将来のナノスケールデバイスへの応用を視野に入れ、固体表面上の原子細線の作成とその物性評価が近年注目を集めている。例えば、橋詰らは走査型トンネル顕微鏡(STM)を用いて水素終端Si(100)表面から水素を引き抜き、生成したダングリングボンド上にガリウム原子を吸着させることにより原子細線を構成できることを報告した[1]。また、この系においてガリウムの吸着量を調節することにより電気的性質を制御できる可能性が渡邉らにより理論的に指摘されている。[2]更に、渡邉らは特定の構造のGa原子細線のバンド構造に電子に半分占有された部分的に平坦なバンドが現われることから、この系でいわゆる「平坦バンド強磁性」[5]が実現している可能性を提唱した。[3]渡邉らはこの系を強束縛モデル化し、市村らは電子相関効果を考慮に入れてこのモデルの磁気的性質を検討した。市村らは厳密な平坦バンドが現れるようにパラメータを選んだ場合、このモデルは任意の大きさのオンサイトクーロン反発Uで強磁性状態が基底状態となることを厳密対角化計算により示した。[4] このように、固体表面上の原子細線は様々な物性を示す可能性を持っているが、望ましい性質を持った原子細線を得るための理論的な指導原理は現在のところ存在しない。そこで我々は原子細線の示す性質の化学的傾向を調べることを目的に、ヒ素原子およびアルミニウム原子を用いて原子細線を構成した場合の安定構造と電子状態について、局所密度勾配法及び擬ポテンシャル近似を用いた第一原理計算によって検討を行った。 計算のモデルは次のように構成した。水素終端Si(100)2×1表面をシリコン5層から成るスラブ模型によって表し、表面上の各Siダイマーから水素を1個引き抜いて生成したダングリングボンド列(図1(a):以下type-IDB列と表記する)及び各ダイマーから水素を2個引き抜いて生成したダングリングボンド列(図1(b):以下type-IIDB列と表記する)を考えた。これらのダングリングボンド列のまわりにAs原子及びAl原子を配置し原子細線のモデルとした。それぞれの場合について数通りの初期配置を考え、その初期配置から構造を緩和させて準安定構造を得た。すべての場合においてSiダイマー:ドーパント=1:1とした。 計算結果の結果いくつかの準安定構造と対応するエネルギーバンド構造が得られた。計算結果を相互に比較し、また渡邉らによるGa原子細線の計算結果と比較した結果以下のような特徴が見出された。1)渡邉らによるGa原子細線の場合と同様に、我々が検討した範囲ではAs原子細線もAl原子細線もほとんどすべての構造が半導体的ないし半金属的となった。これらの結果から、AlやGaといった金属原子を基板表面上に配列しても、必ずしも伝導性を持つ原子細線ができるわけではないことがわかる。これらの結果から伝導性のある原子細線を構成するにはドーパントの密度を向上させるか、もしくはより原子半径の大きい原子を用いて原子細線を構成するなどの手段が望ましいと考えられる。2)As原子の場合にはGa原子の場合と同様ドーパントのダイマー化が起こると大きく安定化するが、Al原子の場合にはダイマー化による顕著な安定化は見られなかった。Asは非金属性が強いため他のAs原子及び基板のSi原子と結合を形成して安定化しようとする傾向が強いが、Alは金属性が強いためそのような傾向はあまり見られないものと思われる。 また、type-IDB列に沿ってにAs原子を配置した原子細線の中の最安定な造は特異的な電子状態を持つことが見出された。すなわち、このAs原子細線のエネルギーバンドに、平坦性の極めて高いバンド(バンド幅は〜0.05eV)が現れた。このAs原子細線の原子配置の模式図及びエネルギーバンド図を各々図2(a)及び図3(a)に示す。ドーパントであるAs原子と最近接のSi原子との間の距離は2.40Åであり、この距離はAs原子とSi原子との共有結合半径(As:1.17Å,Si:1.21Å)の和とほとんど正確に一致している。