
著者(カナ) ミヤケ,タカシ
標題(和) 結晶シリコン中ミュオニウムの量子状態の第一原理的研究
標題(洋) First-principles study of the quantum state of muonium in crystalline silicon
報告番号 113219
報告番号 甲13219
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3365号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 高田,康民
 東京大学 助教授 青木,秀夫
 東京大学 助教授 河野,公俊
 東京大学 教授 小谷,章雄
 東京大学 教授 生井澤,寛
内容要旨

 半導体中で不純物は母体元素と強く相互作用し、格子緩和と電子状態変化の絡み合った多様な現象をひきおこす。とりわけ水素不純物の振舞いは、半導体物理の基礎として長年研究されてきたが、1980年代に相次いで発見された不動態化は、半導体の電気的・光学的性質を改善するための工業上の重要性をこの問題に加えた。水素不純物の研究はこれまで数多くなされてきたが、原子状不純物に関していえば、実験上の困難から直接的な情報がほとんど得られていない。近年、陽子と同じ電荷をもつミュオンを結晶に注入し、SRにより観測する技術が発展した。半導体中でミュオンが電子を一つ捕獲した擬似元素であるミュオニウム(Mu)は、水素原子の同位体とみなせる。また、ミュオンの短い寿命(約2.2sec.)のためミュオニウムは希薄な不純物であると考えられる。そのため、ミュオニウムは、原子状水素不純物を調べる理想的な代用品として、広く研究されている。

 さて、水素のような軽い元素が結晶中にある場合、零点振動エネルギーは典型的に0.1eV以上にもなり、量子効果がしばしば重要になる。水素結合系の構造相転移における大きな同位体効果はその一例であると考えらている。ミュオニウムでは、より小さな質量(水素原子の約1/9)ゆえに量子効果はさらに増幅されるはずである。従って、半導体中のミュオニウムを論じる際には、量子力学的な効果を考慮することが必要である。本研究では、その代表例であるシリコン結晶中のミュオニウムの量子状態を、第一原理計算に基づいて検討する。

GGAによるポテンシャル面の再検討

 シリコン中ミュオニウムでは、実験的に三つの安定状態が観測される。このうち、低温では大部分が二種類の中性状態である。そのひとつである異常ミュオニウムは、隣接するシリコン原子の結合を押し広げて、その中央(BCサイト)に入ったものであるとするBCモデルが確立されている。もう一方の安定状態である正常ミュオニウムは、超微細相互作用が等方的であることから、シリコン原子のつくるダイヤモンド格子のかごの中心である四面体格子間位置(Tサイト)にいることが推定されている。低温では両者はほぼ同数存在するが、温度上昇とともに異常ミュオニウムは約140Kで、また正常ミュオニウムは約270Kでイオン化する。これより高温では、荷電状態変化と占有位置の変化の絡み合った循環的な転移が高速に起こっていると考えられている。

 過去の理論計算の中で最も信頼性の高い密度汎関数法(DFT)に局所密度近似(LDA)を組み合わせた第一原理計算によれば、BCサイトは安定点であり異常ミュオニウムに対するBCモデルに符合する。ところが、Tサイトはミュオニウム/水素の感じるポテンシャル面の不安定点であるばかりか、BCサイトとTサイトの間にはエネルギー障壁が存在しない。そのため、理論的には正常ミュオニウムの実体は、その存在まで含めて未解明である。

 近年、LDAでは化学結合を切る際の活性化障壁が過小評価されることがわかってきた。また、一般化密度勾配近似(GGA)が状況を改善することが分子における系統的な計算などで確かめられている。そこで、我々は、格子間領域におけるミュオニウムの安定性を調べるために、GGAに基づいてポテンシャル面を再検討した。その結果、GGAによるポテンシャル面には、BCサイトと格子間領域の間にエネルギー障壁があることがわかった。この障壁は、ミュオニウムとシリコンの共有結合との距離が1.0Å程度のところに位置する。このあたりでSi-Si共有結合長やSi-Mu間距離が大きく変わることから、エネルギー障壁はシリコン-ミュオニウム間の化学結合の生成に伴うものであると考えられる。この障壁は0.1eV程度であり、実験が通常行なわれる室温以下での熱エネルギーよりも大きい。また、ミュニウムの零点振動効果は、空間的に広い格子間領域に有利に作用すると考えられる。そのため、ミュオニウムは低温で格子間領域に安定に存在すると考えられる。

