学位論文要旨



No 113299
著者(漢字) 佐甲(永田),典子
著者(英字)
著者(カナ) サコウ(ナガタ),ノリコ
標題(和) 高等植物の細胞質遺伝様式を決定するオルガネラDNA制御機構に関する分子細胞学的研究
標題(洋)
報告番号 113299
報告番号 甲13299
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3445号
研究科 理学系研究科
専攻 生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 黒岩,常祥
 東京大学 教授 東江,昭夫
 東京大学 教授 長田,敏行
 東京大学 教授 加藤,雅啓
 東京大学 助教授 河野,重行
内容要旨 1、はじめに

 高等植物の細胞質遺伝様式は、子孫が母方のオルガネラDNAだけで占められるという母性遺伝型と、父方のオルガネラDNAも受継がれるという両性遺伝型とに大別される。遺伝学的な交配実験の結果、ミトコンドリア・色素体共に母性遺伝する種が大多数ではあるものの、両性遺伝する種も全体の2割程度存在することがわかっている。遺伝学的に示された母性遺伝型と両性遺伝型の違いは、細胞学的には成熟花粉の雄原細胞/精細胞内にオルガネラDNAが存在しないか存在するかの違いにあらわれることがMiyamuraら(1987)によりはじめて提唱された。しかしこれまで、オルガネラDNAがミトコンドリアのものか色素体のものかさえ区別されていないため遺伝学的証拠との比較が曖昧なままであり、花粉形成過程を通しての詳細な観察報告もないため具体的な機構について不明な点が多かった。

 私は、花粉内のミトコンドリアDNAと色素体DNAを識別する手法を確立し、複数の植物種の花粉形成過程を通じてそれらDNA量を分子細胞学的に解析した。その結果、花粉第一分裂後の特定の時期に雄原細胞内でおこるオルガネラDNA量の増加または減少の制御が、両性遺伝するか母性遺伝するかという細胞質遺伝様式を決定していること、さらにそのDNA制御機構はミトコンドリアと色素体とで独立していることを見出した。

2、結果および考察(1)押しつぶし展開-DAPI染色法によるオルガネラの識別と経時的解析

 花粉におけるオルガネラDNA識別法の開発にあたり、精細胞内にミトコンドリアDNAと色素体DNA両方ともが存在する植物、ゼラニウム(Pelargonium zonale)を用いた。従来、花粉オルガネラDNAの観察に用いられていた押しつぶし-DAPI(4’,6-diamidino-2-phenylindole)染色法(Miyamura et al.1988)では、試料の展開が不十分なために両オルガネラDNAの識別ができなかった。そこで、グルタールアルデヒド固定液の濃度を1%から0.25%へ下げ、押しつぶしの圧力と方向を変えることにより精細胞の内容物をプレパラート上に展開させる新しい条件をみつけ、押しつぶし展開-DAPI染色法と名付けた(Fig.2)。この押しつぶし展開-DAPI染色法では、互いに独立した強い蛍光を放つ輝点として観察されるミトコンドリアDNAと、弱い蛍光のスポットが丸く並ぶ色素体DNAとが容易に識別できるようになった。位相差像ではミトコンドリアは明瞭に観察されないが、色素体は黒く形が確認できることも示された(Fig.3)。

 この手法を用いて、ミトコンドリアDNAと色素体DNAを区別しつつ、花粉形成の後期過程(花粉第二分裂前後)におけるオルガネラDNAの挙動を経時的に追跡した(Fig.4)。オルガネラあたりのDNA量を高感度顕微測光装置(VIMPCS)を用いて定量した結果、ミトコンドリアあたりのDNA量は観察期間を通して大きく変化しなかったのに対し、色素体あたりのDNA量は開花10日前から5日前にかけて少し増加した後急速に減少し、開花日には最大値の約20%、開花6時間後にはわずか4%の値にまで減少することが示された(Fig.4)。さらに、抗DNA抗体を用いた金コロイド免疫電子顕微鏡観察を行ったところ、金コロイド密度の定量結果は蛍光顕微鏡観察による結果と全く一致した(Table 1)。

 以上のようにゼラニウムにおいては、花粉形成後期過程で色素体DNAを減少する機構(母性遺伝の機構)が、不完全ながら作動し得ることが示された。しかしゼラニウムは両性遺伝型植物である。すなわち、両性遺伝型植物ではオルガネラDNAの減少がおこる以前に、消化しつくせない量のDNAが允分に増幅されている可能性があり、花粉形成前期過程(花粉第一分裂前後)を観察する必要性が示唆された。

