学位論文要旨



No 113297
著者(漢字) 高橋,亮
著者(英字)
著者(カナ) タカハシ,キヨシ
標題(和) 文化伝達の数理
標題(洋)
報告番号 113297
報告番号 甲13297
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3443号
研究科 理学系研究科
専攻 生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 青木,健一
 東京大学 教授 木村,賛
 東京大学 教授 平井,百樹
 東京大学 教授 田嶋,文生
 九州大学 教授 厳佐,庸
内容要旨

 1970年代より,文化の本質を社会学習による個体間の情報伝達に見出し,集団遺伝学的な手法を援用することで文化変化の過程を記述・解析する試みが為されてきた.本研究も基本的にこの流れに沿うものであり,数理模型の解析を通して文化伝達の特質を明らかにし,生物の文化的な側面を進化生物学の理論枠の中で捉えることを目指すものである.

 特に適応進化論の立場から人類文化を扱う際の問題は,(1)人類進化過程における文化の起源,或いは(2)文化がその後の人類進化に及ぼす影響の2点に集約される.本研究は,問題(1)に対して遺伝-文化共進化論の立場から,問題(2)に対して文化伝達論の立場から接近するものであり,特に問題(2)については,(a)伝達様式の進化,ならびに(b)偏向文化伝達の進化という2つの研究課題を独立に設定している.

 以下,各研究の概略を述べる.

1.Two-locus haploid and diploid models for the coevolution of cultural transmission & paternal care.

 本研究は,現生人類に至る系統において,なぜ,他の生物種に見られないほどの文化的な能力が起源したのかという問題に対して,特に雄親による育児行動の共進化に着目して,理論的に接近しようとするものである.一般に哺乳類では授乳を中心とした雌親による育児行動は普遍的に観察されるのに対し,雄親の育児活動への関わりは,多くの種において最小限に留まっている.この傾向はサル類についても基本的に成立すると考えられているが,例外的に数種のサルでは雄親が強度に育児活動に参加することが知られており,特にヒトではその社会構造が単婚的な家族を単位として形成されていることと併せて,研究者達の関心を集めてきた.

 一方,先行研究からは,仔への文化情報の伝達が片親からに限られている場合,文化伝達を可能にする遺伝能力が集団中に拡がるためには,その情報を獲得することによって適応度が少なくとも二倍に上昇することが必要であることが知られている.このように飛躍的な適応度の上昇はあまり期待できないことから,両親が文化情報の伝達に参加する場合に文化伝達が起源しやすくなると考えられる.つまり,親から仔への文化伝達は育児行動を通して初めて可能になるとすると,人類進化の過程において,文化伝達の能力と雄親による育児行動が相互に影響を及ぼし合ってきたことが考えられる.

 研究1では,このような共進化の可能性を探ることを目的として,二遺伝子座一倍体ならびに二倍体模型を用いた遺伝-文化共進化解析を行った.その結果,雄親が仔の世話をし,雄親と仔の継続的な関わり合いが仔への適応的な文化情報の伝達を促進するのであれば,文化伝達を可能にする能力が集団中に拡がるための条件がより容易に満たされることがわかった.逆に,教育における雄親の役割が特に重要であれば,雄による配偶者の遺棄よりも,仔の世話をする傾向が進化しやすくなることもわかった.数理的により簡潔な一倍体模型から得られた予測は,より現実的な二倍体模型についても近似的に成り立ち,また,父性信頼度が低く,雄が血縁関係にない幼齢個体の世話をしたり,文化情報を伝達することが頻繁にあると,文化伝達・雄親の育児の両方が進化しにくくなることも示された.

 以上のことから,特に人類に至る系統では,文化伝達と単婚的な家族が相互に影響を及ぼし合いながら起源したことが想像される.現存する狩猟採集社会では,狩猟技術の伝達において雄親による仔の教育が重要であるという報告もあり,文化伝達と単婚的な家族の起源に狩猟活動が大きく関わっていたのではないかとも考えられる.このように,本研究は,他の生物種とは比較にならないほど高度に発達していると考えられる人類の文化伝達能力と,サル類として例外的である雄親の育児活動への参加について,その起源の理論的な裏付けの一例を与えるものである.

2.Theoretical aspects of the mode of transmission in cultural inheritance.

