学位論文要旨



No 113251
著者(漢字) 井上,将行
著者(英字)
著者(カナ) イノウエ,マサユキ
標題(和) シガトキシンの合成研究 : 9員環エーテルの効率的合成法の開発とF-M環モデル化合物の合成
標題(洋) Synthetic Studies on Ciguatoxin : a New Strategy for the Construction of Nine-membered Cyclic Ethers and Its Application to the Synthesis of F-M Ring Framework
報告番号 113251
報告番号 甲13251
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3397号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 橘,和夫
 東京大学 教授 奈良坂,紘一
 東京大学 教授 友田,修司
 東京大学 助教授 澤村,正也
 東京大学 教授 福山,透
内容要旨 第1章序論

 南方海域では、本来無毒の魚が食物連鎖により毒化して食中毒の原因となることがあり、この中毒はシガテラと呼ばれている。中毒患者は年間2万人以上といわれ、自然毒食中毒としては世界最大の発生規模を有する。シガテラの主要原因毒として単離・構造決定されたシガトキシン(CTX,1)は、13個の5〜9員環エーテルが縮合した分子量1110の梯子状ポリエーテル化合物である。その生理作用として神経興奮膜の電位依存性Na+チャネルの膜貫通部位に特異的に結合してこれを活性化することが報告されている。CTXの化学合成の実現は、非常に挑戦的な有機合成化学における課題である。また天然物の調達が極めて困難なため、詳細な作用機構の解明や微量検出法開発に必要な免疫抗体調製のためにも実践的な合成による量的供給が強く望まれている。筆者は博士課程において、CTXの効率的全合成を視野に入れ、縮環した9員環エーテル2の収束的な合成法の開発(第2章)と9員環エーテルを含む10環性CTXモデル化合物3の合成(第3章)に成功した。

 

 

 

第2章縮環した9員環エーテル2の効率的合成法の開発

 CTXの分子中央に位置するF環部不飽和9員環エーテルにおいては、二種類の配座異性体(UP型およびDOWN型:Figure2参照)の遅い平衡に由来すると考えられるNMRシグナルの広幅化が観測されている。CTXと同様のNa+チャネル部位に結合するブレベトキシン類も分子中央部に配座変換可能な中員環エーテルを有しており、F環部での分子の柔軟性がCTXの生理活性発現に重要な役割を果たすと予想される。

 合成化学的見地からは、F環部9員環エーテルの構築は、CTXの全合成においてもっとも大きな課題のひとつである。一般的に9員環の閉環反応は、トランスアニュラー相互作用やエントロピー的要因から非常に困難であり、これまで両側にエーテル環が縮環した9員環エーテルの合成に関しては全く報告例がなかった。このような状況の中で、筆者は9員環の両側に6員環エーテルが縮環した3環性モデル化合物2を設計し、その合成に着手した。合成計画としては、6員環を両側に配した基質に対して分子内で炭素-炭素結合反応を行うことを考えた(Figure1)。このような基質で閉環反応を行えば、反応点同士の近接によって9員環閉環がエントロピー的に有利になると予想した。

Figure1.Synthetic strategy for construction of 6-9-6 tricyclic system

 まず、Martinらの方法に従い-アルコキシアリルスズ化合物4aをTiCl3(Oi-Pr)で処理したが、彼らの報告に反して目的とするtrans-syn-transの立体化学を有する6は得られず、trans-anti-trans体5を与えた(Scheme1)。一方、求核性がより低いアリルシラン4bをTiCl4-PPh3で処理すると6が主生成物(41%)として得られることがわかった。次に、鍵となる分子内閉環反応として、McMurry反応やRamberg-Backlund反応など種々検討したところ、SmI2によるReformatsky型反応を用いた場合に最も良い結果を与えた。すなわち、6から誘導した8の酸化により得られるアルデヒドを、THF中-78℃でSmI2(5当量)で処理したところ速やかに9員環閉環反応が進行し、続くアセチル化により高収率で3環性-アセトキシケトン9を単一の立体異性体として得ることができた(3段階59%)。さらに、ケトン部分をメチレンへと還元し化合物10とした。10からブロモ体11へと導き、塩基処理することによりcis-二重結合の導入を行い3環性モデル化合物2を得ることに成功した。

 化合物2のNMRスペクトル(pyridine-d5)を測定したところ、室温では9員環上の1Hシグナルが顕著に広幅化を起こしており、溶液中での複数の立体配座異性体の平衡が示唆された。低温測定では2組のシャープなシグナルを与え、3JH,Hデータの解析から平衡に関与する2種類の配座異性体UP,DOWN(存在比1:1)の三次元構造を明らかにした(Figure2)。また温度可変1HNMRの測定から、この配座交換過程のコアレス温度(Tc)は28℃であり、この温度での活性化自由エネルギーとして約14.2kcal/molが得られた。このように、筆者は最も単純な3環性モデル化合物2がCTXのF環部に見られる配座交換をほぼ再現することを明らかにした。

