学位論文要旨



No 113303
著者(漢字) 向井,貴彦
著者(英字)
著者(カナ) ムカイ,タカヒコ
標題(和) チチブ属魚類(スズキ目ハゼ科)の同胞種群における多所的・多重的雑種形成と生殖隔離の維持機構に関する研究
標題(洋) The Studies on the Multiple and Multiregional Hybridization and Reproductive Isolation of the Sibling Species Complex of the Genus Tridentiger (Perciformes,Gobiidae)
報告番号 113303
報告番号 甲13303
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3449号
研究科 理学系研究科
専攻 生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森澤,正昭
 新潟大学 助教授 酒泉,満
 東京大学 講師 上島,励
 千葉県立中央博物館 研究員 宮,正樹
 東京大学 教授 嶋,昭紘
内容要旨

 ハゼ科魚類は熱帯から温帯にかけて分布する小型の真骨魚である。そこには約212属1875種程度の種が知られており、未記載のものも多いことから脊椎動物の中でも最も大きな"科"の一つであると考えられている。それらの多くは海水や汽水に生息しており、しばしば淡水性の種も見られる。日本にも淡水性ハゼ科魚類のチチブ属、ヨシノボリ属、ウキゴリ属などが生息しており、その中のチチブ属魚類(Tridentiger)は、主に河川の河口域や干潟のような汽水環境に生息している。現在のところチチブ属魚類には7種が知られているが、それらチチブ属魚類の内、チチブ、ヌマチチブ、ナガノゴリの3種(狭義のチチブ類)は形態的に酷似しているにもかかわらず、汽水性と淡水性に分化している。これらチチブ類の形態的類似性は、その種分化が比較的新しい出来事であるか、あるいは現在まだ種分化の途上にあるかもしれないことを示唆しており、淡水と海水という異なる環境の接点である汽水域において、一方の環境から他方の環境へと適応し、新しい「種」を生じる過程を明らかにするために適した材料であることを示している。そこで、これらチチブ類の遺伝的・系統的関係、生殖隔離の有無とその程度、種形成をめぐるダイナミクスを明らかにするために、二つの遺伝学的アプローチ、すなわちアロザイムならびにミトコシドリアDNA(mtDNA)の塩基配列に見られる多型を用いた解析をおこない、遺伝的・系統的関係を復元した。また、雑種個体群である茨城県の涸沼において年間を通じた採集をおこない、雑種の生じる頻度、季節変化、形態的特徴を明らかにすることで、生殖隔離の機構について考察した。

1.酵素多型からみたチチブ属の遺伝的分化

 まず、チチブ属魚類7種についてそれぞれの間でどの程度の遺伝的分化を遂げているかを推定するためにアイソザイム分析をおこなった。10種類の酵素タンパク質から14遺伝子座を推定し、比較した結果、いくつかの遺伝子座では異なる対立遺伝子がそれぞれの「種」で固定していることが明らかになった。特に、狭義のチチブ類であるチチブ・ヌマチチブ・ナガノゴリの3種類は色彩以外の形態形質では厳密に区別することはできないが、酵素タンパク質の電気泳動像を比較したところ、チチブが他の2種(ヌマチチブ・ナガノゴリ)とは明瞭に異なることが明らかになった。調べた14遺伝子座のうち、チチブでは他の2種に対して3つの遺伝子座で異なる対立遺伝子が固定しており、根井の遺伝的距離にして0.5前後もの大きな違いがあった。それに対してナガノゴリとヌマチチブは酵素多型から見た限りでは非常に類似しており、対立遺伝子が置換していると思われる遺伝子座は一つ、遺伝的距離にすると0.19程度であり、系統的に近縁であることが示唆された。

 図1は、チチブ・ヌマチチブ・ナガノゴリの採集地点とチチブ属7種類の間の遺伝的距離をもとに描いた表形図である。地理的に離れた複数地点から採集したチチブとヌマチチブで比較しても、チチブはチチブ同士、ヌマチチブはヌマチチブ同士で遺伝的に極めて類似しており(遺伝的距離にして0.00〜0.03)、また少数個体ではあるが同所的生息地である茨城県涸沼において調べた結果も同様であった。このことは、これら2つの「種」の間に生殖隔離が存在することを示唆している。