 上記研究1は,文化的な能力の起源を問題とするものであり,その結果は,文化情報を獲得することが適応性の増大をもたらす場合に,文化的な能力が進化しやすいことを示すものである.このことは,文化が起源すると共に人類の適応性が増進されることを示唆している.

 この傾向は,ひとたび文化が起源した後にも継続的に成立すると結論付けられるのだろうか.これまでの理論研究は,このような見方に否定的である.遺伝伝達系と対比される文化の特徴のひとつとして,垂直伝達(親から仔への情報伝達)以外に斜行(世代間)・水平(世代内)経路を通した情報伝達が可能であることが挙げられる.先行研究が示すところによると,文化情報の伝達が斜行・水平経路を通した非垂直伝達に大きく依存すると,適応性の減少をもたらすような非適応的な文化情報が集団中に侵入し,安定に維持されることがある.このような場合,人類に文化的な能力が備わっていることが,結果的にその適応性の減少を招いていることになる.一方で,垂直経路が文化情報の主要な伝達様式である場合には,基本的に適応的な文化情報だけが集団中に維持されることがわかっている.

 このように,非垂直伝達への依存が適応性の減少をもたらすものであるならば,頻繁に非垂直文化伝達が観察される理由は何だろうか.研究2は,二形質文化伝達模型の解析を通して,この疑問に答えようとするものである.通常の局所安定性解析から,単一集団内過程は垂直伝達率(文化伝達において,垂直経路に依存する割合)の上昇を促し,同時に,集団の平均適応度も上昇させることがわかった.その一方で,適応性の向上をもたらす文化情報が選択的に獲得されるような伝達の偏向性が存在する場合には,非垂直伝達への依存が大きいほど,適応的な文化情報が急速に集団中に普及することができ,結果として集団の平均適応度が上昇することが示された.このことから,もし集団間の平均適応度の差異に作用する文化群淘汰が有効な進化圧をもたらすものであれば,垂直伝達率が減少する方向に進化が進むことが期待される.

 このことは,文化変化の方向を決定する際に,文化伝達の偏向性が重要な役割を果たすことを示している.文化伝達における垂直経路への依存の問題は,ヒトとヒト以外の生物に見られる社会情報伝達を比較論的に扱う際にも重要であることが,多くの比較社会心理学者によって認識されているが,ここでも,ヒトとヒト以外の生物で見られる社会学習行動を分けるものは情報伝達における偏向性であると考えられている.偏向文化伝達の問題は,次の研究3で扱われる.

3.Evolution of transmission bias in cultural inheritance.

 文化伝達に際し,ある文化情報が他の情報よりも獲得されやすい場合,即ち,文化伝達に偏向性が存在すると,他の進化圧を伴わずに集団の文化組成に決定論的な変化が生じることがある.このような情報間の伝達性の差異に作用することで進化的な変化をもたらす淘汰様式は,産仔数・生存力の差異に作用する自然淘汰と区別して文化淘汰と呼ばれている.

 進化心理学,ヒト行動生態学を軸とする現代ヒト行動進化研究の趨勢は,文化は脳の活動によって生産されるものであり,その脳も適応進化によって獲得された身体器官である以上,結果として生じる文化も;人類の適応性を増大させるように進化してきたと主張する.ヒトの心理・行動機構は,適応的な文化情報を選択的に獲得するように偏向しているということである.しかし,このような議論の多くは安易な適応論に根差すものであり,その背景に堅実な理論基盤があるようには見受けられない.また,多くの人類集団で非適応的な文化が観察されることを説明できない.

 研究3は,伝達の偏向性の進化を記述する二形質文化伝達模型を用いて,偏向性が文化的に規定される場合,必ずしも生存力を高める文化情報が選択的に獲得される方向に偏向性が進化するわけではないことを示すものである.文化伝達の偏向性は,性淘汰における配偶者の選好性に相当すると考えられるが,実際,ここで扱われる模型は,配偶者選択の進化模型と類似した数理構造を有し,結果的に性淘汰の二遺伝子座模型の場合と同じような進化動態を示すことがわかった.このことは,特定の初期条件の下では非適応的な文化情報の侵入が起こり,更にFisher流の暴走過程を通して非適応的な文化情報が集団中に固定することも可能であることを示している.