(2)テクノビットDiOC6-DAPI二重染色法によるオルガネラの識別と経時的解析

 押しつぶし展開-DAPI染色法ではできなかった、花粉形成前期過程の観察も可能な、新たなオルガネラDNA識別法の開発を行った。材料としては、花芽誘導が容易であるため均一な花粉が豊富に手に入る、アサガオ(Pharbitis nil)を用いた。

 アサガオの開花時の成熟花粉をまず押しつぶし展開-DAPI染色法を用いて観察すると、雄原細胞内のオルガネラDNAはすべて、色素体と予想される位相差像で黒くみえる顆粒上にあった(Fig.5)。そこで、親水性テクノビット樹脂に包埋した成熟雄原細胞の同一切片を蛍光顕微鏡観察した後に電子顕微鏡観察するというテクノビット電顕法を用いてアサガオの成熟雄原細胞を観察したところ、DAPIの輝点はすべて色素体のものであり、ミトコンドリアにDNAは存在しないことが証明された。さらに、テクノビット樹脂切片に生体膜特異的染色剤であるDiOC6(3,3’-dihexyloxacarbocyanine iodide)染色を施したところ、ミトコンドリアと色素体の染めわけができることが明らかとなった。ミトコンドリアはDiOC6により円い均一な顆粒として明瞭に染色されるのに対し、色素体はごく弱く染色され、ときおり内部に完全に黒くぬける澱粉粒が見られる(Fig.7)。この染めわけの確実性は、先のテクノビット電顕法の他、電子顕微鏡観察等の結果と照らし合せて証明された。DiOC6-DAPIの二重染色法によって、花粉形成の全期間を通じてDNAの輝点がどちらのオルガネラのものかを蛍光顕微鏡だけを用いて簡便に調べることが可能になった。

 DiOC6-DAPI二重染色法を用いてアサガオ花粉形成過程を追跡したところ、花粉第一分裂直前・直後においてはミトコンドリア、色素体共にDNAを有していたが、分裂後急速に雄原細胞内のミトコンドリアDNAは減少・消失し、反対に色素体DNAは増加するということが示された(Fig.8,Fig.9)。花粉第一分裂後の一時期に雄原細胞のオルガネラDNAが増加するか減少するかが、成熟雄原細胞内のオルガネラの有無を決定している可能性が示された。

(3)花粉第一分裂後の雄原細胞オルガネラDNAの増減による細胞質遺伝様式の決定

 遺伝学的に細胞質遺伝様式が調べられている8種の植物{ゼラニウム(Pelargonium zonale)・バナナ(Musa acuminata)・キーウィ(Actinidia deliciosa)・アルファルファ(Medicago sativa)・ツツジ(Rhododendron maximum)・ベチュニア(Petunia hybrinda)・キンギョソウ(Antirrhinum majus)・シロイヌナズナ(Arabidopsis thaliana)}を材料に用いて、成熟雄原細胞を調べた結果、以下の4タイプに分類することできた(Fig.10)。1.ミトコンドリアDNA・色素体DNA共に存在するタイプ(m+p+)(ゼラニウム)、2.ミトコンドリアDNAは存在するが色素体DNAは消失しているタイプ(m+p-)(バナナ)、3.ミトコンドリアDNAは消失しているが色素体DNAは存在するタイプ(m-p+)(キーウィ・アルファルファ・ツツジ)、4.ミトコンドリアDNA・色素体DNA共に消失しているタイプ(m-p-)(ぺチュニア・キンギョソウ・シロイヌナズナ)、である。このうち数種においては、抗DNA抗体を用いた金コロイド免疫電子顕微鏡観察も併用し、オルガネラDNAの存在様式を確認した(Fig.11)。これら細胞学的観察から得られた成熟雄原細胞内のオルガネラDNAの有無と、既知の遺伝学的な証拠による細胞質遺伝様式とを比較した結果、オルガネラDNAが存在する場合は両性遺伝型(父性遺伝との報告を含む)であり、消失している場合は母性遺伝型であることが示された(Table2)。

 テクノビット樹脂切片のDiOC6-DAPI二重染色法を用いて8種の花粉形成過程を追跡し、VIMPCSを用いてオルガネラあたりのDNA量を定量したところ、花粉第一分裂直後には雄原細胞内のオルガネラにも栄養細胞内のオルガネラとほぼ同じ量のDNAが存在しているが、その後雄原細胞のオルガネラDNAは増加か減少かに振分けられた(Fig.12)。すなわち、成熟期の雄原細胞内にオルガネラDNAが存在する場合(+)は、花粉第一分裂後の雄原細胞でオルガネラDNAが増加し、成熟期に存在しない場合(-)は花粉第一分裂後に減少していた。この花粉第一分裂後のオルガネラDNAの増加・減少の制御がミトコンドリアと色素体とで独立しているために、最終的に4タイプ(m+p+,m+p-,m-p+,m-p-)が生じることになる(Fig.14)。以上のことから、高等植物の細胞質遺伝様式は、花粉第一分裂後の雄原細胞でおこるミトコンドリアと色素体それぞれのDNA量を増加か減少かに導く制御機構により決定されることが明らかになった。