このことからAs原子とSi原子は共有結合で強く結合していると考えられ、この平坦バンドは単なるAs原子の基板からの孤立によって生じた自明なものではないと考えられる。 先に述べたように、渡邉らはGa原子細線の場合に部分的に平坦なバンドが現れることを報告しているが、この場合にはバンドはブリルアンゾーンの一部で平坦である。それに対して今回発見された平坦バンドはブリルアンゾーンの全域で殆ど分散を持たず、Ga原子細線の場合と比して平坦さはより顕著であると言える。また、今この平坦バンドには電子が詰まっていないが、うまく電子をドーピングすることができれば平坦バンド強磁性を実現できる可能性がある。 そこで我々は、このフラットバンドの性質と可能な磁気的性質を検討するため、この原子構造を強束縛模型化した(図4)。このモデルではAs原子及びそれに結合しているSi原子のみを残している。このモデルで平坦バンドが現れるかどうか、そして平坦バンドが現れる場合基底状態が強磁性的であるかどうかは全く自明ではない。このモデルの磁気的性質については有田らによって調べられつつあり、現在までに次のような結果が得られている。 1.パラメータ(サイトエネルギー及び飛び移り積分)を適当に調節すれば普通1本の厳密に平坦なバンドが現れる。 2.平坦バンドは一番下のバンドではなく下から2番目のバンドに現われ、平坦バンドの下には分散を持ったバンドが存在する。 3.無限小のUで強磁性状態が基底状態となるが、Uがある臨界値Ucを越えると強磁性状態は破壊される。 さらに、実際にドーピングを行なった場合に本当に電子に半分占有された平坦バンドが現れるかどうかを検証するため、As原子細線にKをドープした系の第一原理的電子状態計算を行なった。計算のモデルとして、先のAs原子細線のスラブモデルにK原子を一つ追加したモデルを考えた。K原子が単なるエレクトロンドナーとして働き、バンド構造の概要が(フェルミレベルの位置を除いて)大きく変化しなければ、平坦バンドに電子が半分充填することになる。K原子の初期配置を何通りか仮定してそこから構造緩和させ、準安定構造を得た。計算の結果得られた準安定構造のうちの最安定構造の原子配置の摸式図とエネルギーバンド図をそれぞれ図2(b)及び図3(b)に示す。エネルギーバンド図を見ると、バンドの分散は多少増したものの、依然として平坦性の極めて高いバンドが存在しており、そのバンドには電子が半分充填していることがわかる。この結果からこの系で平坦バンド強磁性が実現している可能性が提案された。 参考文献[1]T.Hashizume et al.:Jpn.J.Appl.Phys.35 L1085(1996)[2]S.Watanabe et al.:Phys.Rev.B 54 R17308(1996)[3]S.Watanabe et al.:Jpn.J.Appl.Phys.36 L929(1997)[4]M.Ichimura et al.:submitted.[5]A.Mielke and H.Tasaki:Commun.Math.Phys.158 341(1993)[6]R.Arita et al.:unpublished.図1:水素終端Si(100)表面から水素を引き抜いて生成したダングリングボンド列のスラブ模型。(a)では各Siダイマーから1個の水素が、(b)では2個の水素が引き抜かれている。Al及びAs原子細線の計算においては各セルに2個のAlまたはAs原子が付加された。図2:Kをドープする前(a)及びドープした後(b)のAs原子細線の原子構造の摸式図。図3:Kをドープする前(a)及びドープした後(b)のAs原子細線のエネルギーバンド図。点線はフェルミ準位を表す。図4:平坦バンドを持つAs原子細線の強束縛模型。黒丸はAs原子を、白丸はSi原子を表す。s,s’,s"は同種原子間の飛び移り積分を、tは異種原子間の飛び移り積分を表す。また、,は各々Si原子とAs原子のサイトエネルギーを表す。 |