内容要旨 | | 1.序 電気化学分析における電極表面の化学修飾(化学修飾電極)やクロマトグラフィーにおける固定相担体表面の化学修飾に見られるように,物質を認識する表面を化学修飾することによる新たな選択性の付加により,いくつかの分析手法はより実用的な分析法として発展を遂げてきた.微少な探針によりトンネル電流・探針・表面間に働く力を検出している走査型トンネル顕微鏡(STM)・原子間力顕微鏡(AFM)においても,その探針表面を化学修飾することにより新たな選択性が付加できれば,現在多くの場合困難である表面化学種の同定が可能になると考えられる.そこで本研究では,STM・AFMの探針表面を化学修飾することにより,修飾前とは異なる選択性をこれらの手法に付加することができないかを検討した. 2.化学修飾探針を用いたSTM 電気化学において,化学修飾電極により,特定化学種の電気化学反応のみを化学的相互作用に基づいて電極表面で進行させることができるようになった.電気化学における「電子移動」とSTMにおける「トンネル効果」は.電子雲の重なりを電子が移動するという点で類似の現象である.そこで本研究では,そのような化学修飾電極の成果をふまえ.STM探針表面を(2a)金表面との共有結合により形成されるチオール類(図1)のself-assembly膜(SAMs).(2b)導電性ポリマー・ポリピロールで修飾することにより,探針-試料間の化学的相互作用に基づいた情報がSTM像に付加できないかを検討した.また,水素結合を介した電子移動という現象が生化学系などで知られていることに基づき,水素結合性の官能基を有する分子を修飾したSTM探針を用いることで,試料中の水素結合性の官能基の部分がその他の部分と識別できるようにならないかを検討した.試料としては,グラファイト基板上のC18H37OH,C17H35COOH,C18H37Clの単分子膜(液体もしくはn-octvlbenzene溶液の状態で基板上に滴下すると自然に形成する)を用いた. 図1.本研究でSTM探針の化学修飾に用いられたチオール類 (2a)チオール類のSAMsを修飾した探針 図2aに未修飾の金の探針によって観察されたC18H37OHのHOPG基板上の単分子膜の典型的なSTM像を示す.一本一本の明るいバンドの長さが約2.4nmと,C18H37OHの分子長とほぼ一致していることから.明るいバンドがC18H37OH分子であることが分かる.また,このような分子が60°傾いて並ぶことにより,幅約2.2nmのラメラを形成している.この図2aによると,C18H37OHの両端の水酸基とアルキル基が区別できないことが分かる.一方,1を修飾した金の探針では,C18H37OH単分子膜のSTM像が得られた36本のうち7本の探針(19%)で,図2bに示すようなSTM像が得られた.図2bでは,平行な明るい(トンネル電流が流れやすくなった)部分(その他の部分よりも0.04nm高い)が約4.4nmの間隔で並んでおり,この間隔はラメラ2本分の幅とほぼ一致している.このようなSTM像は,2を修飾した探針でも26本中8本(31%)で観測されたが.未修飾の探針や4を修飾した探針では観測されなかった.このように水素結合部位を有する分子を修飾した探針でのみ図2bのようなSTM像が観測されたことから,図2bのSTM像において,C18H37OHの水酸基に相当する部分が探針-試料間の水素結合により明るく観測されたものと考えられる.同様に,C17H35COOHの単分子膜においても,未修飾の探針や4を修飾した探針を用いるとアルキル基の部分と比べ暗く見えるカルボン酸部位が(図3a),1や3を修飾した探針(それぞれ36本中6本(16%),28本中6本(21%)を用いると明るく観測された(図3b).一方,水素結合できる部位が存在しないC18H37Cl単分子膜においては,探針を1で修飾したことによる効果は観測されなかった. 図2.a)未修飾探針,b)1のSAMsを修飾した探針で観測された,グラファイト基板上のC18H37OH単分子膜のSTM像(20nm×20nm)図3.a)未修飾探針,b)1のSAMsを修飾した探針で観測された,HOPG基板上のC17H35COOH単分子膜のSTM像(20nm×20nm) (2b)ポリヒロールを修飾した探針 さらに,STM探針をポリビロールで修飾することによる効果について,上記単分子膜のSTM測定により検討した.その際,電気伝導度の異なるポリピロールを修飾して検討を行なった.その結果,電気伝導性が高い膜を修飾した探針では,かなり厚いポリマー膜(〜1m)を修飾した場合でも,図2aや図3aと同様な高い分解能を有する分子像が観測されたが,電気伝導性が低いポリマーの場合には,図2aや図3aのような高分解能を有する分子像は観測されなかった.また,pH7の溶液に浸した探針では,図2bのように水素結合性官能基の部分が明るいSTM像が観測された(26本中13本(50%)).これは,脱プロトン化したピロールの窒素部位と試料との水素結合に起因していると考えられる. 3.化学修飾探針を用いたAFM AFMでは.