Figure2.Two conformers of compound2
第3章10環性モデル化合物3の合成

 CTX全合成に不可欠な収束的な合成戦略の開発とNa+チャネルに特異的に結合する活性分子の創製を目指し、DE環部を1,6-ジオキサデカリン構造で置き換えた10環性モデル化合物3の合成を計画した。3は、FGH環部に相当するアルデヒト23と、修士課程において合成を完了しているホスホニウム塩24とのカップリングによって合成可能であると考えた。

Scheme1.a)TiCl3(Oi-Pr),CH2Cl2,-78℃,62%;b)TiCl4,Ph3P,CH2Cl2,-78 to 0℃,41%;c)Ac2O,Et3N,DMAP,CH2Cl2,rt;d)9-BBN,THF,rt,then H2O2,NaHCO3,rt;e)TBSCl,imidazole,DMF,rt;f)DlBAL,CH2Cl2,-78℃,76%(4 steps);g)SO3.Pyr,DMSO,Et3N,CH2Cl2,0℃;h)MeMgBr,THF,-78℃,87%(2 steps);i)(COCl)2,DMSO,Et3N,CH2Cl2,-78℃ to rt,69%;j)TMSOTf,i-Pr2NEt,CH2Cl2,-10℃;k)NBS,THF,0℃;l)CSA,MeOH-CH2Cl2,0℃,92%(3 steps);m)SO3・Pyr,DMSO,Et3N,CH2Cl2,0℃;n)Sml2,THF,-78℃;then Ac2O,DMAP,0℃,59%(3 steps);o)NaBH4,MeOH,0℃;p)PhOC(S)Cl,DMAP,CH3CN,rt,85%(2 steps);q)n-Bu3SnH,AlBN,toluene,80℃,78%;r)DlBAL,CH2Cl2,-78℃;s)Ms2O,LiBr,i-Pr2NEt,CH2Cl2,0℃ to rt;t)KOt-Bu,DMSO,rt,58%(3 steps).

 化合物2の合成で得た知見を基にして、化合物23の合成を行った(Scheme2)。3-デオキシ-D-グルコース誘導体から得られるアルコール12から13へと導き、山本らの-アルコキシアリルスズとアルデヒドの分子内環化反応によりG環に相当する7員環エーテルを構築後、ハイドロボレーションを行いジオール14を得た。次にSc(OTf)3を用いたアルデヒド15とのアセタール化を行い、7員環アセタール16とした。-アルコキシアリルシラン-アセタール分子内環化反応は、トリエチルシリル体17を用いたときに最良の結果を与え、4環性エーテル結合体18を主生成物として得た。19を酸化して得られるアルデヒドのSmI2による分子内環化反応は高収率で進行し、-アセトキシケトン20を単一生成物として得た。20はシリカゲルに対して不安定なため、ただちに還元後フェニルチオカルボナート21として精製した(5段階66%)。続く21のラジカル還元は、種々条件検討したところn-Bu3SnH,Et3Bを用いて室温で反応を行なった場合のみ高収率(80%)でアセテート22が得られた。さらに、22から6段階でアルデヒト23へ導いた。23と24をWittig反応によりカップリングし、Nicolaouらによるチオケタール経由の8員環エーテルの環化反応を経てオキソセン26を得た(Scheme3)。26の水素添加により8員環上のオレフィンの還元とベンジル基の脱保護を同時に行い、生じたヒドロキシルをエトキシエチル基で保護した。最後に9員環上にオレフィンを導入し、保護基を除去することにより3の合成に成功した。このように、筆者は3つの部分構造(14,15,24)を効率的にカップリングすることにより、10環性モデル化合物3の合成を行った。化合物3のNa+チャネルに対する結合能とNa+流入活性を評価したが、現在のところ、まだ有意な活性は認められていない。