3、まとめ

 (1)花粉形成後期過程において精細胞内のオルガネラDNAを簡便に識別できる、押しつぶし展開-DAPI染色法を開発した。その結果、典型的な両性遺伝型植物であるゼラニウムにおいて、開花前後の時期に色素体DNAを減少させる機構が不完全ながらも作動し得ることが見出された。両性遺伝となるためには、花粉形成の前期過程においてすでに色素体DNAが増加していることが示唆された。

 (2)花粉形成の前期過程を含む、全過程において雄原細胞内のオルガネラDNAを識別できる、テクノビット樹脂切片のDiOC6-DAPI二重染色法を、アサガオを用いて開発した。アサガオの花粉第一分裂後の雄原細胞で、ミトコンドリアDNAは速やかに減少・消失するが色素体DNAは増加することが見出された。花粉形成前期過程の中でも、この花粉第一分裂後における変化が、細胞質遺伝様式を決定するDNA制御機構であることが示唆された。

 (3)細胞質遺伝様式が知られている8種の植物種の花粉を用いてDiOC6-DAPI二重染色法による経時的観察を行った結果、両性遺伝する場合は花粉第一分裂後の雄原細胞内でオルガネラDNAが増加し、母性遺伝する場合はオルガネラDNAが減少するという共通の法則が見出された。高等植物の細胞質遺伝様式は、花粉第一分裂後の雄原細胞内オルガネラDNAの増減の制御により決定されること、またそのDNA制御はミトコンドリアと色素体とで独立に生じるためオルガネラの遺伝様式には4種類の組合わせが生じることが明らかになった。