 この結果は,ある文化形質に対する偏向性自体が文化的に規定されているときには,必ずしも生存力を高める形質状態を好む方向に進化が進むとは限らないことを示している.多くの人類集団で観察される非合理的な文化形質の存在も,文化淘汰を考慮することによってある程度は説明しうると期待される.実際に民族学的な情報を用いて文化淘汰を性淘汰とは異なるものとして議論するには非常な困難が伴うと予想されるが,特に現代社会で観察されるような遺伝進化を伴わない急激な社会文化変動を文化伝達理論から扱う場合,むしろ遺伝的な要素を議論から除外し,世代を単位時間としない方法論による解析が有効であろうと考えられる.現段階では,文化伝達に関する事例研究や,個体の社会学習行動に関する情報は大きく欠落しており,この方面の今後の発展が望まれる.

審査要旨

 本論文は4章(第0〜3章)からなり,第0章では進化論に立脚した文化の捉え方について概観し,第1章では文化伝達と父親の育児行動の共進化について,第2章では垂直文化伝達について,第3章では偏向文化伝達ならびに文化淘汰について述べられている.

 第0章は,ヒト行動進化研究全体の流れの中で,近年の文化伝達理論がどのように位置付けられるかを綜説としてまとめたものである.

 第1章は,人類進化の過程において,文化伝達の能力と雄親による育児行動が相互に影響を及ぼし合ってきた可能性を探ることを目的として,遺伝-文化共進化模型を解析するものである.解析の結果,雄親が仔の世話をし,雄親と仔の継続的な関わり合いが仔への適応的な文化情報の伝達を促進するのであれば,文化伝達を可能にする能力が集団中に拡がるための条件がより容易に満たされることがわかり,逆に,教育における雄親の役割が特に重要であれば,雄による配偶者の遺棄よりも,仔の世話をする傾向が進化しやすくなることが明らかにされた.特に人類に至る系統では,文化伝達と単婚的な家族が相互に影響を及ぼし合いながら起源したことを示唆している.現存する狩猟採集社会では,狩猟技術の伝達において雄親による仔の教育が重要であるという報告もあり,文化伝達と単婚的な家族の起源に狩猟活動が大きく関わっていたのではないかとも考えられる.本章は,他の生物種とは比較にならないほど高度に発達していると考えられる人類の文化伝達能力と,サル類として例外的である雄親の育児活動への参加について,その起源の理論的な裏付けの一例を与えるものである.

 第2章は,二形質文化伝達模型の解析を通して、垂直文化伝達の進化を探求するものである.通常の局所安定性解析から,単一集団内過程は垂直伝達率(文化伝達において,垂直経路に依存する割合)の上昇を促し,同時に,集団の平均適応度も上昇させることを明らかにした.その一方で,例えば,適応性の向上をもたらす文化情報を選択的に獲得する伝達の偏向性が存在することがあると,非垂直伝達への依存が大きいほど、適応的な文化情報が急速に集団中に普及することができ,結果として集団の平均適応度が上昇することが示されている.このことから,もし集団間の平均適応度の差異に作用する文化群淘汰が有効な進化圧をもたらすものであれば,垂直伝達率が減少する方向に進化が進むと推論している.非垂直伝達への依存を高める要因については,他の可能性も含め,今後も検討を続ける必要がある.

 第3章は,伝達の偏向性の進化を記述する二形質文化伝達模型を用いて,偏向性が文化的に規定される場合,必ずしも生存力を高める文化情報が選択的に獲得される方向に偏向性が進化するわけではないことを明らかにしている.このことは,ある文化形質に対する偏向性自体が文化的に規定されているときには,必ずしも生存力を高める形質状態を好む方向に進化が進むとは限らず,多くの人類集団で観察される非合理的な文化形質の存在も,文化淘汰によって説明できることを示唆している.また,現代社会で観察されるような遺伝進化を伴わない急激な社会文化変動を扱う場合,むしろ遺伝的な要素を議論から除外し,世代を単位時間としない方法論による解析が有効であろうと考えられるが、本章で提示される理論枠は,このような目的に非常に適したものである.

 なお,本論文第1章は指導教官である青木健一との共同研究であるが,研究は論文提出者と共同研究者によって独立に進められ,論文提出者が主体となって原稿を執筆したものであり,論文提出者の寄与が充分であると判断する.

 したがって,博士(理学)の学位を授与できると認める.

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