学位論文要旨



No 113249
著者(漢字) 飯倉,仁
著者(英字)
著者(カナ) イイクラ,ヒトシ
標題(和) ペンタハプトフラーレン金属錯体の合成、構造と性質
標題(洋)
報告番号 113249
報告番号 甲13249
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3395号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 中村,栄一
 東京大学 教授 山内,薫
 東京大学 教授 岡崎,廉治
 東京大学 助教授 時任,宣博
 東京大学 教授 西原,寛
内容要旨

 シクロペンタジエニル(Cp)配位子は,多くの金属と錯体を形成し,その錯体は有用な触媒として幅広く利用されている.本研究ではフラーレンの持つ5員環をCp配位子とした新しい5型配位子C60Ar5-,C70R3-およびその金属錯体の合成に初めて成功すると同時に,2種類の配位子の特異な化学的性質を理論および実験的手法によって明らかにした.

 第1章では,序論としてフラーレンの構造,機能と化学修飾と方法論について述べた.同時に本研究の目的について述べた.

 第2章では,C60に対するアリール銅試薬の5重付加反応について述べた.C60と16当量のフェニル銅試薬との反応により,C60の持つ1つの5員環の周りにフェニル基が5つ付加した化合物C60Ph5H(1a)が定量的に得られることを見いだした(Scheme1).本反応では反応活性種Ph2Cu-がC60に対しScheme1に示すように段階的に付加すると考えられる.まず,1分子目のPh2Cu-がC60に付加して1,4-2重付加体2が生成し,2がもう1分子のPh2Cu-と反応して4重付加体3が生成する.3分子目のPh2Cu-は1つのPh基だけを3に対し付加し,Cp錯体4が生成する.4は後処理の段階で加水分解を受け,シクロペンタジエン体1aとして単離される.フェニル基以外のアリール基を有する5重付加体,たとえばフェニル基のパラ位に電子吸引基を有する1bや,電子供与基を有する1c,かさ高いアリール基を有する1dも高い収率で合成できた(Table1).

Scheme1Table1

 第3章では,5重付加体1aを脱プロトン化することによって得られるC60Ph5-を新たなCp配位子とした金属錯体の合成,構造決定について述べた.化合物1aは,金属アルコキシドやアミドとの反応によって対応するCp金属錯体(5-C60Ph5)MLn(MLn=K(5a),TlI(5b),CuI・CNtBu(5c),ZrIV(NEt2)3(5d),SmIII(OiPr)2(5e))へと変換することができた(Figure1).Tl錯体(5-C60Ph5)Tl・2.5THF,(5b)のX線構造をFigure2に示す.本錯体はTlIの単核錯体であり,C60の5員環は5-Cp基として作用している.C60に付加した5つのフェニル基はプロペラ状に配置し,分子全体がほぼC5対称のキラルな構造となっている.Cp基に直接結合した5つのC60骨格上のsp3炭素原子はCp基の定める平面からTl原子と反対方向に22°ずれている.

Figure1Figure2

 5型配位子C60Ph5-のCp部位は5つのsp3炭素原子に取り囲まれており,C60の残りの50ポリエン共役系から孤立している.一方で,両者は空間的に近接しており,両者の相互作用の有無に興味が持たれる.第4章では,理論および実験的手法によってCp部位と50ポリエン共役系との間にエンドヘドラルなホモ共役が存在することを証明した.

 まず,C60Ph5-K+フェニル基を水素原子で置き換えたモデル化合物C60H5-K+のab initio分子軌道計算(HF/3-21G(*),C5vの対称性を仮定)を行った.HOMO-1からHOMO-4までの4つの軌道がCp部位と50共役部位とに非局在化していることから,本分子にC60の球の内部を通じたホモ共役が存在することが明らかになった.

 理論的に示されたエンドヘドラルなホモ共役は以下に述べるような電気化学的測定によって裏付けられた.すなわち,C60Ph5H(1a)およびC60Ph5-(5)の酸化還元電位をTHF中-78℃で測定したところ,どちらの場合も2つの可逆な還元波が得られた.5の場合には可逆な酸化波も得られた.ペンタメチルシクロペンタジエンを用いた同様の実験で-3.0Vから+1.0Vの測定範囲で酸化還元波が観測されないことから,1aおよび5の還元にはいずれも50部位の寄与が大きいことがわかる.一方,5の酸化波はCpアニオンがCpラジカルへと酸化されたことに対応する.5の還元電位は1aと比較すると約0.4V負に移行している.これは前述のホモ共役を通じて5のアニオンが50部位へ拡がった結果であると解釈できる.1aの酸化還元電位を20℃で測定すると1a自身の2つの還元波に加えて5由来の還元波が観測された.5が系中で生成するのは,Scheme2に示すように1aが1電子還元を受けると50部位だけでなく,これとホモ共役しているCp部位の電子密度も増大し,Cp部位の脱水素反応が誘起されたためと解釈できる.