図1 アイソザイム分析によるチチブ属魚類の遺伝的関係
2.mtDNAの移入交雑

 7種類のチチブ属魚類はそれぞれ遺伝的に大きく異なっていることが明らかになったので、mtDNAの中のチトクロームb遺伝子の部分塩基配列を決定、比較した。ところが、日本各地から得られたチチブとヌマチチブの塩基配列は非常に類似しており(配列の違いは3%以下)、両「種」で全く同じ塩基配列が得られることもあった。しかし、両「種」とナガノゴリやシマハゼ類との間に大きな塩基配列の違い(約11〜20%)が認められたことは、チチブとヌマチチブの塩基配列の類似が、チトクロームb遺伝子の分子進化速度が遅いことに由来するものではないことを示している。また、同所的生息地である茨城県涸沼の標本から見つかったチチブとヌマチチブの雑種2個体を含めた合計64個体のチチブ類及びシマハゼ類についてチトクロームb遺伝子の部分塩基配列(402塩基対)を決定、比較した。その結果、近隣結合法・最節約法・最尤法のいずれによって解析してもチチブとヌマチチブのハプロタイプは一つのクレードの中に混在し、2つの分類群に分けることはできなかった(図2)。こうしたアイソザイム分析とミトコンドリアDNAの解析結果の不一致を解釈するうえで考えられる可能性は、チチブとヌマチチブがごく低頻度であっても交雑していることによるmtDNAの移入である。すでに多くの動物で知られることとなったが、mtDNAは核遺伝子に比べて交雑による相手の生物の集団中への移入が起きやすい。その理由としてはmtDNAが母性遺伝をすることによって、実際の個体数に対するミトコンドリア遺伝子の集団の有効な大きさが核遺伝子より小さいことがあげられる。方法論的にも、アイソザイム分析は多くの遺伝子座で集団間の違いを見ているため、いくつかの遺伝子座で交雑による遺伝子の移入が起こったとしても、祖先集団での多型が残っているのか、それとも交雑によるものなのか判断できない。したがって、「mtDNAの系統」は確かにチチブ・ヌマチチブが「単系統」であることを示しているのだが、おそらく、それはこの2「種」の「mtDNA」の移入交雑による結果を示しているものと思われる。

図2 近隣結合法によるmtDNAハプロタイプの系統樹
3.多所的・多重的移入交雑過程の復元

 チチブとヌマチチブのmtDNAは、移入交雑によって「種」の系統をあらわさなくなっていると思われたため、先ほどよりやや短い322bpの塩基配列をより多くの個体について決定し、その地理的変異と系統、雑種個体群内での変異をもとに移入交雑過程の復元を試みた。全部で128個体のチチブとヌマチチブ及び雑種個体のmtDNAの部分配列を比較したところ、mtDNAハプロタイプは26種類が確認され、それらは系統的に3つのサブグループに分けることができた。これら3つのサブグループにはチチブ・ヌマチチブの両種がそれぞれ含まれており、その分布は、1)本州太平洋岸、2)九州〜西日本太平洋岸、3)日本海〜東北太平洋岸に対応してしていた。各サブグループ間の遺伝的距離をもとに分岐年代を試算すると少なくとも20万年以前の分岐が示唆され、過去の地質時代における太平洋、東シナ海、日本海の間での分断と、その後の海流による分散を想像させる。

 また、同所的生息地である涸沼における両種と雑種のmtDNAの変異を調べた結果、F1雑種は常にヌマチチブと同じハプロタイプを共有しており、ヌマチチブからチチブへというmtDNAの移入交雑の方向を示した。そこで、推定されたmtDNAハプロタイプの系統樹上に、ヌマチチブ→チチブというmtDNAの一方向の移入を仮定してミトコンドリア遺伝子の移入の回数を復元した(図3)。その結果、少なくとも各サブグループの中で2〜3回以上のミトコンドリア遺伝子の移入が生じていることが推定された。移入の方向を仮定しない場合、遺伝子移入の回数は減少し、ミトコンドリア遺伝子の移入の方向は逆に復元されたが、実際の雑種個体群における移入の方向、ハプロタイプの変異パターンと明らかに矛盾するため、一方向の仮定を置いた復元の方が妥当であると思われる。したがって、チチブとヌマチチブは両「種」が分化するような隔離があった後、分布が重複し、そして両「種」を内包した3地域の中で数十万年レベルの交雑によって繰り返し遺伝子移入を続けてきたものと考えられる。

図3 系統樹上でのミトコンドリア遺伝子の移入の復元
4.同所的集団における交雑と形態変異

 最後に、チチブとヌマチチブが同所的に生息する涸沼において、雑種の出現頻度と両種の形態形質を比較した。1996年7月から1997年9月までの間に採集した586個体の内、F1雑種は1.7%、チチブへの戻し交配は2.0%、ヌマチチブへの戻し交配は1.4%含まれており、残りの94.9%は調べた酵素遺伝子座に関して交雑の痕跡のないチチブとヌマチチブであったことから、配偶者認識の段階での生殖隔離の存在が示唆される。また、戻し交配と推定される遺伝子型は、何世代にもわたって観察されるはずだが、F1と同様にわずかな頻度しか観察されなかった。したがって、生殖隔離機構として交配前隔離とともに雑種崩壊(hybrid breakdown)も存在することが示唆される。

 形態変異は、生態に関わりが深い胸鰭条数と鰓把数を計数した。涸沼で採集された両種とその雑種以外にも、関東地方の他の5カ所で採集されたチチブとヌマチチブを比較した。その結果、この2形質は、おそらく遺伝的に支配されていること、涸沼のチチブとヌマチチブは種間競争によって形態的に分化するのではなく、むしろ(交雑の影響によってか)類似している傾向が見られた。こうした形態進化の方向性、ならびに生殖隔離の強化の有無については、本研究によって明らかになった種分化の歴史的過程をもとにした、より生態学的アプローチによって明らかになるものと思われる。

