学位論文要旨



No 113261
著者(漢字) 福田,祐仁
著者(英字)
著者(カナ) フクダ,ユウジ
標題(和) 電子付着および固体表面衝突により誘起されるクラスターに特有な化学反応
標題(洋) Cluster-Specific Reactions Initiated by Electron Attachment and Surface Impact
報告番号 113261
報告番号 甲13261
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3407号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山内,薫
 東京大学 教授 岩澤,康裕
 東京大学 教授 太田,俊明
 東京大学 教授 濱口,宏夫
 東京大学 教授 奈良坂,紘一
内容要旨 I.緒言

 有限個の原子・分子の集合体であるクラスターは、複数の原子・分子が反応の初期状態を形成している反応場と考えることができ、反応に必要なエネルギーを与えることによりクラスター内部で化学反応を引き起こすことが可能である。クラスターをこのように化学反応の前駆体と考えた場合、例えば、クラスター内の分子の配置に従って重合反応が進行すること、また、構成粒子が集団として振る舞うことによって、単一粒子では起こらないような衝突反応が起きることが期待される。気相や凝集相(液・固相)では見られないようなこれらの特異な反応に着目し、その反応機構を解明する研究を行った。

図1.クラスター中におけるAN3分子の予想される配置(上、破線は水素結合)とクラスター内アニオン重合反応による生成物1,3,5-cyclohexanetricarbonitrile(-)の構造(下)。
II.クラスター内アニオン重合反応の研究

 アクリロニトリルクラスター負イオン(AN)n-では、分子間の水素結合で規定された構成分子の配置を反映してAN3分子を単位としたアニオン重合反応が進行する結果、3量体負イオン(AN)3-が安定に生成する。そして、それが図1に示す環状化合物1,3,5-cyclohexanetricarbonitrile(c-HTCN)の構造を持つことが、これまでの質量分析法及び衝突誘起解離法による実験結果から推定されていた。本研究では、真空中においてサイズ選別された(AN)n-に対し光解離法及び光電子分光法を用いた実験を行った。さらに、有機合成研究室と共同でc-HTCNを合成し、真空中においてその負イオンc-HTCN(-)と(AN)3-の光電子スペクトルを測定した。これらの実験結果をabinitio MO計算によって解析し、(AN)3-の構造を同定した。その結果、(AN)3-が環状の化合物であり、有機合成により得られたc-HTCNとはCN基の配向の異なる立体異性体であることが明らかとなった。以上の結果をもとに、クラスター内重合反応の反応機構について考察を行った。

図2.(AN)n-の光解離により生成したイオンの強度分布。図3.(AN)n-の垂直電子脱離エネルギーのクラスターサイズ依存性。

 II-1.(AN)n-の溶媒和構造:(AN)n-が3量体以降(AN)3-をイオン核とした構造をしていることを、光解離法及び光電子分光法により明らかにした。図2は、(AN)n-(3≦n≦9)に対しレーザー光(Nd:YAG 1064nm)を照射した際に生成した光解離生成物(AN)m-(m<n)の強度分布を示している。この分布から、4≦n≦6からは主として(AN)3-が生成し、7≦n≦9からは主として(AN)6-が生成することがわかった。これは、(AN)n-中において図1に示すようなAN3分子を単位とした構造が安定に存在していることを示している。一方、図3は、(AN)n-(2≦n≦11)に対しレーザー光(Nd:YAG355nm)を照射して得られた光電子スペクトルから求めた垂直電子脱離エネルギー(VDE)の値を示している。VDEの値は、2量体と3量体の間で大きく変化しているが、3量体以降はなだらかに増加することがわかった。この2量体から3量体への急激なVDEの変化は、クラスターの構造が直線構造(2量体)から環状構造(3量体)へと変化することに対応していると考えられる。また、3量体以降のVDEのなだらかな増加は、3量体以降のクラスターでは、クラスター中に3量体のイオン核(AN)3-が存在し、その周りにAN分子が溶媒和しているような構造をしていることを示している。