 しかしながら、TサイトそのものはGGA計算でも不安定点である。さらに、格子間領域のポテンシャル面は、期待される熱・量子ゆらぎのエネルギースケールで見た時に非調和性が強く、また格子緩和により変形されるので、実際にミュオニウムがどこに存在するかという問題は単純ではない。

ミュオニウムの量子状態

 ミュオニウムの量子状態を求める最も直接的な方法は、(i)ポテンシャル面を第一原理計算で求め、(ii)このポテンシャルで相互作用する量子系のハミルトニアンを対角化し、(iii)各固有状態をボルツマンの重みで平均する、ことである。しかしながら、格子の自由度まで含めた多変数空間で、(i)や(ii)を実行するのは不可能である。これに代わる効率的な方法として、第一原理経路積分分子動力学法が近年開発された。この方法では、原子核の量子状態を経路積分により古典的に表示し、多重積分で表される多変数の量子・熱ゆらぎを分子動力学法によるサンプリングで見積もる。サンプリングのおかげで対角化法に比べて計算量が大幅に削減されるが、それでも典型的に数万の異なった原子配置に対する第一原理計算が必要であり、計算は非常に大規模である。我々の計算では、超並列計算機である日立SR2201を128プロセッサー使用したが、一つのシミュレーションあたり約1カ月を要した。なお、我々の計算は固体物理学においてDFT-LDA/GGAによる原子間相互作用に基づいて全ての核を同等に量子的に取り扱った初めての試みである。

 我々は、格子間領域におけるミュオニウムの温度200Kにおける量子状態を求めた。また、比較のため、核の量子効果を無視した通常の第一原理分子動力学計算も行なった。その結果、ミュオニウムの空間分布が量子効果により全く異なったものになることがわかった(図)。量子効果を無視した場合、ミュオニウムは、Tサイトから離れたところに分布する。これは、Tサイトがエネルギー面の不安定点であり、200Kの熱エネルギーではそこに到達できないことに対応している。一方、量子効果を考慮すると、ミュオニウムの分布はTサイトのまわりに高い密度を持つものに変わる。この変化は、顕著な零点振動効果により、ミュオニウムが空間的に広いシリコンのかごの中心付近を好むためであると解釈できる。この結果に基づいて我々は、正常ミュオニウムの実体として、量子効果によりTサイトに強く分布するという新しい描像を提出した。実験との直接的な比較は、得られた分布に対する超微細相互作用の計算を待たなければならない。しかしながら、過去の計算によれば、ミュオニウムをTサイトに固定した場合に得られる値が正常ミュオニウムの実験値と近いため、我々の分布もおおいに期待が持てる。

 また、不純物を水素原子に変えたところ、Tサイト近傍の分布確率は大きく減少し、古典粒子の場合に近い振舞いが見られた。これは、ミュオニウムでは分布に対して決定的な役割を担う零点振動効果が、水素の場合には重い質量のために弱められ、それに代わってポテンシャル・エネルギーが分布に対して支配的になるためと考えられる。従って、原子状水素不純物では、ミュオニウムと異なった振舞いが期待される。

図1:温度200KにおけるTサイトとミュオニウムの距離の分布関数。実線:核を古典的に取り扱った場合、点線:量子的に取り扱った場合。量子的な計算の2本の線はファインマン経路を表す離散点数が異なったもの(16と32)に対する結果。

 結晶中のミュオニウムは、格子と相互作用のある量子的な粒子の典型的な例とみなせる。正常ミュオニウムで見られた顕著な量子効果は、他領域に比べて平坦な格子間領域のポテンシャル面が、ミュオニウムの零点振動のスケールで見た時に強い非調和性を持つことに起因すると考えられる。母体の化学種を置き換えたり圧力をかけるなどしてポテンシャル面を変形させたり、あるいは、温度や同位体を変えることで熱的・量子的なゆらぎを変化させるといった系統的な研究が、今後期待される。

審査要旨

 結晶中の水素不純物の問題は半導体物理学における基礎であると同時に,半導体の工業的な応用にも関連しており,重要である.修士(理学)三宅隆提出の学位請求論文においては,直接観測が容易でない水素よりもそれが可能なミュオニウム(水素原子における陽子をその質量が約のミュオン+に置き換えたもの)に焦点が合わせられ,そのミュオニウムの結晶シリコン中での不純物としての振舞いが量子統計力学に基づく第一原理経路積分分子動力学法を用いて解析され,ポテンシャルエネルギーと運動エネルギーの相克による量子効果の重要性が指摘された.そして,シリコン結晶格子中の四面体格子間位置(Tサイト)におけるミュオニウムの状態に対して新たな視点が与えられた.