Scheme2a)Ac2O,DMAP,Et3N,CH2Cl2,rt;b)H2,Pd(OH)2/C,EtOAc-MeOH,rt;c)Me2C(OMe)2,PPTS,CH2Cl2-DMF,rt,98%(3 steps);d)allylOCO2Me,Pd2(dba)3・CHCl3,dppb,THF,65℃;e)CSA,MeOH,rt;f)TBPSCl,imidazole,DMF,60℃;g)NaOMe,MeOH,rt,69%(3 steps);h)s-BuLi,n-Bu3SnCl,THF,-78℃,88%;i)SO3・Pyr,Et3N,DMSO,CH2Cl2,rt,92%;j)BF3・OEt2,CH2Cl2,-90℃;k)9-BBN,THF,rt,then H2O2,NaHCO3,94%(2 steps);l)Sc(OTf)3,PhH,rt,82%;m)s-BuLi,Et3SiCl,THF,-78℃,87%;n)TiCl4,PPh3,CH2Cl2,-78 to 0℃,36%;o)TBSOTf,2,6-lutidine,CH2Cl2,0℃,95%;p)OSO4,NMO,t-BuOH-H2O,rt;q)Pb(OAc)4,PhH,rt;r)MeMgBr,THF,-78 to 0℃,91%(3 steps);s)(COCl)2,DMSO,Et3N,CH2Cl2,-78℃ to rt,94%;t)LDA,TMSCI,THF,-78℃;u)NBS,THF,0℃;v)CSA,MeOH,rt,83%(3 steps);w)SO3・Pyr,DMSO,Et3N,CH2Cl2,0℃;x)Sml2,THF,-78℃,then Ac2O,DMAP,0℃;y)NaBH4,CH2Cl2-MeOH,0℃;z)PhOC(S)Cl,DMAP,CH3CN,rt,66%(5 steps);aa)n-Bu3SnH,Et3B,PhH,rt,70%;bb)n-Bu4NF,THF,rt;cc)TBPSCl,imidazole,DMF,0℃,80%(2 steps);dd)(COCl)2,DMSO,Et3N,CH2Cl2,-78℃ to rt,87%;ee)EtSH,TiCl4,CH2Cl2,-78℃,82%;ff)n-Bu4NF,THF,rt;gg)SO3・Pyr,Et3N,DMSO,CH2Cl2,0℃.Scheme3:a)n-BuLi,THF-HMPA,-78℃ to rt,63%;b)n-Bu4NF,THF,rt,90%;c)AgOTf,NaHCO3,SiO2,4A MS,CH3NO2,rt,76%(70%conversion);d)Ph3SnH,AlBN,PhCH3,110℃,82%;e)H2,Pd(OH)2/C,EtOAc-MeOH-AcOH,rt;f)CH2=CHOEt,PPTS,CH2Cl2,rt,99%(2 steps);g)DlBAL,CH2Cl2,-78℃;h)Ms2O,LiBr,i-Pr2NEt,CH2Cl2,0℃ to rt;i)t-BuOK,DMSO,rt,52%(3 steps);j)PPTS,MeOH,rt,quant.
審査要旨

 海洋性植物プランクトンの異常増殖に起因し、食物連鎖を介して地域的かつ一過的に毒化した魚の摂食で起こる食中毒はシガテラと呼ばれ、このプランクトンの生息する南方海域では公衆衛生上深刻な問題となっている。本論文はこの主原因毒であるポリ環状エーテル化合物、シガトキシン(1)の有機合成による調達を目指した研究につき述べられており、本論3章およびそれに続く全体の要約と実験の部からなる。

 序論である第1章では上記した研究の背景に加え、本毒素の神経作用が非常に強力かつ機構的に興味深いにも拘らず、生産生物による培養生産が極めて遅い、あるいは毒化した魚での含有量が極微量であるため、こうした作用研究への供給に困難を来たしていることが述べられ、本論文で述べられた合成研究の意義が明確になっている。また、9員環エーテル部分構造を合成目標に設定した理由も、その生理作用における重要性と合成の方法論としての有用性に基づき明解に述べられている。さらに、本論文提出者が修士課程にて合成し、第3章の研究にて使用した構造ユニットに関して触れており、これにより本論文での研究の範囲が明確になっている。

 第2章ではこれまで合成例のなかった両端に6員環が縮環した9員環エーテル(2)に関し、その合成達成に至る経緯が詳述されている。さらにこの合成品の2つの立体配座間の動的挙動が、天然物の相当部分に想定されるものを再現することが述べられ、これに基づき単純モデルであるが故に可能となった両配座の詳細な構造解析と配座交換での障壁エネルギーの解明につき述べられている。第3章では9員環に隣接したエーテル環の一方を7員環に換えることで、前章に述べられた合成法の有効性と動的挙動の一般性を明らかにし、さらにこれを過去に合成されたシガトキシンの別部分構造と連結することによる、天然物分子のほぼ3分の2に相当する部分構造(3)の合成の達成が、明解に記述されている。この章末にて、合成された3に期待された神経ナトリウムチャネルへの作用が見られなかったことに関して考察されており、本天然物の構造活性相関に関する新しい知見と、作用研究を目的とするモデル合成標的のデザインでの重要な指針を与えるものである。本論に続く実験の部では、行なった実験の具体的手順と合成各段階で得た生成物の分光学データが記され、読者による追試が可能となっており、公表済みの論文の写し、および印刷中の公表用論文の投稿原稿の写しが付録として添付されている。

 113251f04.gif

 以上本論文での報告内容は、国際的かつ活発に進められている海産ポリ環状エーテル天然物の合成研究に新規な重要知見を提供し、特に世界有数の研究グループにより手掛けられているシガトキシンの全合成研究への道標を与えるものである。なお、本論文に記された実験と考察は全て論文提出者が主体となって行なったものであり、その寄与は十分である。

 よって、本論文提出者である井上将行は、博士(理学)の学位を授与される資格があるものと認める。

UTokyo Repositoryリンク