学位論文要旨



No 113236
著者(漢字) 今村,剛
著者(英字)
著者(カナ) イマムラ,タケシ
標題(和) 金星大気における物質循環
標題(洋) Material Circulation in the Venus Atmosphere
報告番号 113236
報告番号 甲13236
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3382号
研究科 理学系研究科
専攻 地球惑星物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 松田,佳久
 東京大学 教授 小川,利紘
 東京大学 助教授 岩上,直幹
 東京大学 助教授 阿部,豊
 東京大学 助教授 中村,正人
内容要旨 論文の構成

 金星大気中の物質輸送は、データが限られていたこともあり、これまでのところ専ら鉛直1次元モデルの枠組の中で議論されてきた。しかし近年(Pioneer Venus以後)、地球の中層大気循環についての理解が大幅に進んだこと、Galileo衛星がフライバイの際に新たに多くの知見をもたらしたこと、近赤外域の分光画像観測で雲層の下の大気のデータが増えたことなどによって、大気大循環による物質輸送について議論できるようになりつつある。本論文では、(1)中層大気の子午面循環の中での雲層の形成、(2)その子午面循環が気象力学的にはどのような性質の循環であるか、(3)地表面に接する下層大気の循環による熱輸送、(4)上層大気において子午面循環や乱流輸送を駆動する大気重力波が放射緩和によりどのような影響を受けるか、について議論する。

子午面循環の中での雲層の形成

 これまでの観測や鉛直1次元モデルで得られている雲層の描像は、硫酸水溶液である雲粒子が雲頂で光化学的に作られ、雲粒子は沈降して高温の下層大気に達すると蒸発・分解する、というものである。しかし実際の金星の雲層においては低緯度で上昇してきて雲層を極向きに流れて高緯度で下降するような子午面循環が存在し、雲頂付近では粒径が小さい雲粒子は子午面循環の上昇流に打ち勝って沈降することができない。そのため、生成した雲粒子はほとんどが子午面循環で極向きに運ばれるはずである。

 ここでは、雲粒子の凝結&蒸発と単純化した化学反応を2次元(緯度、高度)の移流拡散モデルに組み入れたものを用いて、雲層の形成過程と大気組成分布について考察した。濃度を計算する物質はH2SO4とH2O、計算領域は高度30-70kmの半球とし、時間発展モデルで定常状態を求めた。化学過程は、硫酸の生成および分解の正味の反応を単純化した形で導入し、H2SO4とH2Oの凝結・蒸発は平衡状態を仮定して飽和蒸気圧で決め、子午面循環の場は観測と合うような単純な流線関数で与え、雲粒子の沈降速度は粒径分布の観測をもとに高度の関数として与えた。鉛直渦拡散係数は、雲層より上と下では観測から見積もられている値を用い、雲の中では対流によるかき混ぜを考慮して大きめの値を与えた。境界条件は、H2SO4については上下端とも混合比勾配ゼロ、H2Oについては下端を30ppmに固定し上端は混合比勾配ゼロとした。計算結果の一部を図1〜3に、これらの結果から得られた新しい描像を図4に示す。

図1 雲粒子(H2SO4-H2O液滴)密度の計算結果図2 H2SO4蒸気混合比の計算結果図3 各緯度での雲粒子高度分布の計算結果図4 金星大気のH2SO4循環の新しい描像

 雲頂付近で光化学的に生成した雲粒子はほとんどが子午面循環で極向きに運ばれ(図1)、やがて高緯度で下層大気に運ばれた雲粒子は蒸発してH2SO4蒸気を生成し(図2)、その一部は子午面循環によって雲層の下を赤道向きに運ばれる。低緯度で子午面循環によって上昇したH2SO4蒸気は凝結して雲粒子になる(図1)。低緯度の雲底近くでは雲粒子の沈降速度は子午面循環の上昇流より速いので、雲粒子は効果的に沈降してH2SO4の子午面循環がせき止められる。その結果として低緯度の雲底付近でH2SO4蒸気の濃度が大きくなり(図2)、濃いlower cloudが現れる(図1)。

 図3において低緯度の高度51-56kmに見られるmiddle cloudは、硫酸蒸気が雲の中の対流によって運び上げられて凝結して生成したものである。低緯度では観測と同様にupper,middle,lower cloudの存在が明瞭だが、このような計算結果を得たのは本研究が初めてのものである。

 図1では低緯度と高緯度で雲が厚くなり中緯度では相対的に薄くなっているが、このような傾向は最近の近赤外域の観測と整合的である。また、図2ではH2SO4蒸気が低緯度に濃集し、H2SO4蒸気の存在高度が低緯度で高いが、このような傾向もradio occultationによる観測と整合的である。

 このようにモデル計算結果は様々な観測結果を同時にうまく説明し、雲粒のライフサイクルや微量気体の分布が子午面循環に支配されることが初めて示された(図4)。

中層大気循環の運動量バランス

 金星中層大気において観測で示唆されているような子午面循環が存在するためには、角運動量の収支から、雲層および雲層より上の領域においてEliassen-Palm(EP)flux収束(東向き運動量の湧き出し)が必要である。本研究ではこのEP-fluxをもたらす機構を検討した。まず観測された温度分布から子午面循環の流速を見積もり、そこから(角運動量収支から必要とされる)雲頂高度での上向きEP-fluxを見積もった。その結果EP-fluxは中緯度で顕著なピークを持つことがわかり、これをもたらす候補としてロスビー波と重力波が示唆された。簡単な定量的見積りから、主にロスビー波による運動量輸送が循環を駆動するという地球成層圏に似た描像を得た(図5)。