 II-2.(AN)3-の構造:上記で存在が明らかとなった安定なイオン核(AN)3-が環状の化合物であることを同定するために、有機合成により得られた環状化合物c-HTCNの負イオンの光電子スペクトルを測定し、(AN)3-の光電子スペクトルと比較した。図4にc-HTCN(-)及び(AN)3-の光電子スペクトルを示す。両者のVDEは、c-HTCN(-)及び(AN)3-に対して、それそれ、1.14及び0.85eVであり、約0.3eVの差があることがわかった。これまでの実験結果は、両者が類似の骨格構造を持つ環状化合物であることを示していることから、両者のVDEの差は3つのCN基の配向が異なることに起因するものと考えられる。そこで、図5に示すようなc-HTCNの3つのCN基の配向が異なる4種類の立体異性体、(a)triaxial型、(b)diaxial型、(c)triequatorial型及び(d)diequatorial型について、Gaussian94を用いたab initio MO計算をおこない、各異性体の負イオンの垂直電子脱離エネルギー(VDEcalc.)を求めた。なお、合成したc-HTCNについては、NMRスペクトルの解析から、3つのCN基がいす型シクロヘキサンの平均面に対して平行に配位している(triequatorial型、図5(c))ことがわかっている。合成した化合物である(c)のVDEcalc.に対する他の異性体のVDEcalc.の差(△VDEcalc.)を求めた(図6)。その結果、異性体(a)及び(b)のVDEcalc.が合成した化合物である(c)のVDEcalc.よりも、それぞれ、約0.4及び0.3eV小さいという計算結果が得られ、実験により得られたc-HTCN(-)及び(AN)3-のVDEの差約0.3eVとよい一致が見られた。一方、各異性体の負イオンの全エネルギーの比較より、異性体(b)が最も安定であることから、AN3分子のクラスター内アニオン重合反応により、主として異性体(b)の構造を持つ負イオンが生成していると結論した。有機合成されたc-HTCNの負イオンの構造は、c-HTCNと同一の(c)の構造をとるが、クラスター内アニオン重合反応により生成した(AN)3-の構造は、その生成過程において負イオンの安定性に支配されるため(b)の構造であったと考えられる。

図4.c-HTCN(-)(上)と(AN)3-(下)の光電子スペクトル。図5.c-HTCNの4種類の立体異性体。図6.合成して得られた異性体(c)を基準とした場合の各異性体の負イオンの垂直電子脱離エネルギーの計算値の差。
III.クラスターイオンと固体表面との衝突過程に関する研究

 固体表面にクラスターイオンを衝突させるとクラスターを構成する原子と固体表面の原子との間で多体衝突が起こり、衝突の運動エネルギーが系の内部エネルギーに変換され、一時的な超高温・超高圧状態が出現する。このような状態を経由することにより、通常では起こりにくい特異な反応がクラスター内で効率よく進行することが理論的なシミュレーション等から予測されている。この過程の性質を解明するため、電子構造が比較的単純なナトリウムクラスター正イオン(Nan+)とシリコン(Si)表面との衝突過程を取り上げた。衝突の際、入射クラスターイオンは表面上で解離し、その大部分は中性化され、中性化を免れた散乱イオン種が検出される。そこで、この解離・中性化過程を明らかにするために、(1)衝突により解離生成するイオン種の生成量の衝突エネルギー依存性を、また、散乱過程を明らかにするために、(2)衝突により解離生成したイオン種の速度分布を、それぞれ各クラスターサイズごとに測定し、衝突過程の検討を行った。

 III-1.クラスターイオンの解離過程と中性化過程:Nan+(n=1〜5,9)をSi表面に衝突させて生成するNam+(m<n)のイオン生成効率を求めた。図7はNa3+を衝突させた際に生成するイオンの生成効率の衝突エネルギー依存性を示す。なお、イオン生成効率は、親イオンNan+の強度に対する生成イオンNam+の強度の比で、入射クラスターイオンのエネルギーEinは、構成原子1個あたりの衝突エネルギーで、それぞれ定義した。ここでは、ほぼ垂直入射に近い入射角度で実験を行った。図7より、Einの増加とともにイオン生成効率は増加し、最大値に達した後、減少してゆくことがわかった。衝突エネルギーが低い領域におけるイオン生成効率の増加は、Einの増加にともない親クラスターイオンの解離が促進されることを示している。一方、衝突エネルギーが高い領域におけるイオン生成効率の減少は、衝突エネルギーの増加によりクラスターイオンが表面から内部に深く入ってゆくため、イオンの中性化が促進されることを示していると考えられる。同様の傾向が他のクラスターサイズについても観測された。

