学位論文要旨



No 113275
著者(漢字) 大杉,美穂
著者(英字)
著者(カナ) オオスギ,ミホ
標題(和) 生殖細胞特異的に発現するチロシンホスファターゼTypの解析
標題(洋)
報告番号 113275
報告番号 甲13275
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3421号
研究科 理学系研究科
専攻 生物化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山本,雅
 東京大学 教授 秋山,徹
 東京大学 教授 岩倉,洋一郎
 東京大学 教授 山本,正幸
 東京大学 助教授 室伏,擴
内容要旨

 増殖、分化、細胞周期等、様々な細胞機能を制御する細胞内シグナル伝達系において、タンパク質のチロシン残基のリン酸化は重要な役割を担っており、チロシンリン酸化のレベルを厳密に制御することがシグナル伝達には不可欠である。従ってリン酸化、脱リン酸化反応を行うチロシンキナーゼ(PTK)及びチロシンホスファターゼ(PTP)の研究は、細胞内シグナル伝達経路の解明に直接結びつく重要な課題である。PTPの分子レベルでの解析は1989年CharbonnearらによってPTP1Bがヒト胎盤から精製され、アミノ酸配列が決定されたことから始まった。現在までに哺乳類に限っても40を越すPTPが報告されており、単にPTK活性による正のシグナル伝達系に拮抗するだけの消極的な作用にとどまらず、シグナル伝達系を正に制御する作用もあることが分かってきている。しかしPTKに比べると報告されている分子種も少なく、その機能解析はまだまだ遅れており、今後のシグナル伝達機構の解明の為にはPTPの機能解析が重要かつ必要な研究課題となる。

 typ(testis specific tyrosine phosphatase)はRT-PCR法により増幅、クローニングした約1200のPTP遺伝子クローンから、コロニーハイブリダイゼーション法を用いて既知のPTP遺伝子クローンを排除した結果見出された新規のPTP遺伝子である。ノザン解析では、ヒト及びマウスにおいて精巣にのみ約3.2kbの転写物が検出されるという、非常に特異的な発現パターンを示す。

 マウス精巣cDNAライブラリーから得た全長typcDNAは1278bp(426アミノ酸)のORF(open reading frame)を含んでいた。cDNAの塩基配列から推定されるTypはPTPドメインをC末端にもつ細胞質型PTPである(図1)。一般に細胞質型PTPは1つのPTPドメインとそれ以外の多様な非触媒領域から構成されており、非触媒領域がそれぞれのPTPの細胞内での局在や基質特異性、酵素活性の調節に関与していると考えられている。Typの非触媒領域(N末端領域)には既知のタンパク質との有意に高い相同性は見られず、また特徴的なドメイン構造も存在しなかった。しかし、プロリン、グルタミン酸、セリン、スレオニン、アスパラギン酸に富んだ配列を含んでおり、c-Fosなど短寿命タンパク質の不安定性領域として推定されているPEST配列に相当すると考えられた。また、N末端にはcdc2キナーゼの認識可能配列(ST/PTK/R)が2ヵ所存在する。

図1 typcDNAの構造ヒトtypPCRフラグメントをプローブに用い、マウス精巣cDNAライブラリーからtyp全長をコードするcDNAクローンを単離した。塩基配列を決定した結果1278bp(426アミノ酸)のORFを含んでいた(3’及び5’非翻訳領域を太線で、ORFを四角で表す)。また上に主な制限酵素認識部位を示す。H:HindIII、E:EcoRI、V:EcoRV、P:PstI、X:XhoI

 TypのN末端領域(アミノ酸51-164)、及びPTPドメインのN端側を含むTypの中央部分(アミノ酸165-285)に対する2種類のポリクローナル抗体(抗TypN1抗体、抗TypC1抗体)を作製した。これらの抗体を用いたウエスタン解析では精巣の抽出液中及びTyp発現ベクターpME-Typをトランスフェクションした培養細胞抽出液中に、45および40kDaのタンパク質としてTypが検出された(図2、レーン3、5)。複数のタンパク質が検出される理由として、全長Typタンパク質(45kDaタンパク質)がプロセシングを受けて40kDaタンパク質になる可能性と、複数の翻訳開始点をもつ可能性とが考えられた。そこでまずin vitroでTypの全長をコードするcDNAを転写、翻訳させたところ、やはり45及び40kDaのタンパク質がつくられた(図2、レーン6)。さらに第1メチオニンをコードするATG218コドンに変異を導入したTyp発現ベクターをトランスフェクションした場合には45kDaのTypタンパク質は発現せず、40kDaのTypのみが発現した。これらの結果は40kDaのタンパク質は45kDaのタンパク質が分解等の翻訳後修飾を受けた結果できたものではないことを示しており、第2の翻訳開始点が存在する可能性が示唆された。次にN末端97アミノ酸を欠いたTypを、FLAGエピトープをつけて発現させたところ、このTypタンパク質は40kDaのTypよりもやや速い移動度を示した。従って、40kDaのTypの翻訳開始コドンはメチオニン97をコードするATG665までの領域に位置すると考えられた。これまでにORFの内部にあるATGまたはCTGコドンが第二の翻訳開始コドンとして働いている例が報告されているが、Typのこの領域内にある全てのATG及びCTGコドンに変異を導入しても40kDaのTypの合成は阻害されなかった。アミノ酸97番目までの領域内を部分的に欠損した変異体を作製した結果、メチオニン38からロイシン60の間を欠損した場合に40kDaのTypの発現が見られなくなった。これらの結果は第1メチオニンをコードするATG218コドンと共に、それより下流にあるATG及びCTG以外のコドンが翻訳開始コドンとして使われ、その結果45kDa及び40kDaのTypがそれぞれ合成されることを強く示唆している。

