本論文は、分裂酵母であらたにみつかった、cAMP依存性プロテインキナーゼ(Aキナーゼ)に高い相同性をもつ産物をコードする遺伝子sck2について、主として分子遺伝学的な解析を行った結果を述べたものである。代表的な実験室酵母である出芽酵母Saccharomycescerevisiaeと分裂酵母Schizosaccharomycespombeは、ともにAキナーゼを用いて細胞外の栄養条件を認識している。出芽酵母ではAキナーゼは生育に必須であり、Aキナーゼ欠損株の致死性を多コピー導入によって抑圧できる遺伝子としてSCH9が知られている。SCH9遺伝子はプロテインキナーゼをコードしており、そのキナーゼドメインはAキナーゼおよびCキナーゼと高い相同性を示す。Sch9pキナーゼはAキナーゼと基質の一部を共有していると考えられている。一方、分裂酵母ではAキナーゼは生育に必須ではないが、その欠損株は生育速度の低下、細胞長の短縮、性的脱抑制などの表現型を示す。出芽酵母SCH9の分裂酵母における相同遺伝子と考えられるsck1遺伝子を過剰発現することによってこれらの表現型が抑圧されること、また野生株でsck1遺伝子を過剰発現すると、Aキナーゼが活性化された場合と類似の表現型が見られることを、論文提出者は修士課程において明らかにした。しかし当時の研究では、sck1遺伝子単独の破壊株には顕著な表現型が確認できず、sck1の相同遺伝子が存在する可能性が残されていた。 本研究で論文提出者は、分裂酵母ゲノムプロジェクトにおいて近年その塩基配列が同定されたSPAC22E12.14c遺伝子に注目した。この遺伝子は塩基配列の比較から明らかにsck1遺伝子の相同遺伝子と考えられたので、"sck2"と命名してその解析を進めた。過剰発現実験の結果、sck2はsck1の場合と同様に、Aキナーゼ欠損株の示す性的脱抑制、細胞長短縮、生育速度低下の表現型を抑圧した。またsck2の過剰発現が野生株の接合を阻害して細胞を伸長させる点は、Aキナーゼ活性が昂進した場合に類似していた。 一方遺伝子破壊実験の結果、sck2単独の破壊株には細胞形態、生育速度および胞子の発芽、有性生殖過程について野生株と異なる有意な表現型は観察されなかった。しかし、sck1遺伝子破壊株の示す弱い性的脱抑制の表現型がsck2破壊によって増強されることが明らかとなった。この表現型が低glucose濃度でより強く現れることは、Sck1p、Sck2pが細胞外のglucose濃度を感知する細胞内情報伝達系と関わりをもっていることを示唆している。またAキナーゼ欠損株は生育速度低下の表現型を示すが、その株においてsck1,sck2両遺伝子をともに破壊すると生育速度がさらに低下することが判明した。すなわち、Aキナーゼ、Sck1p、Sck2pは生育速度を維持する機能を共有していると考えられる。さらに、Aキナーゼを欠いた胞子の発芽率は野生株に比べて低いが、そこにsck1遺伝子破壊を組み合わせると発芽率が極端に低下した。しかしAキナーゼ欠損株においてsck2遺伝子を破壊した場合にはそのような効果は見られず、sck1とsck2が全く等価ではないことも明らかになった。これら以外の表現型として、Aキナーゼ欠損株においてsck1遺伝子またはsck2遺伝子のどちらか一方または両方を破壊すると細胞が凝集しやすくなることも観察されている。 以上の結果は、sck1,sck2両遺伝子のコードするプロテインキナーゼ間、および両遺伝子のコードするプロテインキナーゼとAキナーゼとの間に機能重複があるという考えを支持するものである。一次構造上の類似性から考えると、これらのキナーゼ間で(一部の)基質が共有されているために機能的な重複があるものと推定される。しかし遺伝子破壊が引き起こす酵母細胞の性的脱抑制の強度に差があることなどから、全ての基質が共有されていない可能性も示唆されており、Sck1p、Sck2pとAキナーゼとの基質特異性の異同を検討することが今後の重要な課題として残された。またSck1pについては細胞外に栄養源(glucose、asparagine)が添加されたことを認識する細胞内情報伝達系の因子であることが最近他のグループから報告されており、その際のSck1pの活性調節機構の解明と、Sck2pが何らかの情報伝達を行っている可能性を検討することも今後の課題として残されている。 以上、本研究ではあらたなプロテインキナーゼと考えられる産物をコードするsck2遺伝子についてその基本的な性格づけを行い、その産物のAキナーゼ、Sck1pキナーゼとの相互作用を解明した。得られた結果の多くがまだ記述的なレベルのものであり、問題提起に終わっている点には不満も感じられるが、研究は遺伝学的解析としてひと纏まりをなすものであり、分野に対して十分有用な情報を提供しているものであると本委員会は全員一致で判定した。なお、本研究は山本正幸との共同研究であるが、大部分を論文提出者が主体となって分析及び検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。 よって、博士(理学)の学位を授与できると認める。 |