アルカリ金属のSi(001)表面への吸着は、半導体界面でのSchottky障壁形成を制御する機構の解明などの観点から実験と理論の両面で幅広い研究が行われてきている。最近、室温における飽和吸着相の他に、それ以下の吸着量でもいくつかの規則相が見いだされており、これらの吸着相の構造と電子状態は非常に興味深い。しかしながらその一方で室温での飽和吸着相は、長く研究されてきたにもかかわらず現在でもアルカリ金属の1次元鎖モデル(0.5ML)と2重層モデル(1.0ML)という吸着量の異なる2つのモデルが提案されており、その構造を解明することはSi(001)表面上でのアルカリ金属吸着を理解する上で重要である。 そこで博士課程においては、低速電子線回折(LEED)の回折強度(I-V曲線)の測定装置を製作し、Si(001)面上のアルカリ金属(K,Cs)の吸着構造と電子状態を研究することを目的とした。低吸着量の2x3相に関しては、高分解能光電子分光とLEEDの測定を行ったが、残念ながら再現性のあるI-V曲線の結果を得るには至っていない。飽和吸着相に関しては、非対称Siダイマー構造の可能性を含めて解析した結果、対称なダイマー構造をもったアルカリ2重層モデルが最も小さな信頼因子を与え、得られた詳細な構造パラメータからアルカリ金属の吸着に伴う表面再構成について明らかにすることができた。 LEED I-V曲線の測定系の製作とその評価実験を行った。ターボ分子ポンプとTiポンプを排気系に用い、チェンバーの到達真空度は約9×10-9Paであった。試料表面の評価のためX線源と半球型電子エネルギー分析器(CHA)を取り付け、XPSや仕事関数の測定を可能にした。ガラスラインからはイオンスパッタリング用Arや各種気体試料をチェンバーに導入できる。 LEED光学系は市販の4枚グリッド背面型LEED装置を装填した。I-V曲線の理論計算量を軽減するため対称性のよい直入射条件(0.1°程度)に入射電子線を調整する必要があり、試料の角度を微調整する機構をマニピュレーターに取り付けた。さらに試料をマニピュレーターに取り付ける際、試料の傾き角が調整範囲内にあることをレーザートランシットによる測量で確認した。冷却型charge coupled device(CCD)カメラで検出したLEED像は16bit A/D変換後コンピュータに蓄えられた。これは従来の非冷却型カメラに比べ高いS/B比と広いダイナミックレンジを持っている。画像から回折点の強度を求めるプログラムも新たに開発した。I-V測定時は等しいエネルギー間隔で入射電子線のエネルギーを挿引するため、電源制御装置とその制御用プログラムを製作した。構造のよく知られた代表的な系であるc(2x2)S/Ni(100)について装置の評価実験を行い、文献と一致した結果が得られることを確認した。 図1 Si(001)2x1-CsのLEED I-V曲線の理論値(実線)と実験値(破線)。全体のRp=0.326。個々のデータのRpは図中に示す。 白木法によりエッチングと酸化前処理をしたSi(001)ウエハーをチェンバーに組み込み、注意深く1250Kまで加熱処理することにより鮮明な(2x1)LEEDパターンを観測した。十分脱ガスを行ったアルカリ源(SAES Getters)から、室温のSi(001)2x1表面にアルカリ金属を蒸着した。光電子スペクトルの運動エネルギー0に相当するcut offの位置から仕事関数の変化を求め飽和吸着を確認した。室温での飽和吸着相は清浄面と同じ2ドメインの(2x1)LEEDパターンを示した。対称な回折点のI-V曲線はほぼ同一であったことから、直入射条件が満たされていると判断し、それらを平均したものを実験データとした。 LEED I-Vの解析は、BarbieriとVan HoveらによるSATLEEDパッケージを用いた。動力学的理論計算には7つの部分波を用い(/max=6)、Si第4層までに含まれる原子の座標の他、内部ポテンシャルの実部と原子の熱振動の振幅を最適化した。