図2 Typの発現4週齢マウスの脳(Br)、卵巣(Ov)及び精巣(Te)から調製した抽出液(各100g)をSDS-PAGEで分離し、抗TypN1抗体(レーン1-3)または抗TypC1抗体(レーン4、5)を用いてウエスタン解析を行った。また、typcDNAを鋳型に合成したRNAを、[35S]メチオニン存在下でin vitro翻訳し10%SDS-PAGEで分離、合成されたタンパク質の検出を行った(レーン6)。図3 精巣におけるtypmRNAの発現分布(in situハイブリダイゼーション)DIG標識RNAプローブを作製し、8週齢マウス精巣の凍結切片にin situハイブリダイゼーションを行った。A,C:アンチセンスプローブ、B:センスプローブ

 精巣におけるTypタンパク質の発現に関しては生後、週齢を追ってウエスタン解析で調べた結果、3週齢になって初めてTypは検出された。生後第1回目の精子形成は精巣内で同調的に進行するため、Typの発現が生後2週から3週の間に開始されるという結果はTypがライディヒ細胞やセルトリ細胞などの体細胞、あるいは精原細胞ではなく、精母細胞以降の段階にある生殖細胞に発現していることを示唆する。typの精巣内の発現分布を明らかにするため、まず8週齢マウスの精巣の凍結切片に対してin situハイブリダイゼーションを行った。精巣中の生殖細胞は幹細胞である精原細胞(spermatogonia)、一次精母細胞(primary spermatocyte)、二次精母細胞(secondary spermatocyte)、精細胞(spermatid)、精子(sperm)の5種類に分類される。精子形成過程は精巣の構成単位である精細管内で、外縁部から内腔に向かって移行しながら進行するため、精細管の断片にはそれぞれの成熟段階にある生殖細胞が同心円状の層状構造をとって配置している。また、精巣の切片上にあらわれる精細管は含まれる生殖細胞の種類とその分布状況から12ステージに分類される。typmRNAの発現は基底膜よりも一層中心寄りの細胞層を構成するパキテン期精母細胞に強く、セルトリ細胞や精原細胞、第二精母細胞以降の生殖細胞には発現はみられなかった(図3A)。低倍率の視野で観察した場合、typmRNAのシグナルがみられない精細管が存在した(図3C)。このことはtypmRNAの発現が精子形成過程において第一精母細胞のある一時期に限局されていることを示している。更に精巣切片および遊離させた精細管内の細胞に対し間接蛍光抗体染色を行い、各ステージにある精細管における発現を解析した結果、Typは後期パキテン期から分裂期にかけての限局された時期に強い発現を示すことが明らかになった(図4)。また、細胞内におけるTypの局在は主に細胞質であったが、核内にも存在が確認できた。

図4 精巣におけるTypタンパク質の発現分布8週齢マウス精巣の凍結切片に対し、抗TypN1抗体を用いた間接蛍光抗体染色を行った。2次抗体としてFITC標識抗ウサギIgG抗体を用い、染色体をPIにより染色し、共焦点顕微鏡により観察した。

 一方、成体の卵巣でのtypの発現はノザン解析およびウエスタン解析では検出されなかったが、胎児期の卵巣での発現をRT-PCRで解析したところ、卵母細胞がパキテン期に入る16.5dpcの卵巣においてtypmRNAの発現が確認された。従ってTypは厳密な発現調節を受けて生殖細胞において精子・卵子形成過程の一時期に特異的に発現し、生殖細胞の減数分裂過程に関与しているPTPであると考えられる。

 パキテン期には相同染色体の対合とそれに続く組み換えがおこる時期であり、減数分裂の中でも最も長い時間をかけて進む重要な過程である。この時期に特異的に、あるいはこの時期にのみ特異的なスプライシングフォームが発現する遺伝子としては、精子形成に必要な構成タンパク質や熱ショックタンパク質の他にも転写因子様タンパク質、プロテインキナーゼ、ホスファターゼがいくつか報告されている。これらのタンパク質とともにTypが精子形成、あるいは減数分裂に特異的なシグナル伝達系に関与している可能性が示唆される。