 さて,英文で5つの章からなる本論文の第1章では,まず,半導体中の水素不純物は,その見かけの単純さとは異なり,母体に局所的な格子緩和とそれに絡み合う電子状態変化を引き起こす興味深い研究対象であることが説明される.次いで,結晶シリコン中での実験結果を例としながら,その現象の解明にはSRによる観測が可能なミュオニウムが役に立つことが述べられる.更に,水素をミュオニウムにすることで,ゼロ点振動という量子効果がより明確に研究できる利点が強調される.

 次に第2章では,結晶シリコン中でのミュオニウムについて,これまでの理論研究,とりわけ,密度汎関数法に基づく最新のバンド計算法による結果が批判的に詳細に説明される.議論を要約すれば,ミュオンに対する断熱ポテンシャルエネルギー面という考え方では,シリコン原子間の共有結合中心位置(BCサイト)におけるミュオニウムの状態についてはSRの実験結果とよく符合する計算結果が得られるものの,実験でTサイトに位置するものと考えられているミュオニウムの状態については,そもそも,そこがポテンシャルの極大点であるという大きな矛盾にぶつがるということである.そして,この矛盾の解明が本論文の中心課題であることが説明される.

 このような問題意識の上に立って,第3章では,断熱近似を越えて,ミュオンも量子力学的な粒子であるということを取り入れた計算法が紹介される.これは基本的に経路積分法によって分配関数Zを計算するものであるが,その際,まず,もとの量子系での自由度を増やして古典系に写像し,そして,写像された古典系においては分子動力学法を用いてZを計算することになる.この手法の原理そのものは既によく知られているものではあるが,プログラム・コードを完成させる上でパラレル処理を施すなど随所に最新の工夫がなされている.なお,実際の計算量は膨大であり,そのため,中間状態に現れる各イオン配置における電子状態については,第一原理のバンド計算による基底状態しか考えないという簡単化が行われ,また,ミュオンや各シリコンイオンについては分子動力学実行上の全過程にわたって粒子交換が起こらないという仮定の上に立った処理がなされている.後者については特に問題がないかもしれないが,前者についてはミュオニウムのイオン化エネルギー(270K)が考えている温度(T=200K)に近いことから,将来,検討を要する問題である.

 第4章では,前章で導入された方法を結晶シリコン中でのミュオニウム及び水素に適用して得られた結果が紹介される.その中で注目すべきことは,Tサイト近傍のミュオニウムを表現する波動関数はシリコンの四面体格子間隙中をTサイトを中心として大きく拡がっていることである.これに対して,ゼロ点振動エネルギーの小さな水素を表現する波動関数については,オフサイトの位置に局在したものが得られている.

 最後に,本論文の第5章では,得られた結果が要約され,将来の問題,特に,BCサイトにおけるミュオニウムの量子効果が言及されている.なお,本論文の末尾にある3つの補遺では,密度汎関数法の基本原理や局所密度近似,一般化された密度勾配近似などが紹介されると同時に,具体的な数値計算における誤差の評価が記されている.

 以上,各章を紹介しながら,本論文の物理学への貢献点,特に,結晶シリコン中のミュオニウムにおける大きなゼロ点振動を伴う量子状態出現を示唆する計算結果について解説した.その量子状態のより詳細な解析は今後に委ねられるものの,計算技法・結果ともに,学位論文として充分な水準にあることが審査員全員によって認められ,博士論文として合格であると判定された.なお,本論文の内容は常行真司氏や荻津格氏との共著としてPhysical Review Letters誌やPhysical Review B誌に投稿予定となっている.そして,これらの論文の第一著者である論文提出者が主体となって計算及び結果の解釈を行ったものであり,論文提出者の寄与が十分であると判断される.また,この件に関して,常行氏や荻津氏からの同意承諾書が提出されている.

 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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