本論分は5章と付録からなり、第1章は本研究の序論、第2章は細胞株を用いたエリスロポエチン(EPO)による赤芽球分化のシグナル伝達経路の解析、第3章は初代培養細胞を用いたEPOシグナル伝達系の解析、第4章はEPOシグナル伝達に重要な転写因子STAT5の活性化機構、第5章に全体のまとめと総合的な考察が述べられ、さらに付録としてマウス赤芽球細胞株の分化誘導時に誘導されるチロシンフォスファターゼの遺伝子クローニングについて述べられている。 サイトカインは、細胞の増殖、分化、細胞死の制御を司る重要な細胞間の情報伝達分子である。サイトカインは細胞膜上に存在する受容体を介してそのシグナルを細胞の中へ伝達する。サイトカイン受容体によって引き起こされた一連のシグナルは核へ伝えられ、一群の遺伝子発現を制御することによって、その多彩な機能が発現される。サイトカインとその受容体、細胞内シグナル伝達分子の異常は、細胞の癌化を招くことから、そのシグナル伝達系の解明は、癌をはじめ多くの疾患の原因究明という面からも注目されている。1980年代に始まったサイトカインとその受容体のクローニングは、細胞の増殖、分化、細胞死の制御の理解を大きく進めたが、細胞内シグナル伝達および遺伝子発現調節の全貌は、今だ明らかにされていない。 エリスロポエチン(EPO)は赤血球前駆細胞の増殖、分化に中心的な役割を担うサイトカインである。転写因子STAT5は、プロラクチンによるベーターカゼインの転写誘導の媒介分子として見つかった転写因子であるが、その後の研究からEPOを含む多くのサイトカインによって活性化され、サイトカインのシグナル伝達において極めて重要な分子であることが明らかになった。本論文の第2章においては、EPOのシグナルの赤血球分化における役割を特にSTAT5の活性化に着目して解析がなされた。マウス赤芽球細胞株SKT6は、サイトカイン非依存的に増殖するが、EPOに応答してヘモグロビンの合成を行う。EPOによって初期に引き起こされるシグナルを解析し、EPOR、JAK2およびSTAT5の活性化が引き起こされることを明らかにした。一方、SHC、MAPK、P85の活性化は、EPO非依存的であった。そこで、まず、この細胞分化にEPO特異的なシグナルが必要であるかどうか検討するため、STAT5を活性化するが本来赤芽球では発現していないプロラクチン受容体をSKT6に発現した。プロラクチン受容体を発現したSKT6は、プロラクチンによってEPOと同様にヘモグロビン合成を引き起こした。このことから、この細胞分化にはEPO特異的なシグナルは必要でなく、EPOとPRLに共通なシグナルが重要であると考えられた。さらに、EPORの細胞内領域のチロシン残基をフェニルアラニンに置換した変異体の解析から、STAT5の活性化と赤血球分化がよく対応することを見い出した。さらに、優勢抑制型STAT5の発現により、EPOによる赤血球分化が抑制された。以上の結果から、細胞株SKT6における赤血球分化にSTAT5が重要な役割を果たしていると結論した。 第3章では第2章で得られたin vitroの結果をより生体に近い条件下で検証するために、マウス胎仔血液細胞に変異型のシグナル分子をレトロウイルスを用いて発現し、EPO依存性の赤芽球コロニー(CFU-e)形成を調べた。外来性のEPO受容体を内在性EPO受容体と区別するために、EGF受容体の細胞外領域をEPO受容体の細胞内領域に連結したキメラ受容体をマウス胎仔細胞で発現し、EGFで刺激すると、EPOと同様CFU-eが形成された。さらに、細胞内領域のチロシン残基の全てをフェニルアラニンに置換した変異キメラ受容体を発現させると、EGF刺激によるCFU-eコロニー形成は、全く起こらなかった。この結果は、EPORのチロシン残基の重要性を示している。さらに、野生型STAT5、優勢抑制型STAT5などをIRES-GFPbicistronic発現ベクターを用いて胎仔細胞に導入し、GFP陽性細胞を分離し、そのCFU-eコロニー形成を調べた。優勢抑制型STAT5を発現した細胞は、EPOによるCFU-eコロニー形成が阻害された。これらの結果は、SKT6細胞株の結果と一致し、in vivoにおいてもEPORを介した赤血球分化におけるJAK2-STAT5経路の重要性が明らかにされた。 第4章ではEPOをはじめ多くのサイトカインのシグナル伝達に関わるSTAT5の活性化機構について検討を加えた。