本論文は3章からなり、第1章では押しつぶし展開-DAPI染色法という花粉のオルガネラ識別法の開発と花粉形成過程を通した経時的解析について、第2章ではテクノビットDiOC6-DAPI二重染色法によるオルガネラの識別と経時的解析について、第3章では花粉第一分裂後の雄原細胞オルガネラDNAの増減により細胞質遺伝様式が決定されるという仮説の検証について述べられている。 高等植物の細胞質遺伝様式は母性遺伝型と両性遺伝型とに大別され、細胞学的には成熟花粉の雄原細胞/精細胞内にオルガネラDNAが存在しないか存在するかの違いにあらわれる。しかしこれまで、そのオルガネラDNAがミトコンドリアのものか色素体のものか区別されていないため遺伝学的証拠との比較が曖昧なままであり、花粉形成過程を通しての詳細な観察報告もないため具体的な機構について不明な点が多かった。論文提出者はこうした観点から、花粉内のミトコンドリアDNAと色素体DNAを識別する手法を確立し、花粉形成過程を通じてそれらDNA量を分子細胞学的に解析することで、細胞質遺伝のメカニズムを解明することを目標として研究を行った。 第1章で論文提出者は、典型的な両性遺伝型植物のゼラニウム花粉を用いて簡便なオルガネラDNA識別法の開発にあたり、「押しつぶし展開-DAPI染色法」を確立することに成功した。この手法を用いて、ミトコンドリアDNAと色素体DNAを区別しつつ、花粉形成の後期過程におけるオルガネラDNAの挙動を経時的に追跡した結果、ミトコンドリアあたりのDNA量は観察期間を通して大きく変化しなかったのに対し、色素体あたりのDNA量は開花前後に急速に減少することを見出した。さらに抗DNA抗体を用いた金コロイド免疫電子顕微鏡観察を行い、その定量性を証明した。以上のように両性遺伝型植物においても、花粉形成後期過程で色素体DNAを減少する機構(母性遺伝の機構)が不完全ながら作動し得ることを初めて示した。 第2章では、材料を豊富に入手できるアサガオ花粉を用いて、花粉形成前期過程の観察も可能な新たなオルガネラDNA識別法の開発を行い、「テクノビットDiOC6-DAPI二重染色法」を確立した。識別の確実性は、テクノビット電顕法、免疫電顕法等を駆使して、確認された。花粉形成の全過程を追跡したところ、花粉第一分裂直前・直後においてはミトコンドリア、色素体共にDNAを有していたが、分裂後急速に雄原細胞内のミトコンドリアDNAは減少・消失し、反対に色素体DNAは増加するということが示された。このことから、花粉第一分裂後の一時期に雄原細胞のオルガネラDNAが増加するか減少するかが、成熟雄原細胞内のオルガネラの有無を決定している可能性が示された。 第3章では、細胞質遺伝様式がすでに調べられている複数種の植物を用いることで、2章で示された「花粉第一分裂後の雄原細胞オルガネラDNAの増減により細胞質遺伝様式が決定される」という仮説を検証した。8種の植物の雄原細胞を、経時的にテクノビットDiOC6-DAPI二重染色法により観察した結果、以下の4タイプに分類することできた。1.花粉第一分裂後に雄原細胞内のミトコンドリアDNA・色素体DNA共に増加するタイプ(m+p+)(ゼラニウム)、2.ミトコンドリアDNAは増加するが色素体DNAは減少・消失するタイプ(m+p-)(バナナ)、3.ミトコンドリアDNAは減少・消失するが色素体DNAは増加するタイプ(m-p+)(キーウィ・アルファルファ・ツツジ)、4.ミトコンドリアDNA・色素体DNA共に減少・消失するタイプ(m-p-)(ペチュニア・キンギョソウ・シロイヌナズナ)、である。これら細胞学的観察から得られた雄原細胞のオルガネラDNAの増減と、既知の遺伝学的な証拠による細胞質遺伝様式とを比較した結果、オルガネラDNAが増加する場合は両性遺伝型であり、減少する場合は母性遺伝型であることが示された。以上のことから、高等植物の細胞質遺伝様式は、花粉第一分裂後の雄原細胞でおこるミトコンドリアと色素体それぞれのDNA量を増加か減少かに導く制御機構により決定されることが明らかになった。 論文提出者は「DNAを視る」ための複数の手法を常に併用し確認することで、確実な2種類のオルガネラ識別法を確立することに成功した。さらにその手法を用いて経時的な解析を行うことで、花粉形成過程で劇的なオルガネラDNA量の増減が生じていること、及びミトコンドリアと色素体とではその制御機構が独立していることを初めて見出した。そして、花粉形成過程の中でも花粉第一分裂後の早い時期における雄原細胞特異的なオルガネラDNAの増加・減少が、細胞質遺伝様式を決定していることを証明した。こうした一連の研究を通して、高等植物の細胞質遺伝のメカニズムを突止めたという点で、本論文提出者の業績は特に優れているといえる。 なお本論文は、斉藤智恵子氏、酒井敦氏、黒岩晴子氏、黒岩常祥氏(第1章はさらに蘇都莫日根氏も加わる)との共同研究であるが、論文提出者が主体となって解析および検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。 |