Scheme2

 5章の前半ではC70に対するアリールおよびメチル銅試薬との反応について述べた.フラーレンとしてC70を用いた場合,有機銅試薬との反応によって5重付加体は生成せず,3重付加体C70R3H(7)が収率良く得られた(Scheme3,Table2).3重付加体7は,有機銅試薬に対する反応性が低下しており,付加反応は進行しなかった.

Scheme3Table2

 5章の後半では3重付加体7を脱プロトン化して得られたC70R3-を配位子とした金属錯体の合成,構造決定と同時に配位子の電気化学的性質について述べた.7bの金属アルコキシドによる脱プロトン化反応で,C70の5員環がCp基として作用した金属錯体{5-C70(p-CF3C6H4)3}MLn(MLn=K(8a),TlI(8b))が得られた(Figure3).モデル化合物C70H3Kのab initio分子軌道計算(HF/STO-3G//HF/3-21G(*),CSの対称性を仮定)によるとC70の5員環のほぼ真上にカリウムイオンが位置している.また,C70の1つの5員環にはCp基特有の軌道の分布が見られる.錯体5bの予備的なX線構造解析の結果もC70の5員環がCp基となっていることを示している.

Figure3

 C70Ph3H(7a)の酸化還元電位をTHF中20℃で測定したところ,Scheme4に示すように1電子還元によってCp部位の電子密度が高くなり,脱水素反応が誘起されてC70Ph3-が系中で生成した.このようにC60Ph5-と同様,Cp基とポリエン部分との相互作用が観測されたが,C70R3-のCp基はポリエン部位と共役しているため,より強い相互作用も期待できる.

Scheme4

 7章では本研究の総括を述べた.新しい2種類の配位子C60Ar5-,C70R3-は共役ポリエン構造を持つため1電子還元を受けやすく,また還元によってCp基部分の性質は変化する.将来,本配位子による金属錯体では,電場,光のような外部刺激に応答して金属錯体の持つ反応性を制御するような機能の付与も期待できる.

審査要旨

 本論文はフラーレンの持つ5員環をCp配位子とした新しい5型配位子C60Ar5-,C70R3-およびその金属錯体の合成に初めて成功すると同時に,2種類の配位子の特異な化学的性質を理論および実験的手法によって明らかにした結果を述べたものである.

 第1章では,序論としてフラーレンの構造,機能と化学修飾と方法論について述べた.同時に本研究の目的について述べている.

 第2章はC60に対するアリール銅試薬の5重付加反応について述べている.C60と16当量のフェニル銅試薬との反応により,C60の持つ1つの5員環の周りにフェニル基が5つ付加した化合物C60Ph5H(1a)が定量的に得られることを見いだした(Scheme1).本反応では反応活性種Ph2Cu-がC60に対しScheme1に示すように段階的に付加すると考えられる.まず,1分子目のPh2Cu-がC60に付加して1,4-2重付加体2が生成し,2がもう1分子のPh2Cu-と反応して4重付加体3が生成する.3分子目のPh2Cu-は1つのPh基だけを3に対し付加し,Cp錯体4が生成する.4は後処理の段階で加水分解を受け,シクロペンタジエン体1aとして単離される.フェニル基以外のアリール基を有する5重付加体,たとえばフェニル基のパラ位に電子吸引基を有する1bや,電子供与基を有する1c,かさ高いアリール基を有する1dも高い収率で合成できた.

Scheme1

 第3章は5重付加体1aを脱プロトン化することによって得られるC60Ph5-を新たなCp配位子とした金属錯体の合成,構造決定について述べている.化合物1aは,金属アルコキシドやアミドとの反応によって対応するCp金属錯体(5-C60Ph5)MLn(MLn=K(5a),TlI(5b),CuI・CNtBu(5c),ZrIV(NEt2)3(5d),SmIII(OiPr)2(5e))へと変換することができた(Figure1).Tl錯体(5-C60Ph5)Tl・2.5THF,(5b)のX線構造をFigure2に示す.本錯体はTlIの単核錯体であり,C60の5員環は5-Cp基として作用している.C60に付加した5つのフェニル基はプロペラ状に配置し,分子全体がほぼC5対称のキラルな構造となっている.Cp基に直接結合した5つのC60骨格上のsp3炭素原子はCp基の定める平面からTl原子と反対方向に22°ずれている.