図5 大気波動が駆動する金星の中層大気循環

 また、Pioneer Venusの長期にわたる観測で明らかになった数年スケールの変動にロスビー波の盛衰が影響していることも示唆された。すなわち、ロスビー波が駆動する子午面循環が極向きに熱を運ぶと、極-赤道間の温度コントラストが緩和され、旋向風バランスしている中緯度ジェットが弱まる。

下層大気循環の熱輸送

 下層大気の輸送の時間スケールはこれまでのところ全くわかっていない。近年Magellan探査機による地表面の風痕の観測によってハドレー循環の存在が示唆されており、下層大気においても子午面循環が主な輸送過程であると考えられる。本研究では、循環による極向き熱輸送が上層と下層の間の温位差と循環流速で決まることを使って、ハドレー循環の強さを短波・長波放射および大気安定度の観測値から推定した。推定された循環の時定数は10-20年で自転周期よりもずっと長く、夜昼間対流よりも軸対称循環が卓越していることと整合的である。ハドレー循環による鉛直熱輸送は放射による熱輸送に比べて小さいものの無視できない程度であり、このような循環による熱輸送によって下層大気が安定化されている可能性も示唆された。

上層大気における大気重力波の放射減衰

 CO215m帯の放射緩和が大気重力波および大気重力波の砕波乱流に及ぼす影響を、地球・火星・金星の上層大気について検討した。その結果、火星および金星の上層大気中で放射緩和による重力波の減衰が大きいことが明らかになった。このような領域では砕波乱流も著しく弱められ、そのぶん子午面循環による輸送の重要性が増す。また、その減衰が酸素原子密度に大きく依存することも示されたが、これは上層大気の非LTE(local thermodynamic equilibrium)領域において酸素原子がCO215m帯を衝突励起して熱放射を促進するためである。

審査要旨

 本論文は金星大気における物質循環と力学についての研究結果であり、第1章の総論を除くと、4つの章からなっている。第2章は、本論文の中心で、金星における雲の形成を議論している。第3章から第5章までは大気力学的問題を取り扱っている。つまり、第3章は金星雲層上部における運動量バランスを、第4章は金星下層大気における循環を、第5章は金星、火星、地球の上層大気における重力波の放射減衰過程を議論している。

 高度45〜70kmに存在する金星の雲が濃硫酸の雲粒子からできていることは、以前から知られていたが、その形成を鉛直1次元モデルで再現しようという試みが、比較的最近なされた。その基本的メカニズムは、硫酸水溶液である雲粒子が雲頂で光化学的に作られ、雲粒子が沈降して高温の下層大気に達すると蒸発・分解する、というものであった。しかし、1次元モデルでは、観測されている雲の光学的厚さの緯度依存性が説明できないだけではなく、雲層において存在が確認されている子午面循環の効果を取り入れることができない。今までの研究で考慮されていなかった子午面循環の効果を、2次元モデルで取り入れ、金星の雲の形成を議論した点が本研究のユニークな点である。

 本研究の2次元モデルには、雲粒子の凝結・蒸発、硫酸の生成及び分解の反応を単純化した化学反応、子午面循環による移流、拡散が取り入れられている。鉛直渦拡散係数は、観測値を採用しているが、51〜56kmでは対流の効果を考慮して、大きめの値を与えている。

 計算結果は以下のようにまとめられる。雲頂付近では光化学的に生成した雲粒子はほとんどが子午面循環で極向きに運ばれ、高緯度で下層大気に運ばれた雲粒子は蒸発して硫酸蒸気を生成し、その一部は子午面循環によって雲層の下を赤道向きに運ばれる。低緯度で子午面循環によって上昇した硫酸蒸気は凝結して雲粒子になる。低緯度の雲底付近では、雲粒子の沈降により、硫酸蒸気の濃度が大きくなり、濃いlower cloudが現われる。

 低緯度の高度51〜56kmのmiddle cloudは、硫酸蒸気が雲中の対流により上へ運ばれて、凝結して生成したものである。低緯度では、upper,middle,lowerの3つの雲を再現できたが、このような観測と似た結果を初めて得た点は、本研究の重要な成果である。さらに、計算結果では低緯度と高緯度で雲が厚くなり、中緯度では相対的に薄くなっている。又、硫酸蒸気が低緯度に濃集し、硫酸蒸気の存在高度が低緯度で高いという結果も得た。これらの結果は、2次元モデルを用いて初めて得られたものであるだけではなく、最近の観測とも整合的である。以上のように、本研究は子午面循環を考慮することによって、金星の雲の構造に関して、重要な新しい知見を得ることができた。

 第3章は、金星の雲層上部における角運動量バランスを研究したものである。子午面循環により角運動量が極向きに輸送されるので、平衡状態が成り立つためには、下部からどの位の角運動量がロスビー波などによって輸送されなくてはならないかを見積った研究である。第4章は、観測からの示唆に基づき、金星の地表面付近で子午面循環が卓越していると仮定して、子午面循環の強度を見積った研究である。2つの研究共に、断片的な研究であるきらいがあるが、今まで着目されていなかった対象の一面を巧みに捉えたユニークな研究である。

 第5章は上層大気における重力波の放射減衰を考察したものである。二酸化炭素の15ミクロン帯の放射緩和が重力波及び重力波の砕波乱流に及ぼす影響を、地球・火星・金星の上層大気について研究している。

 以上に述べたように、第2章を中心とする本論文は新しい重要な知見を金星の大気の研究にもたらすものである。なお、本論文第2章は橋本成司との、第5章は小川利紘教授との共同作業であるが、論文提出者が主として研究を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54002