Fig.1 花粉形成にみられる母性遺伝型と両性遺伝型の差異A.花粉形成過程、B.母性遺伝型と両性遺伝型の成熟花粉の比較。母性遺伝型の花粉精細胞にはオルガネラDNAが存在しないが.両性遺伝型には存在する。Fig.2 押しつぶし展開-DAPI染色されたゼラニウム成熟花粉の精細胞sn.精核、プレパラート上に精細胞の内容物が展開し、精核のまわりに多数のオルガネラDNAが観察できる。バーは10m。Fig.3 押しつぶし展開-DAPI染色によるオルガネラDNAの識別A,DAPI染色像.B.位相差像。AとBは同視野。矢頭(m).ミトコンドリア:矢印(p).色素体。ミトコンドリアDNAと色素体DNAが識別できる。Fig.4 ゼラニウム花粉形成後期過程を通じた雄原細胞または精細胞内のオルガネラDNAの変化DAPI.DAPI染色像.PC.位相差像.矢印.ミトコンドリア;矢頭.色素体;○.雄原細胞/精細胞のミトコンドリアDNA.●.雄原細胞/精細胞の色素体DNA;□.栄養細胞のオルガネラDNA。オルガネラあたりのDNA量はVIMPCSを用いて測定し、約170kbpのT4ファージを1Tとした相対値であらわす。雄原細胞/精細胞のミトコンドリアDNAは大きく変化しなかったのに対し、色素体DNAは開花前後に急激に減少する。Table.1 抗DNA抗体を用いた免疫電子顕微鏡観察におけるゼラニウム雄原細胞と精細胞内の金コロイド密度の測定controlは一次抗体処理をしないもの。G.雄原細胞:S.精細胞。色素体上の金コロイド密度のみが開花5日前から開花時にかけて減少した。Fig.5 アサガオ成熟雄原細胞の押しつぶし展開-DAPI法による観察A B.DAPI染色体;C.D.DAPI染色体と位相差体を重ねたもの。E.F.位相差体。B.D.FはA.C.Eの部分拡大体。矢印.ミトコンドリア.矢頭.色素体。DAPIの輝点は色素体と思われる顆粒上にある。バーは10m(A.C.E)と1m(B.D.F)。Fig.6 テクノビット電顕法によるアサガオ成熟花粉の観察A.DAPI蛍光顕微鏡像.B.同一切片の電子顕微鏡像。矢印.ミトコンドリア:矢頭.色素体.gn.雄原細胞、色素体にはDNAが存在するが、ミトコンドリアにはない。バーは1m。Fig.7 DiOC6-DAPI二重染色法よるアサガオ花粉のオルガネラの識別A.B.DiOC6像.C.D.DAPI像。AとC.BとDはそれぞれ同視野。gc.雄原細胞.vn.栄養核;gn.雄原核;矢印.ミトコンドリア.矢頭.色素体。DiOC6によりミトコンドリアは明瞭な顆粒として染色されるが、色素体はごく弱く染色される。バーは10m(A.C)と1m(B.D)。Fig.8 アサガオ花粉形成過程におけるDiOC6-DAPI二重染色法を用いた雄原細胞内のオルガネラDNAの観察A-C.DiOC6像.D-F.DAPI像。A,D.開花7日前(花粉第一分裂直後).B,E.開花5日前.C,F.開花2日前。矢印.雄原細胞のミトコンドリア;矢頭.雄原細胞の色素体。花粉第一分裂後ミトコンドリアDNAの蛍光は消失するが、色素体DNAの蛍光強度は増加する。バーは5m。Fig.9 アサガオ花粉形成過程を通じた雄原細胞内のオルガネラ DNA量の経時的変化●.雄原細胞のミトコンドリア;○.栄養細胞のミトコンドリア.■.雄原細胞の色素体;□.栄養細胞の色素体。VIMPCSを用いて定量化している。グラフ上方に花粉ステージの模式図を示す。花粉第一分裂後、雄原細胞内のミトコンドリアDNAは急速に減少し、色素体DNAは急速に増加する。Fig.10 成熟雄原細胞のDiOC6-DAPI二重染色法により分類された4タイプのオルガネラDNAの存在様式A.B.ゼラニウム(m+p+).C.D.バナナ(m+p-).E.F.キーウィ(m-p+):G.H.ペチュニア(m-p-)。A.C.E.G.DiOC6像.B.D.F.H.DAPI像。矢印(m).雄原細胞のミトコンドリア.矢頭(p).雄原細胞の色素体:gn.雄原核。ミトコンドリアDNAと色素体DNAの有無の4つの組合わせがすべてみつかる。Fig.11 抗DNA抗体を用いた免疫電子顕微鏡観察による成熟雄原細胞の観察A.ゼラニウム(m+p-).B.キーウィ(m-p+)。m.ミトコンドリア.p.色素体.gn.雄原核。DNAの局在を示す金コロイドは、ゼラニウムではミトコンドリア・色素体両方に存在するが、キーウィでは色素体にだけ存在する。Table.2 細胞学的観察と既知の遺伝様式との比較雄原細胞のオルガネラDNAが存在する(+)場合は両性遣伝型(B)か父性遺伝型(P)で、減少する(-)場合は母性遺伝型(M)である。Fig.12 4タイプの花粉形成過程を通じた雄原細胞のオルガネラDNAの変化A.ゼラニウム(m+p+),B.バナナ(m+p-),C.キーウィ(m-p+).D.ペチュニア(m-p-)。●.雄原細胞のミトコンドリア:○.栄養細胞のミトコンドリア.■.雄原細胞の色素体.□.栄養細胞の色素体。VIMPCSを用いて定量化している。グラフ右上に花粉ステージの模式図を示す。どのタイプも花粉第一分裂後に、雄原細胞のオルガネラDNAが増加か減少かに転じる。Fig.13 雄原細胞内オルガネラDNAの増加・減少の4タイプのモデル図花粉第一分裂後に雄原細胞オルガネラDNAの増加と減少がミトコンドリアと色素体とで独立して生じるため、最終的に成熟雄原細胞内のオルガネラDNAの有無に開して4タイプ(m+p+.m+p-.m-p+.m-p-)が生じ、各オルガネラが母性遺伝するか両性遺伝するかの遺伝様式が決定する。
審査要旨

 本論文は3章からなり、第1章では押しつぶし展開-DAPI染色法という花粉のオルガネラ識別法の開発と花粉形成過程を通した経時的解析について、第2章ではテクノビットDiOC6-DAPI二重染色法によるオルガネラの識別と経時的解析について、第3章では花粉第一分裂後の雄原細胞オルガネラDNAの増減により細胞質遺伝様式が決定されるという仮説の検証について述べられている。

