内容要旨 | | 序論従来,金属クラスター錯体の多くは,単核錯体からの自立凝集法によって合成されているが,この方法では生成する金属骨格の構造を制御することが難しく,新たな構造の金属骨格を合理的に構築するのは困難である.そこで本研究で私は,それに代わる合成方法として,固体化合物からの切り出し反応,および金属骨格の変換反応や重合反応を用いた新規モリブデン硫化物クラスター錯体の合成について検討した.また,合理的な金属骨格の構築のためには,金属骨格の構造を支配する電子的な要因を系統的に理解することも重要である.そこで本研究では,得られたクラスター錯体の骨格構造と電子状態との関連性についての検討も行った. 1.固体化合物からの切り出し反応を用いた2核および3核クラスター錯体の合成と構造 非分子性のモリブデン固体化合物Mo2S4Cl6(1)およびMo3S7Cl4(2)はそれぞれ,2核Mo2(-S2)2および3核Mo3(3-S)(-S2)3骨格を有しており,それらが塩素架橋によって1次元につながった構造をとっている.これら金属骨格を窒素供与配位子を用いて切り出すことによって,新たな分子性2核および3核クラスター錯体を合成することを試みた. 1にピリジンを作用させたところ,速やかに切り出し反応が進行し,分子性の2核錯体[Mo2S2O2Cl2(C5H5N)4](3)が得られた. ピリジンが2核ユニット間の塩素架橋を切断するとともに,-S2配位子から硫黄が1個ずつ脱離して,Mo2(-S)2骨格が生成したものと考えられる. 次に,2にピリジンおよび三級ホスフィンを作用させることによって,分子性の3核クラスター錯体[Mo3S4Cl4(C5H5N)5](4)を得た. この切り出し反応では,ピリジンが塩素架橋を切断するとともに,ホスフィンが-S2配位子から1個ずつ硫黄を引き抜いて,Mo3(3-S)(-S)3骨格が生成した. また,4とI2をピリジン中で反応させたところ,イオン性の3核クラスター錯体[Mo3S4Cl3(C5H5N)6]I(5)を得た.5では,3つの-S配位子とI-との距離がvan der Waals半径の和以下になっており,弱い分子間相互作用の存在が示唆された. 2.3核クラスター錯体の還元反応による新規3核および6核クラスター錯体の合成,構造および電子状態 3核クラスター錯体[Mo3S4Cl4(PEt3)3(thf)2](6)は,6個の骨格電子を有しており,3本のMo-Mo結合にちょうど対応したelectron-preciseな状態である.6の骨格電子数を増加させることによって骨格構造に変化を及ぼす目的で,6の還元反応について検討した. 6にMgを作用させたところ,1電子還元に伴って2量化反応が進行し,新規ラフト型骨格を有する6核クラスター錯体[Mo6S8Cl6(PEt3)6](7)を得た.7はほぼ同一平面内にある2つのMo3(3-S)(-S)3ユニットが,1本のMo-Mo結合,2個の3-S,2個の-Clによって結ばれた構造となっている.7の分子軌道計算の結果,還元によって加わった骨格電子が2つの3核ユニットを結ぶMo-Mo結合を形成していることが明らかとなった. この還元2量化反応においては,中間体として骨格電子数7の3核クラスター錯体を経由しているものと考えられる.そこで,配位性溶媒を用いることによって2量化を阻害して,この中間体を単離する目的で,6の還元後にMeOHを作用させたところ,再び2量化が進行し,6核クラスター錯体[Mo6S8Cl4(OMe)2(PEt3)4(HOMe)2(OH2)2](8)が得られた.骨格構造は7と類似のものであるが,2つの3核ユニットを結ぶ架橋配位子がClからOMeへと変化しており,それに伴って3核ユニット間の距離が小さくなっていることが明らかとなった. 次に,嵩高いキレート配位子を作用させることによって,中間体を単離することを試みた.そして,配位子として1,2-bis(diphenylphosphino)ethane(=dppe)を用いることによって,骨格電子数7の3核クラスター錯体[Mo3S4Cl3(dppe)2(PEt3)](9)を得た.これは,骨格電子数7の3核クラスター錯体で構造解析がなされた初めての例となった.9の単結晶X線構造解析の結果,Mo-Mo結合の距離が,対応する6電子錯体に比べて約0.04Å伸びていることが明らかになった.分子軌道計算の結果,7電子目の軌道がMo-Moについて反結合性になっていることが見いだされ,還元による骨格電子数の増加がMo-Mo結合の伸びを引き起こしたことが明らかとなった. 3.正八面体6核クラスター錯体の配位子置換反応および重合反応 6核クラスター錯体[Mo6S8(PEt3)6](10)は,正八面体Mo6(3-S)8骨格を有している.この正八面体骨格の電子状態を変化させることによって,骨格の構造がどのように変化するのかを調べる目的で,10とNOBF4との反応について検討を行った. 反応を短時間で停止させたところ,10のPEt3配位子の1つがNO配位子に置換された6核クラスター錯体[Mo6S8(NO)(PEt3)5](11)が得られた.これは,正八面体硫化物クラスター錯体で-受容性配位子を有する初めての例となった. 11の単結晶X線構造解析の結果,NOの配位したMoまわりのMo-Mo結合が10に比べて約0.2Å長くなっていることが見出された.