 また、Typの生理機能の解析のためにジーンターゲティングを行うことを計画し、typの染色体遺伝子のクローニング及びエクソンーイントロン構造の解析を行った。今後マウスにおいてtyp遺伝子の破壊、あるいは変異型typへの置換を行うことにより、生体内におけるTypの生理的な機能の解析を進める。

審査要旨

 本論文において申請者は生殖細胞特異的に発現する新規の細胞質型PTP遺伝子を同定、単離し、その解析を行った。本論文の内容を要約すると以下のようになる。

 申請者はRT-PCR法によるPTP遺伝子の増幅及び、コロニーハイブリダイゼーション法による既知のPTP遺伝子クローンの排除を行うことにより、新規PTP遺伝子、typを同定した。ノザン解析により、typはヒト及びマウスにおいて精巣にのみ約3.2kbの転写物が検出されるという、非常に特異的な発現をするPTP遺伝子であることが示された。マウス精巣cDNAライブラリーから得た全長typcDNAは1278bp(426アミノ酸)のORFを含んでおり、そこから推定されるTypはPTPドメインをC末端にもつ細胞質型PTPであった。Typに対するポリクローナル抗体を2種類作製し、ウエスタン解析を行うと精巣の抽出液中及びTyp発現ベクターをトランスフェクションした培養細胞抽出液中に、45および40kDaのタンパク質としてTypが検出された。in vitroでのTypcDNAの転写、翻訳反応によっても45及び40kDaのタンパク質が合成され、また、第1メチオニンをコードするATG218コドンに変異を導入した発現ベクターを用いた場合には45kDaのTypタンパク質は発現せず、40kDaのTypのみが発現した。これらの結果は40kDaのタンパク質は45kDaのタンパク質が分解等の翻訳後修飾を受けた結果できたものではないことを示しており、第2の翻訳開始点が存在する可能性が示唆された。更に申請者は40kDaのTypの翻訳開始コドンは97番目アミノ酸をコードするATG665コドンまでの領域に位置すると考えられることを示し、この領域内にある全てのATG及びCTGコドンへの変異の導入を行ったが、いずれも40kDaTypの翻訳開始点ではないことが示された。更に部分的欠損変異体を作製し、40kDaTypはン38からロイシン60の間に存在するATG及びCTG以外のコドンを翻訳開始コドンとして合成されることを示唆するデータを示した。

 精巣におけるTypの発現は生後3週齢以降に検出された。この結果からTypが精母細胞以降の段階にある生殖細胞に発現していることが示唆された。in situハイブリダイゼーションを行った結果、typmRNAの精巣組織における発現はパキテン期精母細胞に検出されたが、セルトリ細胞や精原細胞、第二精母細胞以降の生殖細胞には発現はみられなかった。また、typmRNAのシグナルがみられない精細管が存在することから、typmRNAの発現が精子形成過程において精母細胞のある一時期に限局されていることが示された。更に精巣切片に対し間接蛍光抗体染色を行った結果、Typの発現はステージIX-XIの精細管に認められ、精母細胞の中でも後期パキテン期から分裂期にかけての限局された時期に強い発現を示すことを明らかにした。また、精細管から遊離させた細胞を染色した結果から、細胞内におけるTypの局在は主に細胞質であることが示された。

 一方、成体の卵巣でのtypの発現はノザン解析およびウエスタン解析では検出されなかったが、胎児期の卵巣での発現をRT-PCRで解析したところ、卵母細胞がパキテン期に入る16.5dpcの卵巣においてtypmRNAの発現が確認された。

 また、typの染色体遺伝子構造を明らかにし、他の既知のPTP遺伝子との比較を行い、typのPTPドメインはこれまでに報告のあるPTP遺伝子の中で最も少ない数のエクソンから構成されることを示した。

 以上、申請者は生殖細胞特異的な発現を示す新規のチロシンホスファターゼ遺伝子、typを同定、クローニングし、Typが精母細胞においては後期パキテン期から減数分裂分裂期にかけての限局した時期に発現していることを示し、さらに卵母細胞にも発現していることが示唆されている。タンパク質のチロシンリン酸化・脱リン酸化が細胞内シグナル伝達系の鍵となっていることから、Typは減数分裂過程に関与しているPTPである可能性が考えられる。従って本論文は哺乳動物の減数分裂の機構解明に寄与する研究であると考えられ、博士(理学)の学位を授与するに値するものと認めた。

 なお、本論文の一部は既に倉持敏美氏、松田覚氏、山本雅氏との共著論文として発表されているが、申請者が主体となって分析および検証を行ったものであり申請者の寄与が充分であると判断する。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54621