ベーターカゼインは、主に乳腺で発現され、STAT5はプロラクチンによるベーターカゼインの転写誘導に必須の分子として見つかった転写因子である。そのため、ベーターカゼインの転写調節機構は、以前からSTAT5の転写制御モデルとして研究されてきた。本章では、ベーターカゼインが、細胞障害性T細胞株CTLL-2細胞において、STAT5を活性化するIL-2に応答して発現誘導されることを見い出し、この細胞系を用いてSTAT5による遺伝子発現調節について検討した。IL-4は、STAT5を活性化せずSTAT6を活性化するが、CTLL-2細胞においては、STAT5によって制御されていると考えられている遺伝子、ベーターカゼイン、CIS、OSMの転写誘導を引き起こした。このことから、T細胞においては、STAT6が、STAT5の役割を代替しうることが示唆された。乳腺でのプロラクチンによるベーターカゼインの転写誘導は、グルココルチコイドにより増強されることが知られていたが、T細胞でのIL-2によるベーターカゼインの転写誘導もグルココルチコイドによって増強されたので、このメカニズムにつき検討した。ベーターカゼインのプロモーター領域には、グルココルチコイドの受容体の結合部位は存在せず、その相乗作用には、ベーターカゼインの-155から-193のプロモーター領域が必要であった。しかも、この領域を欠失するとIL-2単独によるベーターカゼインのプロモーターの活性は、増強された。これらのことから、グルココルチコイドによる相乗効果は、負の制御を解除することである可能性が示唆された。活性型Rasがプロラクチンによるベーターカゼインの転写を抑制するという以前の報告と同様に、活性型Rasは、IL-2によるベーターカゼインプロモーターの活性化を抑制した。この抑制は、ベーターカゼインの-105から-193のプロモーター領域を介していた。優勢抑制型Rasもまた、STAT5結合配列を含むベーターカゼイン、CIS、OSMのプロモーターを抑制した。さらに、RasのSTAT5活性化への関与は、Rasを活性化できないEPORによるベーターカゼインプロモーターの活性化を活性型Rasが増強することからも示唆された。これらの結果は、サイトカインからのベーターカゼイン遺伝子発現の調節に、STAT5と他のシグナル経路(グルココルチコイドやRas)との相互作用、その総和によって決定されていることを示すものである。 第5章には本研究のまとめと総合的な考察が述べられている。 付録 MEL(Mouse erythroleukemia)細胞は、DMSOやHMBAなどの化学分化誘導剤によって前赤芽球様細胞に分化し、末端分化のモデル系と考えられている。これまでの研究からMEL細胞の分化誘導時に細胞内蛋白質の脱リン酸化反応が重要な役割を果たすことが知られていた。分化誘導に伴い転写誘導され、かつ、分化誘導欠損株でその転写誘導が見られないPTPase様の部分配列を持つ新規遺伝子RIP(Rapidly Induced protein tyrosine Phosphatase)に注目し、分化誘導したMEL細胞のRNAから作製したcDNAライブラリーから、RIPの全長cDNAを単離し、全長7932残基を決定した。cDNAは、チロシン脱リン酸化酵素の酵素活性領域とhomologyの高い領域をC末に一つ持ち、推定2450アミノ酸、269.8キロダルトンのチロシン脱リン酸化酵素をコードする新規遺伝子であった。RIPは、スプライシングによるいくつかの転写産物を持ち、腎臓で強く発現し、肺、心臓、脳、精巣で発現していた。RIP遺伝子は、マウス5番染色体のD5Mit90とD5Mit25の間にマップされた。 この研究は学位申請者がその修士課程に現指導教官と異なる研究室にて行ったものである。赤芽球分化という点では本学位論文の主たる研究テーマであるEPOによる赤血球分化シグナルにも深い関連があり、当初、本論文に組み込まれていた。しかし、試験委員から、独立した研究テーマであり付録という形の方が望ましいとの意見があり、付録とすることとした。 第2章の内容は若尾宏、J.Damen,G.Krystal,宮島篤との共同研究、第3章は宮島篤との共同研究、第4章は若尾宏、吉村昭彦、宮島篤との共同研究、さらに付録は久米努、向山洋介、田端哲之、野村信夫、M.Thomas,渡辺利雄、大石道夫との共同研究であるが、いずれにおいても、学位申請者の千田大が中心的に解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。 |