分子軌道計算の結果,この骨格構造の大きな変化は,骨格電子数の増加と,MoからNOへの-逆供与の影響が組み合わさって生じたものであることが明らかとなった. 次に,10とNOBF4との反応を長時間続けたところ,金属骨格の2量化反応が起こり,既知の12核クラスター錯体[Mo12S16(PEt3)10](12)が得られた.これは,11からNO配位子が引き抜かれるとともに,その空いた配位座を埋めるために2分子の重合反応が起こって,12が生成したものと考えられる. 結論 以上の結果から,固体化合物の切り出し反応,および電子状態の制御による金属骨格の転換反応や重合反応が,新規クラスター錯体の合成に有用であることが見出された.また,還元反応や配位子置換反応によって引き起こされる金属骨格の電子状態の変化が,骨格構造に大きな影響を与えるものであることが明らかとなった. |
審査要旨 | | 本論文は4章からなり、第1章はモリブデン硫化物クラスター錯体の概論、第2章は固体クラスター化合物からの切りだし反応による[Mo3(3-S)(-S)3]型および[Mo2(-S)2]型錯体の合成について、第3章は[Mo3(3-S)(-S)3]型化合物の還元と重合、クラスター核構造と電子構造の関係、第4章は[Mo6S8(PEt3)6]の配位子置換と二量化反応について述べられている。 第1章の概論では、金属クラスター錯体の合成法として主に単核錯体からの自立凝集法が採用されているが、金属骨格の構造制御が困難であるので、骨格の合理的形成法として、固体クラスター化合物からの切りだし反応および金属骨格の変換反応、重合反応を用いる新規モリブデン硫化物クラスター錯体合成の可能性について論じている。この目的達成には、クラスター化合物の金属骨格構造とクラスター電子構造の関係を系統的に理解する必要性を強調している。 第2章は固体化合物からの切りだし反応による、新規の2核および3核クラスター錯体の合成と構造に関するものである。非分子性のモリブデン固体化合物Mo2S4Cl6(1)およびMo3S7Cl4(2)はそれぞれMo2(-S2)2およびMo3(3-S)(-S)3骨格を有しており、それらが塩素架橋で1次元状に連結している。(1)にピリジンを反応させると、[Mo2S2O2Cl2(py)4](py=pyridine)(3)が生成した。塩素架橋切断により分子性の2核錯体が生成した。(2)とトリフェニルホスフィン共存下のピリジンの反応では[Mo3S4Cl4(py)5](4)が生成した。トリフェニルホスフィンが架橋S2基から1個ずつの硫黄原子を引き抜き、同時にピリジンが塩素架橋を切断することにより、この分子性クラスター錯体が生成したと考えられる。(4)とヨウ素との反応ではカチオン性クラスター錯体[Mo3S4Cl3(py)6]I(5)が生成した。これらの構造はX線単結晶構造解析により決定した。 第3章は3核クラスター錯体[Mo3S4Cl4(PEt3)3(thf)2](6)の還元によるクラスター構造の歪みと二量化に関するものである。骨格の歪みと電子数の関係を解析する目的で低温でマグネシウムとの反応をおこなった。その結果、還元体が二量化した新規6核クラスター錯体[Mo6S8Cl6(PEt3)6](7)を得た。この錯体は3核クラスターが7電子になることに伴う、新しいMo間結合が形成により生成した14電子クラスターである。この種のクラスター重合反応の初めての例であり、適用範囲はひろいものと思われる。この反応の中間状態を解析するために、反応途中の溶液に1,2-bis-(diphenylphosphino)-ethane(dppe)を添加したところ、はじめての安定7電子クラスター[Mo3S4Cl3(dppe)2-(PEt3)](9)が単離された。(9)ではMo-Mo距離が還元により伸長している。 第4章は、6核クラスター錯体[Mo6S8(PEt3)6](10)とNOBF4の反応に関するものである。この反応により1個のトリエチルホスフィンがニトロシル配位子に置換した[Mo6S8(NO)(PEt3)5](11)と12核クラスター錯体[Mo12S16(PEt3)10](12)が生成した。(11)の八面体骨格は顕著な正方歪みを持っている。この歪みの原因をさぐるために、DV-X法分子軌道計算をおこなった。その結果21個目のクラスター骨格電子が占める軌道のエネルギー低下のためにおこるヤーンテラー効果とニトロシル基に対する逆供与の相乗効果によるものであることを明らかにした。12核クラスター錯体(12)は、中間に生成するニトロシル錯体(11)からニトロシル基が脱離することにより生成するものと推定されている。 以上の研究から、いくつかの新規クラスター骨格形成法が確立した。特に還元反応や特異な配位子置換反応は新規クラスター錯体の合理的合成に非常に有用であることを明らかにした。 これらの研究成果は、遷移金属クラスター化合物の化学において、特筆すべき重要なものである。 なお、本論文第2章、第3章、第4章は、齋藤太郎氏、井本英夫氏、山田聡一郎氏、矢嶋摂子氏、甘利伸五氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって合成、構造解析、分子軌道計算をおこなったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。 |