 III-2.クラスターイオンの散乱過程:前述のような解離過程を経た後、中性化を免れたイオン種が表面から散乱される。このような散乱イオン種の速度分布を測定することにより、衝突時の表面状態とイオンの散乱過程を検討した。Na3+を衝突させた際に生成したNa+について、その速度の表面平行成分の分布を求め、図8に示した。縦軸は、Na3+の強度に対する生成イオンNa+の強度の比を、横軸は入射クラスターイオンの速度の表面平行成分に対するの比を示している。ここでは、構成原子1個あたりの衝突エネルギーEinは50eV、表面法線方向に対する入射角度は26.6°と一定に保った。測定したの分布を解釈するために、クラスターイオンが表面上を並進運動しながらエネルギーを散逸し、その結果上昇した局所的な温度に応じた速度分布をもった解離イオンが散乱されると考え、クラスターの重心速度を考慮した1次元のMaxwell-Boltzmann分布(図中の実線)をあてはめて解析をおこなった。計算から求めた分布が、測定値をよく再現していることから、Na3+とSi表面との衝突過程において、表面上で解離生成したイオンは表面原子との間で準平衡状態に達した後、散乱されると考えられる。解析の結果、衝突時の温度は、70000Kに達すると見積もられた。さらに特徴的な現象として、を上回るような速度成分をもった散乱イオン(図8中、の部分)が観測された。

図7.Na3+を衝突させた際に生成するNa+(●)、Na2+(○)の生成量の衝突エネルギー依存性。破線はNa+とNa2+とを合計した生成量変化を示す。図8.Na3+の衝突により生成したNa+分布。
IV.まとめ

 クラスター内アニオン重合反応では、AN3分子がクラスター中で水素結合を介して環状構造をとっていることに起因した環状の重合反応生成物を作り出すことを明らかにした。このように、重合に関与する分子数が規定された反応は、液相中での通常の重合反応では見られないクラスターに特徴的な反応である。一方、Nan+とSi表面との衝突過程では、衝突エネルギーがクラスターの内部エネルギーに変換されることによるクラスターイオンの解離、クラスターイオンと固体表面との間での電荷移動によるクラスターイオンの中性化等の過程が明らかとなった。特に、衝突の際に引き起こされる超高温状態は、通常の実験手法では達成できない特異な反応場である。今後、このようなクラスターの特異な構造・衝突過程を利用し、新規な化学反応が開発されることが期待される。

審査要旨

 本論文は4章からなり、第1章は、序説、第2章は、クラスター内アニオン重合反応の研究、第3章は、クラスターイオンと固体表面との衝突過程に関する研究が述べられ、第4章では研究のまとめを行っている。

 第1章では、まず、クラスターを化学反応の前駆体と考えた場合、単一粒子では起こらないような衝突反応が起きることが期待される理由を掲げ、研究の動機を明らかにしている。さらに、気相や凝集相(液相)では見られないようなこれらの特異な反応に着目し、その反応機構を解明するという研究の概要を述べている。

 第2章では、論文提出者は、真空中においてサイズ選別されたアクリロニトリルクラスター負イオン(AN)n-に対し光解離法および光電子分光法を用いて実験を行い、さらに、環状化合物1,3,5-cyclohexanetricarbonitrile(c-HTCN)の負イオンの光電子スペクトルを測定している。これらの実験結果をab initio MO計算の結果を併用によって解釈し、(AN)3-の構造を推定した結果、(AN)3-が環状の化合物であり、有機合成により得られたc-HTCNとはCN基の配向の異なる立体異性体である可能性が高いことを明らかにしている。このようなクラスター内アニオン重合反応では、液相中での通常の重合反応では見られないクラスターに特徴的な反応と考えられる。以上の結果をもとに、クラスター内重合反応の反応機構について考察を行っている。

 第3章ではクラスターイオンと固体表面との衝突過程の性質を解明するため、電子構造が比較的単純なナトリウムクラスター正イオン(Nan+)とSiO2膜でおおわれたシリコン(Si)表面との衝突過程を取り上げている。衝突の際、入射クラスターイオンは表面上で解離し、その大部分は中性化され、中性化を免れた散乱イオン種が検出される。そのため、この解離性化過程を明らかにするために、衝突により解離生成するイオン種の生成量の衝突エネルギー依存性を測定している。そして、散乱過程を明らかにするために、衝突により解離生成したイオン種の速度分布を、それぞれ各クラスターサイズごとに測定し、衝突過程の検討を行っている。また、衝突の際に引き起こされる超高温状態は、通常の実験手法では達成できない特異な反応場であることを報告している。

 以上、論文提出者の電子付着および固体表面衝突により誘起されるクラスターに特有な化学反応に関する研究は、独創性が高いものと認められる。なお、本論文第2章は、佃達哉、寺嵜享、近藤保との共同研究、第3章は、寺嵜享、安松久登、U.Kalmbach、小泉真一、山口仁志、近藤保との共同研究によるものであるが、いずれの場合にも、論文提出者が主体となって実験および解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、審査委員会は、論文提出者福田祐仁に博士(理学)を授与できると認める。

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