Figure1

 5型配位子C60Ph5-のCp部位は5つのsp3炭素原子に取り囲まれており,C60の残りの50ポリエン共役系から孤立している.一方で,両者は空間的に近接しており,両者の相互作用の有無に興味が持たれる.第4章では,理論および実験的手法によってCp部位と50ポリエン共役系との間にエンドヘドラルなホモ共役が存在することを証明した.

 まず,C60Ph5-K+フェニル基を水素原子で置き換えたモデル化合物C60H5-K+のab initio分子軌道計算(HF/3-21G(*),C5vの対称性を仮定)を行った.HOMO-1からHOMO-4までの4つの軌道がCp部位と50共役部位とに非局在化していることから,本分子にC60の球の内部を通じたホモ共役が存在することが明らかになった.

 理論的に示されたエンドヘドラルなホモ共役は以下に述べるような電気化学的測定によって裏付けられた.すなわち,C60Ph5H(1a)およびC60Ph5-(5)の酸化還元電位をTHF中-78℃で測定したところ,どちらの場合も2つの可逆な還元波が得られた.5の場合には可逆な酸化波も得られた.ペンタメチルシクロペンタジエンを用いた同様の実験で-3.0Vから+1.0Vの測定範囲で酸化還元波が観測されないことから,1aおよび5の還元にはいずれも50部位の寄与が大きいことがわかる.一方,5の酸化波はCpアニオンがCpラジカルへと酸化されたことに対応する.5の還元電位は1aと比較すると約0.4V負に移行している.これは前述のホモ共役を通じて5のアニオンが50部位へ拡がった結果であると解釈できる.1aの酸化還元電位を20℃で測定すると1a自身の2つの還元波に加えて5由来の還元波が観測された.5が系中で生成するのは,Scheme2に示すように1aが1電子還元を受けると50部位だけでなく,これとホモ共役しているCp部位の電子密度も増大し,Cp部位の脱水素反応が誘起されたためと解釈できる.

Scheme2

 5章の前半ではC70に対するアリールおよびメチル銅試薬との反応について述べている.フラーレンとしてC70を用いた場合,有機銅試薬との反応によって5重付加体は生成せず,3重付加体C70R3H(7)が収率良く得られた(Scheme3).3重付加体7は,有機銅試薬に対する反応性が低下しており,付加反応は進行しなかった.

Scheme3

 5章の後半では3重付加体7を脱プロトン化して得られたC70R3-を配位子とした金属錯体の合成,構造決定と同時に配位子の電気化学的性質について述べている.7bの金属アルコキシドによる脱プロトン化反応で,C70の5員環がCp基として作用した金属錯体{5-C70(p-CF3C6H4)3}MLn(MLn=K(8a),TlI(8b))が得られた(Figure3).モデル化合物C70H3Kのab initio分子軌道計算(HF/STO-3G//HF/3-21G(*),Csの対称性を仮定)によるとC70の5員環のほぼ真上にカリウムイオンが位置している.また,C70の1つの5員環にはCp基特有の軌道の分布が見られる.錯体5bの予備的なX線構造解析の結果もC70の5員環がCp基となっていることを示している.

Figure3

 C70Ph3H(7a)の酸化還元電位をTHF中20℃で測定したところ,Scheme4に示すように1電子還元によってCp部位の電子密度が高くなり,脱水素反応が誘起されてC70Ph3-が系中で生成した.このようにC60Ph5-と同様,Cp基とポリエン部分との相互作用が観測されたが,C70R3-のCp基はポリエン部位と共役しているため,より強い相互作用も期待できる.

Scheme4

 7章では本研究の総括を述べている.新しい2種類の配位子C60Ar5-,C70R3-は共役ポリエン構造を持つため1電子還元を受けやすく,また還元によってCp基部分の性質は変化する.将来,本配位子による金属錯体では,電場,光のような外部刺激に応答して金属錯体の持つ反応性を制御するような機能の付与も期待できる.

 以上の7章に述べられた業績は有機化学の分野に貢献すること大である.なお本研究は数名による共同研究であるが論文提出者が主体となって研究開発を行ったものであり,論文提出者の寄与は十分であると判断する.したがって,博士(理学)を授与できると認める.

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