探針-試料表面間に働く力を測定することにより表面のイメージを得ていることから,表面の特定化学種と相互作用する物質を表面修飾したAFM探針を用いることによりその化学種が選択的に検出できるようになると考えられる.これまでに化学修飾探針を用いることにより,疎水性相互作用,水素結合.電荷-電荷相互作用に基づく識別が可能になるという報告がなされている.しかしその多くは予め金で表面を被覆した探針表面にチオール類のSAMsを修飾して作製された化学修飾探針を用いていることから,その空間分解能は金で被覆していない探針よりも低下すると考えられる.本研究では,金で被覆することなく窒化けい素製のAFM探針表面に直接修飾できるシラン化剤のSAMsを用いて化学修飾探針を作製し,それまで行われていなかった(3a-1)表面反応によるSAMsの表面官能基の変換,(3a-2)SAMsのアルキル鎖長による効果,(3b)配位結合に基づく化学種の認識,に関する検討を行った.. (3a)SAMsの表面官能基変換による効果とアルキル鎖長の長さの効果 末端にビニル基を有しアルキル鎖長の異なるシラン化剤(CH2=CH(CH2)nSiCl3;n=4,9;それぞれHTS,UTSと略す)のSAMsが修飾された探針をそれぞれ作製し,そのような探針における吸着力に対する,(1)末端ビニル基をヒドロホウ素化反応により水酸基に変換することによる効果,(2)アルキル鎖長の違いによる効果,をそれぞれ検討した.試料として,(A)マイカ,(B)マイカ表面にUTSのSAMsを修飾したもの,及び(C)その末端ビニル基をヒドロホウ素化反応により水酸基に変換したものを用い,それぞれ水中での吸着力を測定した.その結果,未修飾の探針では,いずれの試料でも弱い吸着力しか観測されなかったが,ビニル基を末端に持つSAMsを修飾した探針では,(B)の試料に対して疎水性相互作用に基づく強い吸着力が観測された(表1).探針に修飾したSAMsの末端ビニル基を水酸基に変換すると,(C)の試料に対する水素結合によると考えられる吸着力の増加,および探針表面の疎水性が低下することによる(B)の試料に対する吸着力の減少が観測された(表1).しかし,疎水性の低下による疎水性表面との吸着力の減少はUTSを修飾した探針と比べHTSを修飾した探針では小さかった.その原因として,SAMsのパッキングがアルキル基の短いSAMsの方が悪いために,修飾分子のアルキル側鎖の一部が表面に露出し,そのアルキル側鎖による疎水性相互作用が吸着力に影響を及ぼしていることが考えられる.実際,そのようなSAMs中の分子のパッキングはFTIR法と摩擦力測定により評価できた. 表1 探針-基板間に働く吸着力の平均値および標準偏差(nN) (3b)配位結合により化学種を認識できる探針 末端に遷移金属と強い配位結合を形成するチオエーテル基を持つシラン化剤5(図4)のSAMsをAFM探針に修飾することにより,配位結合に基づき化学種を認識する探針が作製できないかを,同一のSAMsが修飾された基板との吸着力を測定することにより検討した.その際,水溶液中のAg+(チオエーテル基と強く相互作用する)の濃度を変化させた際の吸着力を測定すると共に,そのSAMsが表面に修飾されたSi基板の接触角も測定した.通常,表面の接触角が減少するとその表面間の吸着力が減少することが知られているが.本研究では,Ag+濃度の増加に伴う接触角の減少(表面官能基がAg+と結合し電荷を持つことに起因する)と吸着力の増加が観測された(図4).これは,1つのAg+に対して探針・基板表面の双方の官能基が挟み込むように配位した結果(図5),観測されたものと考えられる. 図4.5のSAMSを修飾した探針-基板間の吸着力とその基板上の接触角のAg+濃度依存性.図5 本研究で観測された水溶液中のイオン種()とSAMsの錯形成による吸着力の変化4.まとめ (1)水素結合性の官能基を有する分子を修飾した探針を用いることにより,STM像の中で試料中の水素結合性の官能基をその他の部分と比べて明るい部分として観測できることが示された.この現象は,探針に修飾した分子と水素結合する部分でのみトンネル電流が流れやすくなることに起因していると考えられる.このように,STMにおいて.化学修飾した探針を用いることで,探針-試料間の化学的相互作用に基づく情報がSTM像に付加できることが本研究により初めて示された. (2)AFMにおいては,探針に修飾したSAMsの末端官能基の変換により,探針-表面間に働く相互作用を変化させることができること,化学修飾探針を作製する場台長いアルキル鎖を有する分子のSAMsを用いた方がよいこと,配位結合に基づき化学種を認識できる探針が作製できることが,新たに示された. 以上のように,探針表面の化学修飾により,修飾前とは異なる新たな選択性をSTM・AFMに付加できることが,本研究により示された. |