内部ポテンシャルの虚部は-5.0eVとした。実験と理論値の一致の程度はPendryの信頼因子Rpを用いて評価した。以前の研究結果[T.Urano et al.,Surf.Sci.287/288,294(1993)]と比べて広いデータ範囲をカバーしている他、解析に使用した部分波の数や考慮した構造パラメータの数が多く、信頼性の高い解析を行うことができた。 Si(001)2x1上のCs飽和吸着相のLEED I-Vの実験データを図2に示す。過去の研究結果と比べ、特に(10)のデータが異なっているが、再現性は注意深く調べた。解析は0.5と1.0MLのモデルについて行った。0.5MLの吸着モデルとしてはpedestal(HH)とvalley-bridge(T3)、cave(T4)の吸着サイトを考慮し、1.0MLのモデルとしてはHHとT3かT4の組み合わせを考慮した(図3参照)。 KとCsについてそれぞれ考慮したすべてのモデルで最適化した構造に対するRpを表1に示す。0.5MLのモデルはいずれもRpの信頼範囲を超えており、室温飽和吸着でのアルカリ金属の1次元鎖モデルの可能性は明確に否定された。 2種類の吸着サイトを含むモデルは、高分解能のCs4d光電子スペクトルに明確に分離された2つの成分が現れることや、TDSで2つの脱離温度が観測されていることで強く支持される。1.0MLのモデルの中では、HH+T3モデルの方が小さなRpを示し、HH+T4は棄却できる。この結果は過去のX線光電子回折やLEEDの結果と一致している。またKの吸着相における第1原理計算では1.0MLにおいてHHとT3サイトに吸着したモデルが最も安定であり、今回の結果を支持している。 表1 LEED I-Vから得られたSi(001)2x1上のCsとKの室温飽和吸着系の吸着モデルに対する信頼因子Rp。CsとKのRpの信頼範囲はそれぞれ0.07,0.05。モデルの名称は本文を参照。 Si(001)2x1-CsのHH+T3サイトモデルで最適化された構造パラメータを図3に示す。Cs吸着に伴いSiダイマー間距離が清浄面の非対称ダイマーに比べ0.32Å伸びており、この伸びはCsからの電子供与によりSiダイマーの反結合的な*バンドが占有されることから説明できる。過去のLEEDによる研究ではSi第2層間の距離がダイマー間距離とほぼ等しいため、ダイマー結合とバックボンドのなす角がほぼ直角(92°)と不自然な値であったが、今回は101°となりsp3混成軌道の109.5°に近い値となっている。Si5とSi7はバルクの理想位置からは下へ、一方Si6とSi8は上へ変位しているが、これは清浄面での再構成やSi(001)2x1-Kでの理論計算の傾向と一致しており、ダイマー形成に伴う局所的なストレスを解消する方向に再構成が進んでいるものと思われる。 Cs吸着相でダイマー原子の高さの差は0.01Åで、誤差の範囲でダイマー構造は明らかに対称である。近年ChaoらはKとCsの飽和吸着相で高分解能Si2p光電子スペクトルを測定し、両者のスペクトルの違いからKでは対称ダイマー構造を、Csでは非対称ダイマー構造をしていると提唱している[Y.-C.Chao et al,Phys.Rev.B54,5901(1996)]。しかし今回の結果から、この差異の原因は非対称ダイマー構造によるのではなく、光電子回折効果によるものと解釈できる。 Siとアルカリ金属との結合距離の平均値はCsとKでそれぞれ約3.8と3.5Åと求まり、Siの共有結合半径(1.1Å)とアルカリ金属の金属半径(Cs2.7Å,K2.3Å)の和と一致している。第1原理計算によると、結合距離が短く(R(K-Si)=2.59Å)、強いイオン結合性を示唆しているが、上記の結果はむしろ分極した共有結合として解釈できることを示している。 図2 Si(001)2x1-CsにおけるHH+T3モデルの最適化された構造(斜線Cs;黒丸Siダイマー)。(a)に考慮した吸着サイトHHとT3,T4を、(b)に理想表面からの水平と垂直方向の変位を矢印で示した(単位Å)。 |