 高等植物の細胞質遺伝様式は母性遺伝型と両性遺伝型とに大別され、細胞学的には成熟花粉の雄原細胞/精細胞内にオルガネラDNAが存在しないか存在するかの違いにあらわれる。しかしこれまで、そのオルガネラDNAがミトコンドリアのものか色素体のものか区別されていないため遺伝学的証拠との比較が曖昧なままであり、花粉形成過程を通しての詳細な観察報告もないため具体的な機構について不明な点が多かった。論文提出者はこうした観点から、花粉内のミトコンドリアDNAと色素体DNAを識別する手法を確立し、花粉形成過程を通じてそれらDNA量を分子細胞学的に解析することで、細胞質遺伝のメカニズムを解明することを目標として研究を行った。

 第1章で論文提出者は、典型的な両性遺伝型植物のゼラニウム花粉を用いて簡便なオルガネラDNA識別法の開発にあたり、「押しつぶし展開-DAPI染色法」を確立することに成功した。この手法を用いて、ミトコンドリアDNAと色素体DNAを区別しつつ、花粉形成の後期過程におけるオルガネラDNAの挙動を経時的に追跡した結果、ミトコンドリアあたりのDNA量は観察期間を通して大きく変化しなかったのに対し、色素体あたりのDNA量は開花前後に急速に減少することを見出した。さらに抗DNA抗体を用いた金コロイド免疫電子顕微鏡観察を行い、その定量性を証明した。以上のように両性遺伝型植物においても、花粉形成後期過程で色素体DNAを減少する機構(母性遺伝の機構)が不完全ながら作動し得ることを初めて示した。

 第2章では、材料を豊富に入手できるアサガオ花粉を用いて、花粉形成前期過程の観察も可能な新たなオルガネラDNA識別法の開発を行い、「テクノビットDiOC6-DAPI二重染色法」を確立した。識別の確実性は、テクノビット電顕法、免疫電顕法等を駆使して、確認された。花粉形成の全過程を追跡したところ、花粉第一分裂直前・直後においてはミトコンドリア、色素体共にDNAを有していたが、分裂後急速に雄原細胞内のミトコンドリアDNAは減少・消失し、反対に色素体DNAは増加するということが示された。このことから、花粉第一分裂後の一時期に雄原細胞のオルガネラDNAが増加するか減少するかが、成熟雄原細胞内のオルガネラの有無を決定している可能性が示された。

 第3章では、細胞質遺伝様式がすでに調べられている複数種の植物を用いることで、2章で示された「花粉第一分裂後の雄原細胞オルガネラDNAの増減により細胞質遺伝様式が決定される」という仮説を検証した。8種の植物の雄原細胞を、経時的にテクノビットDiOC6-DAPI二重染色法により観察した結果、以下の4タイプに分類することできた。1.花粉第一分裂後に雄原細胞内のミトコンドリアDNA・色素体DNA共に増加するタイプ(m+p+)(ゼラニウム)、2.ミトコンドリアDNAは増加するが色素体DNAは減少・消失するタイプ(m+p-)(バナナ)、3.ミトコンドリアDNAは減少・消失するが色素体DNAは増加するタイプ(m-p+)(キーウィ・アルファルファ・ツツジ)、4.ミトコンドリアDNA・色素体DNA共に減少・消失するタイプ(m-p-)(ペチュニア・キンギョソウ・シロイヌナズナ)、である。これら細胞学的観察から得られた雄原細胞のオルガネラDNAの増減と、既知の遺伝学的な証拠による細胞質遺伝様式とを比較した結果、オルガネラDNAが増加する場合は両性遺伝型であり、減少する場合は母性遺伝型であることが示された。以上のことから、高等植物の細胞質遺伝様式は、花粉第一分裂後の雄原細胞でおこるミトコンドリアと色素体それぞれのDNA量を増加か減少かに導く制御機構により決定されることが明らかになった。

 論文提出者は「DNAを視る」ための複数の手法を常に併用し確認することで、確実な2種類のオルガネラ識別法を確立することに成功した。さらにその手法を用いて経時的な解析を行うことで、花粉形成過程で劇的なオルガネラDNA量の増減が生じていること、及びミトコンドリアと色素体とではその制御機構が独立していることを初めて見出した。そして、花粉形成過程の中でも花粉第一分裂後の早い時期における雄原細胞特異的なオルガネラDNAの増加・減少が、細胞質遺伝様式を決定していることを証明した。こうした一連の研究を通して、高等植物の細胞質遺伝のメカニズムを突止めたという点で、本論文提出者の業績は特に優れているといえる。

 なお本論文は、斉藤智恵子氏、酒井敦氏、黒岩晴子氏、黒岩常祥氏(第1章はさらに蘇都莫日根氏も加わる)との共同研究であるが、論文提出者が主体となって解析および検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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