審査要旨

 本論文は4章からなり第一章は酵素多型からみたチチブ属の遺伝的分化、第二章はmtDNAの移入交雑、第三章は多所的・多重的移入交雑過程の復元、第四章は同所的集団における交雑と形態変異について述べられている。その概略は以下のとおりである。

 ハゼ科魚類は約212属1875種程度の種が知られており、脊椎動物の中でも最も大きな"科"の一つである。その中のチチブ属魚類(Tridentiger)は7種が知られており、チチブ、ヌマチチブ、ナガノゴリの3種(狭義のチチブ類)は形態的に酷似しているにもかかわず、汽水性と淡水性に分化している。これらチチブ類の形態的類似性は、その種分化が比較的新しい出来事であるか、あるいは現在まだ種分化の途上にあるかもしれないことを示唆しており、淡水と海水という異なる環境の接点である汽水域において、一方の環境から他方の環境へと適応し、新しい「種」を生じる過程を明らかにするために適した研究材料である。本論文では、これらチチブ類の遺伝的・系統的関係、生殖隔離の有無とその程度、種形成をめぐるダイナミクスを明らかにし、生殖隔離の機構の進化について考察した。

第1章.酵素多型からみたチチブ属の遺伝的分化

 まず、チチブ属魚類7種についてそれぞれの間でどの程度の遺伝的分化をとげているかを推定するためにアイソザイム分析をおこなった。その結果、形態形質では厳密に区別することはできないチチブ・ヌマチチブ・ナガノゴリの3種類の間で明らかな遺伝的分化が存在することが明らかになった。

第2章.mtDNAの移入交雑

 7種類のチチブ属魚類はそれぞれ遺伝的に大きく異なっていることが明らかになったが、mtDNAの中のチトクロームb遺伝子の部分塩基配列(402塩基対)を決定、比較したところ、チチブとヌマチチブの塩基配列は非常に類似していた。また、系統解析の結果、チチブとヌマチチブのmtDNAは2つの分類群に分けられない事が明らかとなった。こうしたアイソザイム分析とミトコンドリアDNAの解析結果の不一致は、チチブとヌマチチブがごく低頻度であっても交雑していることによるmtDNAの移入であり、これらの魚類における「mtDNAの系統」は「種の系統」ではなく移入交雑の歴史を反映しているものと考えられた。

第3章.多所的・多重的移入交雑過程の復元

 チチブとヌマチチブのmtDNAは、交雑によって「種」の系統をあらわさなくなっていると思われた。そこで、チトクロームb遺伝子の部分塩基配列をより多くの個体について決定し、その地理的変異と系統、雑種個体群内での変異をもとに遺伝子移入の過程の復元を試みた。その結果、それらは系統的に1)本州太平洋岸、2)九州〜西日本太平洋岸、3)日本海〜東北太平洋岸の3つのサブグループに分けることができた。各サブグループ間の遺伝的距離をもとに分岐年代を試算すると少なくとも20万年以前の分岐が示唆され、過去の地質時代における太平洋、東シナ海、日本海の間での分断と、その後の海流による分散を想像させた。また、同所的生息地である涸沼における両種と雑種のmtDNAの変異を調べた結果、ヌマチチブからチチブへというmtDNAの移入の方向を示した。

 これらの結果をもとに、遺伝子移入の系統的復元をおこなった結果、mtDNAが各地域の中で2〜3回以上の移入が生じたことが推定された。したがって、チチブとヌマチチブは両「種」が分化するような隔離があった後、分布が重複し、そして両「種」を内包した3地域の中で数十万年レベルの交雑によって繰り返し遺伝子移入を続けてきたものと考えられた。

第4章同所的集団における交雑と形態変異

 最後に、チチブとヌマチチブが同所的に生息する涸沼において、雑種の出現頻度と両種の形態形質を比較した。その結果F1雑種は1.7%、戻し交配は2.4%含まれており、残りの94.9%は調べた酵素遺伝子座に関して交雑の痕跡のないチチブとヌマチチブであったことから、配偶者認識の段階での生殖隔離の存在が示唆された。また、戻し交配と推定される遺伝子型は、F1と同様にわずかな頻度しか観察されなかった。したがって、生殖隔離機構として交配前隔離とともに雑種崩壊(hybridbreakdown)も存在することが示唆された。さらに形態変異として、生態に関わりが深い2つの形質(胸鰭条数と鰓把数)について比較したところ、生殖隔離機構の進化に種間競争は重要ではない可能性が示唆された。

 なお、本論文の第1章は、森澤正昭・嶋昭紘・成瀬清・佐藤寅夫・稲葉一男との、第2章は森澤正昭・嶋昭紘・成瀬清・佐藤寅夫との、第3章は森澤正昭・嶋昭紘・成瀬清・佐藤寅夫との、第4章は森澤正昭・佐藤寅夫との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析、検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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