審査要旨 | | 本論文は8章からなる. 第1章から第3章は序論であり,第1章で本研究の動機・目的が簡潔にまとめられている.すなわち,分析化学で広く用いられている表面への機能性分子の固定化(化学修飾)による新たな選択性の付加という方法論を,微小な探針で表面のナノメータースケールの局所分析が行える走査型トンネル顕微鏡(STM)と原子間力顕微鏡(AFM)の探針表面に適用し,表面化学種の原子・分子レベルでの同定が可能な新たな分析手法を開発することを目的とすることが述べられている.第2章では,本研究で検討を行ったSTMとAFMの測定原理やそれらの手法の分析化学的な観点から見た現状等が述べられている.第3章では,本研究でSTM・AFM探針の修飾に用いられたり,測定対象として用いられた様々な有機薄膜についてまとめられている. 次いで,第4章から第7章は化学修飾探針を用いたSTM・AFMに関する研究について論ずる主要部を構成している. 第4章と第5章では,STM探針をそれぞれチオール類のセルフアセンブリ膜(SAMs)・導電性ポリマー・ポリピロール膜を修飾することによる効果について論じている.これまでに,STM探針を化学修飾することにより,探針に修飾した分子と試料との間に働く化学的相互作用に基づき特定の表面化学種を検出しようとした研究は全くなされてこなかったが,本研究により探針-試料間の水素結合に基づく情報がSTM像に付加できる可能性が初めて示されたことは,非常に興味深い.測定試料としては,長鎖アルキル基を有する分子(一級アルコール(ROH),カルボン酸(RCOOH),塩化物(RCl))のグラファイト上の単分子膜を用いている.これらの単分子膜を未修飾の探針でSTMした場合に得られるSTM像においては,それぞれの分子の末端にあるメチル基と水酸基やカルボン酸基などの官能基はほとんど区別できず,単分子膜の構造を論じるのは困難であった.しかし,水素結合のプロトンアクセプター性の官能基を有する分子のSAMs(第4章)やポリピロールの薄膜(第5章)をSTM探針に修飾することにより,ROHやRCOOHの単分子膜における水素結合性の部分が明るく観測されるようになり,それらの官能基が単分子膜中でどのように分布しているのかがSTMで初めて検出できるようになった.このような現象は,水素結合性の官能基を持たない分子(RCl)の単分子膜では観測されず,またROHやRCOOHの単分子膜においても,水素結合性の官能基を持たない分子のSAMsを修飾した探針では観測されなかったこと(第4章),水素結合のプロトンアクセプター性の部位を多く含まないポリピロール膜を修飾した探針ではほとんど観測されなかったこと(第5章)から,この水素結合性の官能基が明るく観測される現象は,探針に修飾した分子と試料分子との水素結合に基づいていることが示された.なお,さらに,チオール類のSAMsやポリピロール膜を修飾した探針を用いても高い分解能を有する分子像が観測できることも初めて示した. 第6章では,シラン化剤のSAMsを修飾したAFM探針を作製し,探針-試料間に働く相互作用に対する,その表面官能基を変換することによる効果や修飾する分子のアルキル鎖の長さの影響等について論じている.元来シラン化剤のSAMsでは,水酸基を末端に持つ単分子膜を直接作製することができないが,本研究では予めビニル基を末端に持つ膜を修飾した後にヒドロホウ素化反応によりそのビニル基を水酸基などへ変換することにより,末端に水酸基を有するシラン化剤のSAMsをAFM探針表面に修飾することができることを示した.さらに,そのようなシラン化剤のSAMsを修飾した探針を作製する際に,アルキル鎖が短い分子を用いた場合には,SAMsにおける分子のパッキングが悪いために,探針-試料間の相互作用力に露出したアルキル側鎖の影響(疎水性相互作用)が観測されてしまうことを見出した.すなわち,シラン化剤のSAMsを修飾した探針を作製する際には,長鎖アルキル基を有する分子を用いた方がよいことが示された. 第7章では,化学修飾探針による配位結合に基づく化学種の認識が試みられた.銀イオンと強く錯形成することが知られているmethylsulfanyl基を末端に有するシラン化剤のSAMsがそれぞれ修飾された探針と基板との間の吸着力を測定したところ,一つの銀イオンに対して基板・探針双方の官能基が挟み込むように配位する相互作用力,すなわち配位結合の力を直接測定することに成功した. 第8章では,総合的結論が述べられている. このように本研究は,STM探針表面の化学修飾により,修飾前とは異なる,探針-試料間の化学的相互作用に基づく新たな選択性が付加できる可能性を初めて示し,さらにAFMにおいてもその探針の化学修飾という方法論を適用できることを示した.すなわち,STM・AFM探針を化学修飾することにより,表面化学種の原子・分子レベルでの同定が可能な分析手法が新たに開発できる可能性を初めて示した.以上の点で,本研究は分析化学に大きく貢献する成果を収めており,博士(理学)取得を目的とする研究として十分であると審査委員会は全員一致で認めた.なお本研究は,各章の研究が複数の研究者との共同研究であるが,論文提出者が主体となって行ったもので,論文提出者の寄与は十分であると判断する.したがって,博士(理学)の学位を授与できると認める. |